2日目(夜)
彼はホテルへ戻ると、帰着が夜遅くなったことをフロントに謝り、出せるものを夕食として出してもらい、そのままシャワーを浴びてベッドへと潜り込んだ。
ホテルの中は快適だったが、そんなものは今は必要ではなかった。今は一刻も早く寝て記憶を中断させて、すぐに明日の朝を迎えるのが最も必要だ。
だが、人間というのは不思議で、意気込んで寝ようとするとなかなか眠れなくなるものだ。彼の泊まっている部屋は海に面していて、満月の夜の月明かりが静かな波の上に揺れて柔らかい明かりを彼の部屋に注ぎ込んでいた。彼は何度か寝返りを繰り返し、眠れそうな位置を探したが駄目だった。仕方なく彼は起き上がって、水の中にいるようなぼんやりと幻想的な部屋の中で備え付けの冷蔵庫からワインを取り出した。そしてそれを飲んで再びベッドの中へと入った。
彼は寝たまま天井を見つめた。観光客は少ないとはいえやはりリゾート地なのか天井にシミはなく、しっかりと掃除が行き届いているようだった。彼はしばらく天井を見ていた。すると少ししてから視界が横に細く長くなり、天井がぼんやりとしてきて、視界は黒く何も見えなくなった。
彼は静かに寝息をたてて寝ていた。
彼が再び目を覚ましたのは夢の中だった。あの遺跡のところで見た夢の続きだ。
彼が目を覚ましたとき、彼の視界には砂浜と木々たちが横倒しになっていた。彼は自分が倒れていることに気づいた。彼は体を起こした。背中を何か強い力で押されたことを思い出す。
彼は辺りを見回した。周りの人に聞いて何事か確認したかったからだ。しかし彼の周りにいたはずの人は誰一人としていなかった。そこは自分が考古学者として訪れた遺跡そのままにひっそりとした時間が流れていた。
彼は、あの景色は錯覚だったのかと思った。しかし彼の姿かたちは古の民のもののままだった。彼はもう少し詳しく辺りを見た。すると辺りには腕輪や耳飾り、神事用の楽器などが置きっ放しになっているのがわかった。彼は村の人たちがどこかへ逃げてしまったのかもしれないと思った。自分が聞いた爆発のような音が何かの異変で、それに怯えて自分を置いて村へ帰ってしまったのではないかと思った。
彼は村へ帰ることにした。そうすればたぶん、逃げ帰った人々が、その事件に怯えつつも、人々が怪談話をわざわざしたがるように、怖いものは怖がりつつも話したいと思うものだから、その事件について語り合っていることだろう。
彼は安心した気持ちで村への道を戻った。とはいえ、誰か自分を運んでくれなかったものかと不満に思ってはいた。
しかし彼の考えは間違っていた。彼が村に着くと、村には誰の姿もなかった。彼は、たぶんまだ皆は逃げ回っていて、まだ村へ戻っていないのだろうと思った。彼は待つことにした。いつの間にか空は明るくなっていて、太陽も水平線から顔を出し始めていた。
やがて太陽は天高く昇った。しかし誰も帰ってこなかった。やがて太陽は沈んだ。それでもまだ誰も帰ってこなかった。彼は三日待った、四日待った。誰も村へ姿を見せなかった。彼は七日待った。そして八日目の朝、彼が眠りから目を覚ますと、今までのものが全て幻だったと言わんばかりに、突如として世界は消えていた。
彼の視界はどこからどこまでも真っ白だった。まるで全てが消しゴムで消されてしまったかのようだった。彼は訳が分からず呆然としていた。これを彼は幻覚だと思った。しかし自分を何度殴りつけても、ほおをつねってみてもその景色はかわらなかった。
彼は不安になって膝を抱えて座り込んだ。こんな中で自分はずっと一人だろうか、ここに死ぬまでいるんだろうかと。
——ようやく見つけました。アイデントさん。
突然、聞き覚えのある声がした。彼は顔を上げた。目の前にはなんと彼女の姿があった。彼女は彼の前で笑顔で彼を見ていた。彼は立ち上がり、彼女に抱きつこうとした。しかし彼の体は彼女を通り抜ける。
彼は驚きに満ちた顔で彼女を見った。彼は何度も彼女に触れようと試みたがそれはできなかった。
——アイデントさん。ごめんなさい。私はもう、あなたには触れられないの。
「なんでですか!」
——あなたは大切なことを忘れているわ。それを教えに来ただけなの。だから私に触ることはできないの。
「僕は君に触れたい!」
——あなたは私の大きな欠点を知っているはずだわ。そしてそれはあなたを滅ぼすことだとも。
「僕は滅んでも良い!」
——でも私には無理よ。だってあなたを滅ぼしたくないもの。
そう言うと彼女は、彼に微笑みかけ、そして光の粒のようなものに変わっていき、やがて消えてしまった。
彼の目には涙が溢れていた。そして崩れるように膝を折って、床に座った。
それからどのくらいの時間だ経っただろう。彼は座ったまま、魂が抜けたようになっていた。しかし彼の周りは変わっていた。彼の周りでは真っ白だった空間に草が生え、森ができ、やがて村ができて経済が発展していき街になり、都市へと変わった。
彼が我を取り戻したときには彼はもとの白人に戻っており、服もブラウスにズボン姿という普通の姿だった。彼が生活しているとおりの、彼が現在、生きているべき姿だった。彼は立ち上がった。見回すとその街は自分が住んでいる街だった。見慣れたビル、見慣れた店、見慣れた家々があった。アスファルトの敷かれた道は砂浜よりも歩きやすかった。そしてなによりも周りにたくさんの人がいた。そしてその人たちは消えてしまう心配はなかった。
彼は職場へと向かった。
——ジリジリジリジリン!
突然、遠くからけたたましいベルの音が聞こえた。なんだろうと思っていると、やがて彼の頭にその音が突き刺さって来た。そしてその音は彼から夢の世界を引き剥がし、彼に覚醒という毎朝行われている営みを強いた。彼は目を開けた。朝であった。