2日目(2)
彼が再び目覚めると、目の前には燦燦と輝く太陽に照らされて眩しいばかりに輝く砂浜が広がっていた。彼は自分の体を確かめた。すると彼の体は元に戻っており、調査を諦めて木陰に座ったときとなんら変わりがなかった。
——夢、だったのか。
彼はそう思い、しばし呆然としていた。あれはいったいなんだったのだろうか。あの村は、あの祭りは、あの女性は。そしてあの大きな音は——。
彼はさっと目を細めた。天頂近く昇った太陽の眩しい反射光が目に痛く突き刺さったのだ。寝ている間にサングラスが外れていたらしい。彼は辺りを見回した。サングラスはすぐに見つかった。それは足下に落ちていた。
彼がそれを拾い上げると、彼はその近くに何かきらきらするものが埋まっていることに気づいた。手で砂をかき分けて確認してみるとそれは貝殻で作った腕輪だった。古の民が落としたのかそれとも何かの意図があってここに埋めたのか。彼は一応その周りの砂をさらに落として、はっきりと形が見えてきたところでその腕輪の様子を写真に撮って特徴をメモし、外形のスケッチもした。そして周りの砂をかけて元の状態に戻し、明日来たときに掘り出せるように地点を記録しておいた。
彼の思考は再びあの女性へと戻った。細身の男との約束の時間まではまだあった。海岸沿いを歩いて村へと戻ってしまうのも手だが、わざわざ迎えに来てくれるというのなら、それに従わない道理もないだろう。それに彼にはある程度のガイド代を払うことになっている。それくらいの特権は許されているだろう。
彼は木陰で座ったまま、ぼうっと海を眺めた。あの見覚えのある女性は誰だったのか。それとも単なるデジャブだったのか。夢の中の話だが、それは彼を異様に惹きつけ離れなかった。
古代の息吹か、森の精霊か、学者がそんなことを考えるのもどうかと思うが、遺跡に宿った何かの魂が彼に移って夢の中に幻覚を見せたのか。それなら彼女に見覚えがあるのは納得ができた。彼はずっとこの遺跡を見ていた。彼女が遺跡に宿る存在なら、彼はついさっきまで彼女を見ていたのだから。
だが彼にはそのようには思われなかった。これはもしかしたら誰かの記憶なのかもしれない。古代の名前もわからぬ人の、会ったことも、その存在さえ今の誰もが覚えていないであろう人の、記憶の一瞬かもしれない。彼はその人物が羨ましいと思った。あれほど軽快に、あれほど心踊るような踊りを自分は舞えるだろうか。近代社会という巨大な機械の中で、労働者という一存在になった自分が、市場と時間という目に見えない巨大なシステムが支配する現在で、あれほど開放的になることができるだろうか。
彼が記憶を垣間見た彼はあの後どうなっただろうか。彼女と婚約を結んだのだろうか。そこから紡がれた生活の詩はいったいどれほどの価値があるのか。
彼は立ち上がって再び遺跡を眺めた。先ほどから全く姿は変わらない。しかし今まで冷たい忘れられた遺構だと思っていたものが、どっぷりと染み付いた人間の気配を、大事に中へと仕舞い込み、その記憶をひっそりと愉しんでいるように見えた。彼はそれをスケッチしたい気分になった。学術的なスケッチではなく、芸術的な絵画としてのスケッチだ——自分にそのような才能があるとは思ってはいないが。
彼が今ここにキャンバスがあったらどのような絵を描こうかと思い描いた。
中央には遺跡があり、砂浜と森がその前後を挟むようにある——いわば今自分が見ている景色だ。そしてその周りに、残像のように半透明で輪郭のはっきりとしない人々を描く。人々は踊っている。過去と現在という二つの時元が繋がり、それが素朴でかつ幻想的で美しい空間の中で。
彼はペンを取り出して、持ち合わせのノートにそれを描いてみた。しかしそれはあまりにも思い描いたものとはかけ離れた出来で、彼は下書きを描いただけでノートを仕舞った。
彼は恍惚とした様子で遺跡を眺めた。これが現役だった時代に、彼女や彼が生きていた時代に生まれていれば、と思った。彼の様子は高いおもちゃを前にして買えずにもどかしい思いをしている子供にも似ていた。ふと彼は、自分の心に考古学的な興味が再び湧いていることに気づいた。この遺跡が思い出させてくれたのだ。博士論文を描いたときの古代への情熱を。
しばらくすると細身の男がやって来た。いつのまにか約束の時間になっていた。
「すばらしいことが、わかりましたか?」
男は話しかけて来た。
「まだ試験的な調査なので、はっきりしたことはわかりません。ですが、なかなか良いものです。それに、こんなものが」
彼はそう言って、男にさっき発見した腕輪のスケッチを見せた。男はそれが何かわからないようであったが、腕輪だと説明してやると納得したようだった。
彼らは砂浜沿いに再び歩いて村へと帰った。彼は男にガイド代を支払ったが、それは少し多めにしておいた。男は戸惑ったようだったが、彼は素晴らしい遺跡を見せてもらったお礼だと言って男に受け取らせた。すると男は、昼食の残りがまだあるから食べていってくれないかと誘ったので、彼もそれに快く応じた。
男の家に招かれると、昨日見た子供達が嬉しそうに寄って来て彼を迎えた。母親はまた子供達を引き剥がそうとしたが、彼は笑ってこのままで構わないことの意思表示をし、申し訳なさそうにする男の妻に導かれて、部屋の中央に置いてあった昨日と同じ敷物の上に座った。
出されたものは実に素朴なものであった。芋をペースト状にしたものや、蒸した魚、それと少しの野菜であった。
彼がそれを食べ終わると、細身の男は、子供達が彼と遊びたがっていることを告げた。彼はそれを快く承諾し、男の子供達と共に玄関へ向かった。
彼はもともとは男の子供達とだけ遊ぶつもりだったが、彼が外に出るやいなや、彼が細身の男の子供と一緒にいるのを見たからなのか、他の子供も寄ってきて、すぐに大所帯となった。子供達は好奇心旺盛で、彼とさまざまなことをしたがったが、彼はある小さな一人の男の子が彼に集まる他の子供達の様子を遠くからひっそりと見ていることに気づいた。その子は小柄で、彼の周りを取り囲む子供たちよりも色白だった。彼はその子が気になり、その子のところへと寄っていったが、その子供は彼が近づいてきたのに気づくと、どこかへいなくなってしまった。
それからその子供は姿を見せなかった。彼はその子について、細身の男に聞こうと思ったが、子供達がなかなか離してくれず、結局はその子供のことについて聞けないまま夕方になってしまった。
彼は子供達に別れを告げ——かなり大変だったが——細身の男に案内してもらい、砂浜へと抜けた。彼は男との別れ際に例の気がかりであった子供について聞いてみた。
「あの、こどもは、からだが、よわいんです。さいきんは、びょうきがちで、たいちょうも、すぐれないようです。ですから、あそびたくても、あそべなかったんでしょう」
彼は少し考えて、男に明日その子供の家へ案内してくれないかと頼んだ。男は少し驚いたようだったがすぐにこやかになって、「たぶん、あのこも、よろこぶでしょう」と言って承諾してくれた。そして彼は砂浜に着くと男に明日会う時間の約束をし、別れを告げた。
そのあと彼はしばらく砂浜で海を見つめて立っていた。砂浜から眺める夕焼けが実に美しかったのだ。オレンジ色の太陽が、凪いで静かになった水面の上に乗っかるように水平線に接し、だんだんと沈んでいく。ゆっくりとした時間が流れ、それでいてダイナミックだった。
ふと彼に、ひとつの考えが浮かんだ。それは彼がこ近代とは比喩的に別の世界だと思っていたここは、実は現実的に全くの別次元で、それは人間的本質が存在する世界なのだと。そして彼が今、帰るべき世界は偽りであって、あの村が真理なのだと。
彼はもう少し海を眺めていようかと思った。偽りへ帰る前に、真理に少しでも多く触れているために。だがこれ以上ここにいるのはまずかった。ホテルへ帰れなくなる。彼は仕方なくバス停へと向かった。
彼の気分は落ち込んでいた。彼はあの村に一晩泊まりたい。設備も料理も圧倒的にホテルには劣るだろうが、村に残る原初の香りはそれらの利点比べられないほど勝るものなのだ。いっそのこと最終のバスを逃してしまおうか。だが彼はその考えを首を振って捨てた。彼はあの村への道はわからない。最終バスを逃してしまえばこんなところで野宿してしまうことになる。南の島だから凍え死ぬということは無いだろうが、食糧も満足にないし、寝るための用具もない。流石にそれは非現実的すぎた。
バス停までは二十分ほどかかった。太陽はすでに水平線の下に隠れていた。バスはすでにバス停に止まっていた。バスはここが始発だから急いで乗らなくても問題はない。バスは彼を文明へと連れていく連行者だ。砂浜へ通じる道とバスの通る道の境目で彼は時代を超える。そこから先はもう、古代の気配はない。彼は寂しい思いでバスへと乗り込んだ。