2日目
彼は浜辺で昨日の細身の男を待った。
男は彼が着いてから十分ほどしてやって来た。男は昨日とほとんど変わらない服装で、服の色が変わった以外、変化はないように見えた。男は彼に会うとすぐに小さな挨拶を交わし、長老に調査の許可が取れたことを知らせ、森の中へ入って行った。
男は昨日と同じ道を進み、村へ着くと今度は男の家とは別の家に彼を案内して、そこの家主に会わせた。家主は白髪を生やした痩せこけた男性で、白い服を着ていた。この村の長老ということだった。彼は細身の男を通訳として長老に挨拶し、長老は今は私たちは別の宗教だからあの遺跡は弄っても構わないが、失礼なないように扱ってくれということだった。彼がそれを承諾すると、長老は笑顔で握手を求め、彼もそれに応じた。
彼は男に連れられて長老の家を出た。
彼らは村が面する砂浜に沿って島のさらに奥の方へと進んだ。進むに連れて、だんだんと木々の隙間から反対側の砂浜が見えるようになり、環礁の幅が狭くなっているのだとわかった。やがて大きな木々はなくなり、背丈くらいの木々ばかりになって島の突端に近づいた頃、海岸に面して、テーブルのような平たい岩と、その周りを囲むように一メートルくらいの柱が四本立てられた構造物が見えて来た。
細身の男はその構造物を指して、
「あそこが、いせきです。このあたりからは、しずかに、してください」
と言った。今までもあまり会話はなかったが、地元民にとっては繊細なことなのだろう。彼は少なかった会話をさらに減らし、声も囁くくらいにした。
やがて彼は遺跡の前に立った。彼は男に言われるまま海に向かってひれ伏した。彼はそこまで敬虔に神をしんじているわけではなかったから、あまり抵抗はなかった。
彼は遺跡をしげしげと見始めた。男が台の上には乗らないようにと言ったので、遺跡の周りをぐるぐる回った。
「この遺跡の近くで何か人が造ったようなものを見かけませんでしたか」
彼は男に聞いてみた。男は少し考る素振りを見せると、
「ナイフのようなものを、みつけたことがあります」
と言った。彼はそれを聞いてしばらく考えたあと、男に帰っても構わないと告げ、他に何か注意事項はないか確認してから、三時間後に迎えに来るよう告げて男を帰した。
彼は何度も遺跡の周りを回った。適当なところで砂を掘ってみようと考えたが、あいにく移植ごてを忘れてしまっていた。
彼はこれ以上は無理だと諦めて遺跡の様子を写真に撮り、近くにある木の根元に海を向いて座った。
遠くにはうっすらと本当に薄っぺらく島影が見えていた。今までは気づかなかったが、ここからは自分が泊まっているホテルのある街が見えていたのだ。彼はなんだかあの島がとても遠い存在に見える気がした。ずっと古代の遺跡を見つめていたからだろう。体がたぶん遺跡に毒されてしまったのだ。
彼は自分の勤めるオフィスの様子を思い描いた。まだ昼前だから今頃は皆は文書を打ったり、経費の計算をしたりしていることだろう。
彼はそれが別の世界のことのように思えた。そして忙しなく、薄っぺらいものに思えた。たぶんここの時間はゆっくりと進んでいるのだ。だから他の時間がものすごく早くなっているように感じるだけなのだ。この感覚はイギリスに帰ったときには治っているだろう。この環礁が、この島がそうさせたに過ぎないのだから。
南国の太陽は燦燦と照っていた。天頂近く昇った太陽の光は、真っ白な石灰質の砂浜を眩しいほどに照らしていた。彼は持参したサングラスを取り出し、それを彼の青い瞳にかけた。木の下は時たま風が通り抜け、心地良かった。波の音と相まってたいそう良い気分がした。彼は口角に笑みを浮かべながら海を眺めていた。
そして彼はいつの間にか眠りに就いていた。
彼が目覚めると目の前には広い海原が広がっていた。さっきからもずっと目の前に広がってはいたのだが、それとはどこかが違う気がした。なぜか少しセピア色がかっていて、日焼けした古い写真のような、夕方の沈みゆく太陽の名残の光のような、そんな色をしていた。彼は夕方まで寝てしまっていたのかと思い、おもむろに立ち上がった。あのガイドは自分の存在を忘れてしまったのだろう。
しかし彼は立ち上がったときに自分の異変に気づいた。
立ち上がったとき、彼の腰のあたりで乾いた草の茎が擦れ合うような、カサッという音がした。彼は不思議に思って腰のあたりを見てみる。するとなぜか今まで穿いていたズボンは失われ、古の南国の住民が纏うような椰子の皮で造られたスカートに似た服を穿いていた。彼は驚いてその服を触ろうと手を伸ばしたが、再び彼は驚愕させられた。その服に伸ばされた手は、今までの日焼けのない真っ白な白人の手ではなく、村で見た住民のようなこんがりとした良い茶色をしていたのだ。思えば上着も着ていなかった。まさに彼の服装は古代のこの環礁の住民そのものだったのだ。
彼は何があったのかと慌てふためいた。事態を確認しようと、細身の男に連れられてきたはずの砂浜の縁を走って村へと戻った。だが彼はその村の入り口で立ち止まったのだ。その村はさっきまであったはずの村とは違っていた。Tシャツを着た男や、薄手のドレスを着た女性はおらず、居たのは彼と同じ格好をした男と、古の南国の服装を身につけた女性だった。木製の高床式の家はなく、椰子の葉で編まれた小屋のような建物が十軒ほど建ち、内陸側のところには大きめの集会所のような建物があった。彼は一瞬道を間違えたかと思ったが、周囲の景色を見てみると確かにあの村であった。
彼は呆然として立っていた。が、しばらくすると彼の元へ着飾った美しい女性がやってきた。その女性も例に漏れず、古の南国の衣装であったが、彼はどこか見覚えがある気がした。
「アイデント? 祭壇はどうだったの?」
その女性は優しく可憐な声で言った。それは実に美しい声で、声と共に彼に投げかけられた笑みは、一瞬にして彼の心を捉えた。彼は口元が緩みそうになったが、それを我慢して平然を装って、
「なんでもなかったよ」
と返した。
「あら。じゃあそれをみんなに伝えなくっちゃ」
彼女はそう言うと彼の腕を掴んで、美しく身を翻し、村の中へと彼を連れて行った。
彼女は村の男が五人ほど座って談笑しているところへ彼を連れて行く。彼女は彼に、彼らに祭壇の様子を伝えるよう言った。彼は男たちに祭壇の周囲の様子を事細かに話したが、そこでふとあることに気づいた。彼が話している言葉は全く聞き覚えのないものだった。知らない発音、知らない単語で、自分が思っていることを伝えようとすると、口が翻訳機か何かのように勝手にその言葉にしてくれるのだ。そして彼の耳に這入ってくる単語も同じであった。知らないはずなのに意味が理解できる——。
彼は一瞬ぼうっとなって話すのを止めたが、男の一人が早く話すように促したので、はっとしてすぐに話し始めた。そうしているうちにそのことは忘れてしまった。
そして彼が話し終えると、男のうち屈強な体をした一人の男が立ち上がった。
「アイデントによると、祭壇は大丈夫なようだ!」
男は周りに聞こえるように鬨の声にも似た声をあげた。すると周りに居た人々は女子供から老人に至るまで皆男の元へと集まってきた。
「あの、何事ですか?」
彼は男に聞いた。すると男は不思議そうな顔をして、
「大きな牙を持つ人喰いの魔物が浜に打ち上げられて死んでいたから、神への感謝を伝えるために祭りを開くんだぞ? 忘れたのか?」
と言った。彼はそれを聞くとそうであったような気がした。
しばらくして、集まった人々は浜に沿って祭壇を目指して移動を始めた。あたり一帯はもう夜になっていた。しかし今晩は満月だったため、松明の明かりも要らなかった。星々は月に負けまいとついたり消えたりしながら勝負を挑み、彼が今まで見たことのないような星空を演出していた。
浜は月明かりを照らしてぼんやりと光っていた。彼の周りには様々な人が談笑し、魔物が死んだことを喜びあっていた。
「アイデントさん」
突然後ろから声がして、さっきの女性が彼の横に現れた。彼女は無邪気な笑みを浮かべていた。彼は顔を赤くした。そして彼女から目を背けるように森の方を向いた。
「アイデントさん、どうしたの?」
彼女の心配するよう声が聞こえた。彼はそのあと何度か彼女に話しかけられたが、ずっと森の方を向いたまま答えなかった。
しばらくして彼女の声は聞こえなくなり、ただ隣を歩く音だけが聞こえていた。その音はどこか悲しげに聞こえた。
彼は勇気を振り絞る。そして赤らんだ顔を彼女に向けて言った。
「今晩の祭りで、僕と踊ってくれませんか!」
目を伏せっていた彼女は目を丸くし、そして泣き出しそうなほどの満面の笑みで「はい」と言った。
祭壇へ着くと人々は祈りを始めた。テーブル状の岩上にシャーマンらしき老人が上り、手に杖のような棒を持って何やら祈りの言葉のようなものを唱えた。それに倣って彼らは皆ひれ伏したり呪文を復唱したりした。これも彼の体が覚えていたようで勝手に体が動いてくれた。
祈りが終わると周囲の石柱の上に火が焚かれ、皆がそれぞれ思い思いに踊りまわった。軽快な音楽が流れ、彼は彼女と共に気持ちに任せて軽いステップで動き回った。そんな時間は何時間にも渡り、いつの間にかあたりは白み始めていた。そして祭りもそろそろ終わりというとき、突如、海の奥の方からドーンと腹に響くような声がした。
あたりが突然騒がしくなり、森にいた鳥たちが騒ぎ出した。周りにいた人々も慌てふためきだし、シャーマンは祭壇に登って祈祷を始めていた。
彼は何事かと思った。彼は彼女にここで待つように言った。そして森の側に居た男にことの仔細を聞こうとしたとき、彼の背中の方で何かが爆発したような音がしたかと思うと、彼の背中を強い力が押し、そのまま彼は砂浜に倒れた。そのまま彼の視界は暗くなっていった。