1日目(1)
全5話です。よろしくお願いします。
彼は南太平洋のとある環礁の砂浜にいた。足元は真っ白で、海の波が絶えず押し寄せては引いて、押し寄せては引いてを繰り返し美しかった。彼はどれほどの間立っていただろうか。二時間以上はいるように思えた。この砂浜は、環礁の中心の町から遠く離れたところにあって、彼以外に人の姿はなかった。もともと観光客の少ない環礁だ。環礁唯一のホテルに泊まりながらそんなところにいるのだから仕方のないことだろう。
彼がこの環礁に来たのは、そこにある遺跡を見るためであった。この環礁はこのあたりでは大きな方で、古代の人々の祭壇や住居跡が残っているということだった。どうしてこんなところの遺跡かって? エジプトピラミッドや中国の万里の長城に行かないのかって? そんなのは簡単なことだ。青年期に持つような小さな反骨心が昂じた結果だった。君がピラミッドなら僕はアンコールワット、君が万里の長城なら、僕はハドリアヌスの長城、そんな風に他の人が選ばないようなところを選んでいたらいつの間にか太平洋上の小さな島の遺跡を選んでいたのだ。
彼はイギリス人の考古学者だ。博士号はとってはいたが、考古学への情熱はすでに無くなっていた。大学に入ったとき、どんな科目を取るかと迷ったいたら、とりあえず一番最初にあった教科を取ってから、そのまま考古学の道に進んだのだった——英語で考古学はArcheologyである。そのままずるずると考古学の道を進み、一時はどっぷりとはまって博士号を取ったが、今では時たま昔の仲間と出会ったときに、無理矢理彼らの発掘の手伝いをさせられるくらいしか、考古学との接点はなかった。この調査も、お前の庭だろと言われて知り合いから今後の調査地の候補の下調べの仕事を頼まれたにすぎなかった。
彼はまだ海を見つめて立っている。何もすることがなかった。いや、何もできなかった。この環礁に滞在する七日間、遺跡を見ること以外何も計画していなかったのだ。それに遺跡を見ようと思ってはいたが、どのようにその遺跡に行けば良いのかを調べるのを忘れていた。なんとか人伝にこの浜辺の近くにあるとは聞いていたものの、そこから先が分からなくなり途方に暮れていたのだ。とはいえ焦りはなかった。なにせここの滞在費は時間を無駄にしても良いように旅行の次いでだと知人を説得して自分で払ったのだから。
——。
そのとき、彼の背後の森から、草をかき分ける音が聞こえた。彼が驚いて振り向くと、そこには半袖のシャツに薄い生地の半ズボンの服を着た、よく日に焼けた体格のいい男が森の下草を分けて砂浜に出ようとしているところだった。
「——!」
その男は何かを口にしたが、内容はよくわからなかった。彼は現地の住人なのだろう。ここでは英語でもフランス語でもないこの地域独自の言語が話されている。ホテルの人は英語を理解できていたが、地元住人とは、こののんびりとした環礁では彼の知っているどの言語も通じなかった。それも彼がここで途方に暮れている原因だった。ここに来るまでに途中で何度か人にあったが、遺跡の存在を聞いても誰も答えてくれなかった。
「この近くにある遺跡を知りませんか?」
彼は駄目元で聞いてみた。すると男は首を傾げて困ったように眉をハの字に曲げた。やはり駄目だったか。彼がそう思っていると、男は何かに納得したのか一つ頷き、付いて来いと身振りをして彼を誘った。
「僕を案内してくれるんですか?」
そう訊くと、男は足元に落ちていた細長い木の棒——多分流木だろう——を拾うと、砂浜の上に何やら家のようなものを書き始めた。その絵は子供が描くような"へ"の字の形をした屋根の下に平行線を縦に二本引いた実にシンプルなものだったが、彼はそれを何個も描いた。そしてひとつの村のようになったところで木の棒を足元に置くと、身振りで何かを示し始めた。
(私は……あなたの言葉を……喋れない? だから、私の村に行く?)
彼はそう解釈したが、男の身振りははっきりとは分からなかった。とはいえ、敵意のあるものではないようだったので彼は男に付いていくことにした。
男は彼が近づいて来たことを確認すると、今来た森の中へ入って行った。よく見ると彼の手には網が握られている。この浜には漁にでも来たのだろう。男は森の中をずんずんと抜けて行った。そして二十分ほど歩き、白い砂浜に面した広めの平地に出た。そこには高床式の木造の家が十軒ほど建ち、外に出て談笑する女性や、遊びまわる子供達の姿があった。男は彼にここで待つように指示すると、とある一件の家へと入って行った。
五分ほどして、その家から男が一人の男とともに出て来た。彼は男同じようによく日に焼けていたが体は細身で背が高く、また気さくな雰囲気を漂わせていた。
「あなたは、あのはまべに、いましたが、どうしたんですか?」
細身の男はカタコトの英語で彼に話しかけて来た。英語はあまり慣れていないようで、発音もおぼつかなかった。
「ここの近くに遺跡があると聞いたので、見ようと思って来ました」
彼はゆっくりと一語ずつはっきりと区切って聞き取りやすいように言った。すると細身の男はちょっと待ってくださいと言い残し、また家へと戻って行った。しばらくするとまた出て来て、その手には分厚い本があった。
「あなたのいったことばに、ぼくのしらない、ことばが、ありました」
そう言うと細身の男は彼に手に持っているその本を突き出して来た。それは英語の辞書であった。彼はどの言葉か迷ったが、多分"遺跡(remain)"のことだろうと思い、彼は"遺跡"の項目を指差した。
細身の男はそれを見ると、驚いたように目を丸くして彼の目を見つめ、
「しんだひとを、さがしにきたんですか?」
と言った。彼は一瞬驚いたが、remainの意味を思い出すと、納得して首を振った。男はそれを了解したのかもう一度辞書に目を落とすと、
「むかしのたてものを、さがしに、きたんですね」
と言った。彼はそれに頷くと、その細身の男にこの辺りにある遺跡を知らないかと聞いた。すると男は知っていると言ったが、案内するとは言わなかった。彼は不思議に思っていると、一つのことに思いあたった。
「ガイドをしてくれるなら、お金をお支払います」
すると細身の男はにぱっと笑って彼に握手を求めて来た。今まで好感を覚えていたのに——。彼は少し不機嫌になった。
そのまま彼は細身の男の家へ案内された。細身の男は話したいことがあるということだった。彼を連れて来た男は彼が細身の男と会話しているうちにいつの間にか居なくなっていた。
細身の男の家は高床式の木造で、地面から立てた六本の丸太の上に、板を敷いて小屋のような簡素な造りをした建物を立ててあるだけだった。地面から玄関へと登るための階段は十段ほどあった。男の家へ入ると中では男の妻らしき女性が一人、観光客に売るためか、木彫りの工芸品をつくており、その周りを男女の二人の子供が駆けずり回っていた。細身の男は妻に何か話しかけると、妻は木を彫る手を休めて彼の近くへと寄って来た。そして彼に慇懃に挨拶をすると、——彼はここに滞在していた四日間のうちに現地の言葉の挨拶くらいは覚えていた——彼を部屋の中央へと招いた。
彼は案内されるがままに部屋の中央に置いてあった雑に糸が編まれただけの小さな敷物の上に座った。その対面に細身の男が座ったが、部屋にいた子供は滅多に見かけない異様な客人に興味津々らしく、彼の周りに寄って来た。彼はそれを笑顔で見ていたが、母親がやって来ると、母親は彼に謝り子供達に何かを言って、彼から子供を剥がした。
「すみません。このしまの、ひといがいがくるのが、めずらしいので、こどもたちが、はしゃいでしまったようです」
細身の男は言った。彼が気にしないようにと言うと、男は妻に何かを言いつけてから、彼の目を真剣に覗き込む。彼は何事かと思った。
「きょう、あなたを、あのいせきには、あんない、できません」
男は静かに言った。彼はぎょっとして男にその理由を問いただした。男はその遺跡に行くにはまず、この村に伝わる遺跡についての神話を聞いてほしいということだった。その神話を聞いて、その遺跡での作法を守れないようだったら、案内出来ないと言うことだった。
彼は仕方なく男の指示に従い、彼の遺跡に関する神話を聞くことにした。男は話しているあいだ、ちょくちょく辞書を取り出してはわからない言葉を調べていたが、彼に何とかして伝えようと必死なようで、彼は久しぶりに彼に対して好意を感じた。
ところでその神話とはこのような内容であった。
はるか昔のこと、この島の近くには巨大な牙をもった大きな魚が住んでいて、浜辺を歩いていた人々を襲っていた。以前は時たま人が襲われる程度だったが、ある日を境に毎日のように人が襲われるようになった。人々は漁に行けなくなり、森の中の食糧も少なくなって来て、困り果ててしまった。その日からは、毎日のように神に向かって祈りを捧げていたところ、ある日浜辺に巨大な魚が打ち上げられているのが発見された。人々は大いに喜び、その魚が打ち上げられていたところに神に感謝を捧げるために祭壇を立てた。それ以来、人々は浜辺で襲われることがなくなり連日のように祭壇に祈りを捧げた。しかし、だんだん時が経つにつれ、人々はその祭壇に祈りを捧げるのを忘れるようになった。すると神はある日、巨大な波を島に向かって押し寄せさせ、島にあった村々を飲みこませてしまった。唯一祭壇の近くにあったこの村だけが残ったが、それ以来人々は祭壇に祈りを捧げることを忘れなくなった。
その話に続けて男は、
「ぼくたちは、このかみさまを、もう、しんじては、いませんが、このさいだんに、ちかづくときは、ぜったいに、うみにむかって、いちど、ひれふします。むかしから、それをしないと、おおなみに、おそわれると、いわれているからです」
と言った。彼は自分が考古学者だと言うことを話し、その遺跡の調査をしたいのだが、大丈夫かと問うと、
「みるだけなら、だれでもできますが、しらべるとなると、ちょうろうにきかないと、わかりません。ですが、たぶん、だいじょうぶだと、おもいます」
と言った。
日はもう西の空へ傾き始めていた。そろそろ帰らなければホテルに着いた時には夜中になってしまうだろう。彼は男に礼を言うと、道案内をしてくれないかと頼んだ。男は快く承諾し、明日浜辺で会う約束をして、彼を先ほどの海岸まで案内した。
空はもう赤くなり始めていた。もう時間がない。彼は浜辺を歩いて彼が乗って来たホテル方面へのバスを待った。