第八話 学校って変だ
「オルカ=ウィッテ、と言います。まだ日本には不慣れなので行き届かないところもあると思いますが、どうかよろしくお願いします」
笑顔を作ろうとしたが、顔面の筋肉が動かず断念。諦めてただ一応頭は下げておくと、ざわめきと呼ぶには余りにもけたましい騒音が、教室に駆け巡る。
超うるさい。
その耳を破るような騒音に、つい滅却魔術の呪文がテロップのように脳裏に流れた。魔力が足りないことをこの世界に来て重ねて悔やむ。心の中で唱えるだけで我慢した。
「ええと、オルカ君はロシア生まれみたいですね。お人形さんみたいですねー。みんなが騒ぎたくなる気持ちもわかるけど、静かにしようねー」
にこっ、と。まだ年若い女の先生は微笑んだ。名前は確か、雛森、と言ったか。
本人確認ということで昨日訪れた職員室。そこで担任となる先生の挨拶と、ついでに聞かされた注意は、とりあえず雛ちゃんと呼ぶな、に限った。涙目でやけに真剣に頼み込まれたのを思い出す。あだ名にはこちらとしても嫌な記憶があるので、頷いておいたが。
その雛森先生の声は誰の耳にも届かず、ざわめきが収まる様子もない。
あだ名からして、なめられきっているらしい。
「お願いだから、ね。し、静かに。き、聞こえるかなぁ?」
依然変わらず。
その現状に、くしゃっ、と雛森先生は顔を歪ませた。
「ええっと……そっか、聞こえないか。大学出たばかりの新人教師の声なんて、誰の耳にも届かないか」
ひくっ、とその先生の喉から音が。
その担任の様子に、段々と教室の騒音も落ちていく。
「ううん、いいの。わかっているの。どうせ、声は小さいし、教え方は下手糞だし」
皆が顔を見合わせる。やばい、来るぞ。そう顔に出ていた。
「問題の質問に来る生徒は、教えているはずの私のところに来ないし。問題児は皆、私に押し付けられるし。体育の先生は迫ってくるし、教頭は私のこと馬鹿にするし。どうせ若いだけしか取り得のない、ただの鳥頭ですし!」
ダンッ、と叩きつけられる教壇。
水を打ったような静けさの教室。
静まったそれに雛森先生は安堵するわけではなく、う、うう、うわーん、と泣き出してしまった。子供のように。
気まずい沈黙がそこにはあった。皆が顔を向き合わせ、責任を擦り付け合う。
だが、そこで一人の生徒が立ち上がった。
「そんなことない! 先生はすごいぞ!」
聞き覚えのある声だった。とりあえず目を逸らしておいた。
「先生が、金魚に毎日欠かさず餌をあげているのを余は知っているぞ。植木鉢に水をやっているのも、顧問になった部活で毎日来てくれているのも。それに、ちゃんと授業で効率よくできないところを改善しようと、夜には職員室に遅くまで残って頑張っているのも、全部知っているんだ!」
なあ、みんな! と目立つ金髪の魔王はクラスメートを振り仰ぐ。
そうだ! そうよ! とクラスは立ち上がった。
「誰が何と言おうと、雛ちゃんは俺たちに必要なんだ!」
「雛ちゃん以外の担任なんて、私考えられない」
「いつも困ったときには、雛ちゃんが僕らの傍にいてくれた」
「騒がしくして、ごめんなさい。でも、雛ちゃんの声はちゃんと私たちに届いている」
だって、と声を上げて。クラスの皆は仲良く目配せ。涙の止まった先生を見つめる。
「「「雛ちゃんは、このクラスのマスコットだから!」」」
うえーん、と泣き混じりの叫び声が廊下に木霊した。
走り去って職場放棄した先生を尻目に、眼鏡をかけた男子生徒は「後ろの開いている席に座ってくださいね」と促した。「こんな感じの楽しいクラスですから」とおさげの女子生徒もにっこり微笑む。
これでいいのか学校は、と疑問に思うが、まあ茶番は終わったようなので大人しく従おう。指示通りにその窓側の一番後ろの席に腰を下ろすと、同時に一斉に人間が集まってきた。
「うわー。すごい綺麗。目とか髪とか、銀色っていうの? 朝日に輝く雪みたい」
「本当に、お人形さんみたいねー。これで男の子っていうからびっくり」
「なあ、演劇部に入らないか。君みたいな美少年を部は待ち望んでいた!」
「いやいや、それなら軽音楽部もそうだ」
「生まれがロシアだって。それなのに、すごい日本語上手だね」
「日本で暮らしていたことはあるの?」
すさまじい雑音。すさまじい質問の嵐。
どれもこれも騒がしいばかりでこちらの事情を考えもしない。見ろ、この俺のめんどいです、って顔を。
いい加減うんざりしていると、人垣がかの有名な魔剣ディアメロの伝説のごとく、一人の人間を通すため、分かれていった。背後から寄ってくる悪夢に、本能が警告を発したらしい。鈍感な生徒はそれにも気付かずにこちらに未だ質問を投げかけていたが、叩かれた肩に誰かがいることに気付き、振り向いた後ろにいる人物を見て小さく悲鳴を上げる。その生徒は尻餅をついたまま、ものすごい勢いで離れていった。
「あんた、一体学校で何してんですか」
「別に何もしてないはずだがな」
おかしいな、と三日月型に口を歪めて笑うその悪夢の具現者。
救世主――ではなく緒方光輝(そう呼べと脅された)は、散れ、と手を振った。すると、まるで殺虫剤をかけられたゴキブリのごとく、クラスメートは各々の席へと戻っていく。
「転校初日で面倒も多かろう。俺がお前の隣になってやる」
どけ、と蹴られた俺の隣のにきび顔の少年は、泣く泣く光輝が退いた席へと移っていった。
「ふー。やっと窓側の席が取れたか」
「悪という存在を肌で感じました」
力強く頷く俺に、魔界の住人が何を言う、と光輝は鼻で笑った。
「まあ、これでも実際気を使ったんだ。俺がここにいればお前にもそう人も寄ってこないさ」
その言葉通り、今日一日光輝といる間は人が寄ってくることはなかった。正直面倒なことを省けたのは感謝するが、一体、こいつは裏で何をやっているのだろうと恐ろしくもなる。こいつの鬼畜な部分は同種の人間に対しても有効らしい。
結局、その日は授業を淡々と過ごすだけで終わった。
雨の日に出会った人間は、見かけなかった。