第十四話 トラウマと呼ぼう
「はーい。それではLHRを始めまーす。今日のお題は、来週の遠足への行き先ですねー」
高校生と混じっても遜色ない瑞々しい若さを携えて、雛ちゃんこと雛森先生はにこやかに黒板へ『遠足先を決めよう!』と書き付ける。がやがやと騒がしいクラスに対して、今日は注意することもなく、泣き出すように顔を歪めることもなく、ただその笑顔は眩しいほどに華やかだ。
「それではー、委員長さんと副委員長さんに前へ出てきてくださーい。生徒の自主的な活動が大事何ですよー、こういうのは。じゃ、先生は高校の同窓会があるんで、これで」
荻原くん来ているかなー、とスキップするようにドアへと向かって、教室を出て行こうとする雛森先生。それに何の気もなく見ていると、ふと隣から声が。
「職務怠慢」
ぼそ、と。しかし、それはクラス内で騒がしく飛び交う声の隙間を縫うように。ぴし、と雛森先生は止まる。クラスは時を止めたかのように押し黙った。
それは、暗黙の了解。
なぜかどす黒い冷気を感じる隣――緒方光輝はその顔に似合わない晴れ晴れとした笑顔を貼り付けて、もう一度言った。
職務怠慢、と。
「え。だ、だって。先生いてもやることないし……」
「生徒の自主的な活動を見届けるのも、先生の役目では。生徒の話し合いだけでは話が逸れてしまう可能性もありますし。ときに方向修正をしないと、スムーズに議論が進まない。それはやはり、先生が担うべき職務のはずです」
な、みんな。と振り仰ぐその笑顔。
そうですね、と棒読みながら満場で声を上げる。
これは意見を求めているのではない。意見に従うことを求めているのだ。
「あ、あう。う、ううう」
荻原くん、と妙に切ない言葉が聞こえた。雛ちゃん、と同情する声が僅かながら囁かれる。
「先生、席に着いてください。議論が進みません」
は・や・く、と懇切丁寧に区切って告げる悪魔の声。なぜか妙に嬉しそうだった。出生に関して疑問に思うこと幾度なく。人間は悪魔よりも性根が腐っていると、この世界に来て学んだことだ。怖くて口には出せないけど。
小学校がいいな、可愛くて素直な子供とふれあいたいな。そんな呟きを隠すことなく、よろよろと元いた場所へと雛森先生は帰還。相当微妙な空気になりながら、光輝は満足したように頷く。
「別に、帰してあげてもよかったんじゃないですか」
「いやだね。俺だって、こうも退屈な議論に参加させられているんだ。一人だけ得させるか」
大体、間違ったことは言ってねぇしなぁ。と、今度はその顔に似つかわしい悪魔の笑み。確かにそうかもしれないが、そこに悪意を感じ取ったのは俺だけではないはずだ。
しかしやはり慣れているのか。クラスは、今のはなかったことに、という流れのもと、委員長と副委員長が黒板の前へと出る。眼鏡をかけた小柄な少年と、おさげが特徴な少し地味な女の子だ。前にもそういえば見た気もする。
その二人のもと、てきぱきと議論は進んだ。ぶっちゃけ、先生はいらなかった。光輝はその間熟睡していた。それを咎める勇者は、生憎この地球にはいない。お嬢は議論の後、雛森先生にアンパンをプレゼントしていた。ごめんな、と悲しげに俯くお嬢の姿に、感激していた雛森先生。末期だな、と寂しい笑顔で俺は傍観。
そんなこんなでLHRも終わり。
放課後。
「山か。余は海で潮干狩りがしたかったな」
残念そうに呟くお嬢。今日は珍しく、三人で登下校。いつもはばらばらなのだが、特に三人とも用事がなかったうえに、家が同じでもあり、自然とこうなる。
遠足は山か海かで分かれたが、結局山の散策に決定した。
「今の時期、海はまだ寒いだろ。夏のときにとっておけ」
欠伸交じり光輝は言う。結局、議論の間、光輝が起きることはなかった。起こす人もいなかった。触らぬ光輝に祟りなし。
「というか、遠足って何です? 一体何の目的をもって何の理由で何の結果を求めてそんなことするんです? 不思議でならない」
「お前は遠足に恨みでもあるのか」
「ないはずだぞー。昔、余と一緒に行ったことあるもんな! 楽しかったもんな!」
な! と一切の疑いもなく同意を求めるお嬢に、ああ、と適当に頷く。
頷いて、思い出し、顔から熱が引いた。どこか遠くを見つめる。
「……遠足は、嫌いです」
「……そうか」
「なんで!?」
珍しく同情したような光輝の顔と、心底不思議そうなお嬢の顔。
なんで、とはこちら聞きたいところだ。
あ、蜂! と友達なのかと聞きたくなるようなはしゃいだ声でキラービーの巣を突き、追いかけられながら山を駆け巡り、血溜まりの沼に落ちて溺れかけ、グリズリーに出会いがしらキックを交わし、これが森の挨拶だ! と笑うお嬢とともに再び山を駆け巡り、トラップはものの見事に嵌りに嵌って、食人花は魔物も食べるのかな、と不思議そうにこちらを見るお嬢に恐怖した、そんな幾度なく駆けずり回った山の中。
気付けば道もわからず一週間遭難していた。そんな苦いを通り越してむしろ甘いメモリー。
「遠足なんて、遠足なんて……」
「無理するな。思い出さなくていい過去だって、あるはずだ」
ぽん、と肩を叩かれる。妙に優しい光輝を不思議に思い、顔を向けると、案の定そこに映る表情に優しさはなく。
「もちろん、当日欠席は俺様が許さんが」
愉悦に満ちたその表情。
大体そうそう恐い思いをする遠足はねぇ、と光輝は鼻で笑うが、わかっていない。光輝はこのお嬢と遠足へ行く恐怖を知らない。
「おやつは500円までかー」
うまい棒は欠かせないな! と、来週の遠足にすでに張り切っているお嬢。とりあえず面倒なことは起きずに、平和で穏やかに終わりますように、と心から祈る。祈る対象はわからなかったが、それでも祈らずにはいられない。
人間の信仰というものがどういうときに生まれるのか、なんとなくわかった気がした。