吸血鬼の流儀
「……嫌だなぁ……」
涙目で、ロザリーは煉瓦の屋上を、高速で疾駆する。人ならざる早さでありながら、そこに魔術的、特殊な要素は一切存在しない。ただ、生まれながらにして、ロザリーは吸血鬼として見ても、異様とも取れる高度な身体能力を有していた。
すでに巨大蜘蛛までの距離は五十メートルをきっている。
その距離を、ロザリーは、およそ二秒程度で瞬時に駆け抜け、糸を巻くことに集中する蜘蛛の、隙だらけな土手っ腹に、蹴りを叩き込んだ。
「はぁっ!」
「ギィイイイ!?」
雷の如きロザリーの蹴りは、蜘蛛をしっかりと捉え、吹き飛ばすことに成功する。
二転三転と転がる蜘蛛を、本来ならば追撃して、反撃の隙を与えない事が重要……それをロザリー自身も十分に熟知していながら、そうはならない。
ロザリーは、その場で青ざめた表情で佇んでいた。
「…………うぅっ!」
ロザリーは口元を抑える。ゴクリと何度も生唾を飲み込む姿は、臨界点が近いことを示していた。だが、なんとかロザリーは乙女にあるまじき失態を堪えた。
「はぁ! はぁ……はぁっ……」
大きく息を吐き出すと、乱れた呼気を整える。ロザリーはそのまま、無言で履いていた靴を地面に何度も、何度も、擦り付けた。
「嫌ぁ……」
普段快活なロザリーしては珍しく、心からの嫌悪が籠もった、悲痛な叫び。
「ぐにゅってした! ぐにゅ~って! ……うぷっ」
思い返すと、再び吐き気が襲ってきたので、ロザリーは考えることをやめた。
「早く終わらして……帰ろう……」
エデと同じく、ロザリーも、リシエの事を心から敬愛している。リシエ以外の、一体誰から虫退治なんて悍ましいお願いを聞くだろうか。エデに発破をかけられたのも、もちろん関係はある。だが、ロザリーはそれ以上に、リシエに褒められたかった。
「よーし!」
腕をブンブン振り回して、ロザリーは気合いを入れる。
「あれは蜘蛛じゃない! 虫じゃない! 大丈夫!」
目を瞑り、自己暗示をかけて、頬を叩いた。ロザリーが目を開けると、蜘蛛はルビーのような複眼をこちらに向け、八つの足を高速で動かしながら接近しようとしていた。
「ダメだ……。やっぱ虫だ……」
ロザリーは再び商店の屋根の上に登って、蜘蛛から距離をとるのであった。
「…………」
「…………」
ロザリーが蜘蛛との睨み合いを始めて、どれくらいの時が流れただろうか。ロザリーも、さすがに慣れたのか、蜘蛛の姿を見ただけで、青くなったり、鳥肌を立てたりすることがなくなった。
蜘蛛の方も、ロザリーの存在を危険分子として認識しているのか、獲物に糸を巻く作業を中断し、ロザリーの動向をじっと伺っている。
何もきっかけがなければ、永遠にこのままなのではと、錯覚するほどの静寂。ロザリーは、頬に冷や汗を垂らす。持久戦となれば、不利なのは、間違いなくロザリーの方である。
「……………………っ」
足場の悪い屋根の上、集中の切れかけたロザリーは、ほんの僅か、体制を崩す。
それを野生生物の驚異的な勘で察した蜘蛛は、一足飛びで、ロザリーの眼前まで跳躍した。
ロザリーの頭上を軽く飛び越え、腹部の先端にある盛り上がったイボのような突起を、ロザリーに向けた。
「しまっ――――!?」
ロザリーが焦りの色を浮かべる。
しかし、一瞬の隙を見せた代償はあまりにも大きく、ヒュンという風切り音が耳に届く同時、ロザリーの腹部を、まるで先程の仕返しのように、蜘蛛の強固な鋼の如き糸が、強かに打ち付けられる。
「ぐっ! ……がはっ!」
鉄球で思いっきり殴られたかのような衝撃。
ロザリーは身体をくの字に折り曲げた。
衝撃で唇を噛んだのか、口元からは血が滴っている。
それでも、これだけの衝撃である。
内臓をやられなかっただけ、運が良かったと思うべきだろう。
蜘蛛は、お腹を押さえて蹲るロザリーに、無作為に近寄るような愚は犯さない。
ロザリーからある程度の距離を取ると、ロザリーの腹部に打ち付けた糸とは違う、別種の糸を腹部の先端から勢いよく発射した。
それは、白く、ネバネバとした糸であった。
どれだけ引き延ばしても、ものともしないしない、強靱な耐久性能を誇っている。
「ひっ!」
糸の先端がロザリーに接触したのを確認した蜘蛛は、商店の屋根の上をロザリーを中心にして回転し、ロザリーを拘束していく。
それを入念に繰り返した。
やがて、冷酷さすら感じる複眼で、ロザリーを見下ろすように、蜘蛛は近づいてくる。
何十と縛り付けられたロザリーの身体は、手脚の指先すら見えない。頭部以外のほぼすべてを白い糸で覆われていた。
その瞬間――――
「あ……あわわっ……あ、あああっ!!」
――――これは何?
苦痛に呻いていたはずのロザリーの叫びが、別種の感情を帯び始めた。
無数の疑問、疑問、疑問。
それは次々と連鎖していく。
ロザリーの視線が、糸の出所を探った。
探って、探って、探って、動きが制限された首を無理矢理動かして、蜘蛛の姿へと辿り着く。
「い、い、いぎぁ……いや、いや、うそ、うそ、うそ、……あ、ああ、ああああっ!」
蜘蛛を確認した途端に、ロザリーは気が触れたかのような、奇声を発する。
現実を受け入れることができず、必死で否定するように、ロザリーは何度も首を振った。
やがて、ロザリーの動きが一転。
ピタリと制止する。
蜘蛛が何事かと、その場から僅かに後退した瞬間!
――――蜘蛛の背に、何かが触れた。
「ギィィィィッ!!」
蜘蛛は慌てて反転する。
そこには、影があった。
他の何物でもない。蜘蛛自身の足下から伸びる影である。
「ギュウイッ!」
蜘蛛は身の危険を感じ、慌ててその場を離れようとする。
しかし、影はどこまでも執拗に、蜘蛛にピッタリとくっついて離れない。
逃げ惑う蜘蛛。
その影は、ふいに、一本の足を振り上げた。
刃物のように研ぎ澄まされた巨大蜘蛛と同一のその足が、振り下ろされたその先は、蜘蛛の目であった。
「ギュピピピピッッ!」
悲鳴。
片目を自身の影に貫かれた蜘蛛は、その場で身悶える。
その苦痛を示すかのように、傷口からは緑の体液がダラダラと流れ落ちていた。
「蜘蛛の糸で包まれてる……。い、いやぁ……私の身体が……蜘蛛でっ……!」
視線に憎しみすら込めながら、ロザリーは藻掻き苦しむ蜘蛛を睨み付けていた。
全身がワナワナと震え、次第に身体を拘束している糸にも、変化が訪れる。
ブチブチブチブチ……そんな、不吉な音が断続的に聞こえていた。
「くっ! ああ、ああっ!」
やがて、蜘蛛の糸の中から、ロザリーの腕が突き出した。
鋼鉄を上回る強度、それに加え、炎に包まれようとも焦げもしない耐熱性を誇る巨大蜘蛛の糸が、まるで綿菓子のよう。
その夢物語を成したのが、ロザリーの虫一匹殺せそうにない細腕だというのだから、まさに蜘蛛にしてみれば悪夢だろう。
ロザリーは自由になった片腕を、スカートの下、ガーターベルトと太ももの間に仕込んである長細い小瓶に伸ばした。
小瓶に詰まっているのは、赤黒い液体。
ロザリーは口で瓶の蓋を開けると、迷う素振りも見せずに、中の液体を一気に飲み干した。
その瞬間――――
「っ……あっ……がはっ!」
ドクンと、ロザリーの心臓が大きく跳ねる。
瞳には、黄色みが混ざり始めていた。
次第に、深紅だったはずの瞳は、鮮やかなオレンジの色彩を宿している。
自意識が肥大していく感覚。
万能感が全身を満たし、目に映るすべてがスローモーションに見える。
それは、無論、蜘蛛の姿も例外ではない。
【真祖化覚醒】
午前十一時四十分。その時刻をもって、この世界のすべての影は、ロザリーの軍門に下った。
ロザリーとエデは、忌み子である。父は生粋の吸血鬼、だが、母は人間であった。いわゆる、ダンピールと呼ばれる存在。それぞれの吸血鬼が持つ固有能力とは別に、ダンピールは吸血鬼を殺す特殊な能力を持っている。ゆえに、彼女らは、吸血鬼にしてみれば、嫌悪と同時に恐怖の対象であった。
それはそうだろう。人には及びもつかない力を、生まれながらに持つ吸血鬼を殺しうる存在だ。天敵と呼ばれても、仕方のない事である。
ロザリーとエデは、子供の頃に、そういった伝承を父と母から、何度となく聞かされた。そうして、最後にはこう締めくくるのだ。
『リシエ様に感謝しましょう』
と。
満面の笑みで。
子供の頃、何故そうなるのか、分からなかった。リシエと言えば、ダンピールを迫害してきた吸血鬼の女王である。そんな相手に、何故感謝しなければいけないんだ! そう思っていた。
だが、年を重ねるごとに、その意味が、二人にもよく理解できるようになった。
二人の住むゼルシムでは、数多くの吸血鬼が暮らしているにも関わらず、ダンピールを恐怖する者はいない。まして、迫害など、ありえるはずもなかった。
優しい世界。優しい国。ゼルシム内のどこに行っても笑顔で溢れていて、危険など万に一つも存在しない。そんな理想の楽園を作り上げた存在こそが、両親の敬愛するリシエだったのだ。
「お姉の血……借りるね」
ロザリーは口元を拭いつつ、静かに言った。
今も天高く登っている太陽に似た、鮮やかなオレンジの瞳が、光を帯びて、キラキラと幻想的に輝いている。
ロザリーは小瓶を大事そうに元の場所へ戻す。
それは【覚醒血】と呼ばれているもの。正真正銘、リシエから賜った神祖の血液である。
前述した通り、吸血鬼には、それぞれ固有の能力がある。だが、吸血鬼としての血が薄いダンピールは、ほんの短時間、限定的にしか、能力を扱うことができない。
優しいぬるま湯のような世界に生きながら、それでもエデとロザリーは多少の劣等感を忘れることができないでいた。そんな二人のために、他ならぬリシエが用意してくれた大事な血液である。
覚醒血を体内に取り入れることで、ロザリーの体内に宿る吸血鬼としての因子が飛躍的に活性化する。それにより、神祖とまではいかずとも、真祖クラスまでなら、能力の底上げができるようになった。効力はおよそ一時間。それを越えれば、副作用として、強烈な吸血衝動に襲われるのが難点でもあった。
「おいで……」
ロザリーが言葉を発すると、サッと蜘蛛の影が持ち主を離れ、ロザリーに元へとやってくる。
何も言わずとも、ロザリーの意をくみ取り、脚を器用に使って糸を切り裂いた。
自由になったロザリーは、立ち上がり、大蜘蛛を改めて睨み付ける。
「このっ……虫けら如きがっ……」
底冷えするかのような、冷めた声色だった。
普段のロザリーとは、あまりにもかけ離れた姿。
「私に……私に触れるなんてっ!」
ロザリーはワナワナと震えながら、両腕を何度も摩る。
たとえ、糸だとしても、それを生み出したのが蜘蛛である限り、蜘蛛と同じくロザリーにとっては嫌悪する対象だ。
また、それにプラスして、覚醒血のもう一つの副作用の影響もあった。
それは――――
「私達、崇高な吸血鬼に……蜘蛛如きがっ! 本当に……許せない!」
吸血鬼としての本能に目覚めるということである。覚醒血によってもたらされる強烈な万能感、全能感によって、どうしてもそういった勘違いを引き起こしやすい。
特にロザリーに関しては、感受性が豊かであるゆえに、エデよりもその傾向が強く出ている面があった。
「……殺す!」
ロザリーは、歯をギリッと噛みしめる。覚醒血を口にした影響か、犬歯が肥大化していた。
ロザリーが腕を水平に持ち上げる。
開いた掌をぎゅっと勢いよく握りしめると、それに周囲の影は呼応する。
「イギッ!?」
それは、四方八方から、蜘蛛目掛けて襲いかかる。
商店の建物の影、街灯の影、蜘蛛の影、ロザリーの影。
ロザリーの視界に入るすべての影は、彼女の支配下にあった。それらが槍のような形に姿を変え、蜘蛛を突き刺さんと猛り狂う。
蜘蛛は、始めに襲いかかった数撃を辛うじて躱すものの、攻撃はそれだけに止まらない。
次々と連鎖して蜘蛛に襲いかかる。
今は真っ昼間である。
ロザリーは吸血鬼としては異端であり、昼にこそ真の力を発揮することができる。
そこら中の至る所に影は存在し、蜘蛛に逃げ場など、どこにも存在しない。
「ギギッ!」
逃げ場を失った蜘蛛は、慌てふためいて、屋根の上に登った。
そこは確かに、太陽に照らされているため、影はできにくい場所である。
「あはっ!」
しかし、ロザリーは笑う。
すべては、己が手の内であるとばかりに……。
「ギッ……」
蜘蛛も、自身の運命に気付いたように、些か弱々しく感じる鳴き声を上げた。
その足下には、蜘蛛の影ができていた。どこに逃げようとも、結局自分自身からは逃れることができない。
そんな教訓めいた最後の瞬間。
蜘蛛は、着地と同時に自身の影に二つに両断され、盛大に体液を巻き上げるのであった……。