聖女オリヴィア
「おはようございます、お三方。昨日は大変見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
翌日、王城に招かれたリシエ達三人は、オリヴィアの謝罪で最初の歓迎を受けた。罰が悪そうに目を伏せるオリヴィアに、ロザリーが慌ててフォローをする。
「い、いいよ! いいよ! 気にしないでっ! 私達はなーんとも思ってないからっ!」
相変わらず旧知にするようなロザリーの応対に、リシエとエデは揃って苦笑を浮かべた。王城へ来るまでに、ロザリーには王族や貴族に対してはしっかりと敬意を持って対応するようにと言い含めていたのに、一言めからこれである。まぁ、元々ロザリーがしっかりと大人の対応ができるなどとは思ってはいなかったが、さすがに力が抜けてしまう。
「ロザリーの言う通りです。オリヴィア姫は何もお気になさる事などありませんよ」
嫋やかに微笑みながら、エデは言った。その裏で、ロザリーの脇腹を抓っている事などおくびにも出さない。
「いっ!」
抓られたロザリーは軽く悲鳴を上げる。しかし、すぐに耳元で囁かれるエデの低い声で痛みすら忘れた。
「……どうすればあれだけ口を酸っぱくして言ったことを忘れられるの?」
「ひっ!」
その声には、ふざけた印象はどこにもなく、純然たる怒りだけがあった。ロザリーは痛みとは違った感情に揺り動かされ、もう一度短い悲鳴を上げかけるが、強くなる脇腹を突き抜ける痛みに、冷や汗を流しながら愛想笑いを浮かべた。
「どうかなさいました?」
「な、なんでもないでございますのよ?」
「は、はぁ……」
オリヴィアはロザリーの奇異な言葉使いに首を捻るが、不審には思わなかったようだ。すぐに気を取り直すと、今度は上品にドレスの裾をつまみ上げ、淑女の礼をとる。
「自己紹介が遅れてしまいましたわね。私はガレリア皇国第一皇女、オリヴィア・マリー・リンヌ・ドゥ・ガレリアと申しますわ。気軽にオリヴィアと呼んでくださいませ。以後お見知りおきを……」
立ち居振る舞いはさすが王族といった所か。細やかな動作にすら気品が溢れている。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
エデが手を差し出すと、オリヴィアは差し出された手を握る。流れでエデとロザリーも自己紹介をして、最後にオリヴィアはリシエの前に立った。リシエの潰れたカエル顔を見ても、オリヴィアは顔色一つ変えない。どころか、ニッコリと男を骨抜きにするような可憐な笑みさえ浮かべてみせる。
リシエの背後からは、リシエを監視するような厳しい視線が突き刺さっていた。こちらをじっと見つめる元老院のもの、若しくはオリヴィアの侍女や親衛隊のものなど様々。だけど、その元凶であるリシエに対しての嫌悪感だけは誰もが一貫している。
「えっと……貴方はノエルさん……でしたわね?」
「あ、は、はい……そ、そうです。ノエルです」
リシエはわざと、どもって見せる。そうすることで、背後からの嫌悪感がより膨らんだ。リシエは加減しつつ、その悪意を食す。昨日のように食い尽くしたりしないよう気をつけながら。
「これから、よろしくお願いしますわね?」
リシエに差し出された細く、真っ白い手。
「は、はい……こ、こちらこそっ……」
それを、できる限りねっとりとした手付きで、リシエは握った。背後で、阿鼻叫喚を示すように、感情が猛烈に増幅した。リシエは笑いを堪えつつ、止めをさすように言った。
「ぶ、ぶふっ……オリヴィア姫……お、お綺麗ですねっ……ぶふふっ」
エデが呆れたように手で顔を覆う。ロザリーはポカンとこちらを見つめるだけだ。
リシエがそろそろ頃合いと見て、育てた悪意を刈り取ろうとした瞬間、リシエの肩に手がかけられた。リシエが振り返ると、天を突かんばかりの巨躯の男がリシエの視界いっぱいを埋め尽くした。
男は地獄の底から響くような、低い声で言った。
「調子に乗るなよ……下郎」
「――――っ!?」
猛烈な力でリシエの身体は背後に引き寄せられ、気付けばその場で地に伏せていた。片手を後ろ手に極められ、抵抗しようにも巨躯の男は微動だにしない。ギリギリと体重をかけられると、リシエの眉が苦痛に歪んだ。
「い、いぎゃあああああっ!」
無様にリシエは叫ぶ。その情けない悲鳴を聞いて、王城内を渦巻く悪意が笑うように律動した。悪意だけでなく、リシエを侮蔑の目で見ていた者達は、口元を隠して笑っている。
――――いっただきまーす!
リシエは計らずともさらに成長した悪意を貪ろうと、彼女の中にある第二の口を開いた。黒々としたブラックホールを連想させる大口を開けて、悪意を飲み込もうとした刹那――――
「おやめなさいっ!」
オリヴィアの一喝によって、悪意は呆気なく霧散した。
「え?」
お預けを食らったリシエは、呆然と声を発したオリヴィアを見る。怒りに顔を赤くしたオリヴィアは、なおも美しい。それは姿だけではなく、心もそうであった。清純……聖女……そういった敬称が素直に相応しく思えるような、どこまでも純白な心。穿った見方をすれば、それは無知とも取れる。箱入り娘として大切に育てられてきたせいで、現実を知らない。ちょっとした運命の悪戯一つで、オリヴィアの心は見る影もないほどに醜く澱んでしまうのだろう。
また、それとは別の問題もあった。
「……悪意が……消えた?」
リシエは以前叩き伏せられたままの体勢で、小さく呟いた。その目はまん丸に見開かれており、まるであり得ないことが起こったとでも言いたげである。実際、リシエにとってはそうであった。リシエはこれまで、誰かの一喝でその場の悪意云々が消し飛んだ現場を見たことがない。
「ううん……消えたんじゃない……浄化されたんだ……」
リシエは冷静に起こった事を考察する。
オリヴィアの一喝と同時に、まるでオリヴィアの声に浄化されるようにして、漂っていた悪意は浄化されたようにリシエには見えた。
これではまるで、オリヴィアにリシエが抱いた印象だけでなく、行動すらも聖女の行いだ。
しかし、リシエとは決定的に違う点が一つある。リシエがすべての悪意を無に帰す存在だとすれば、リシエは浄化して本人に返却する。どちらが人として、人にとって善い行いかは明白であった。まぁ、リシエに言わせれば「私は人間じゃない」と鼻で笑うだろうが。
「聞こえませんでしたか、リュカ? 私はやめなさいと言ったのです」
オリヴィアは、厳しい目で、リシエにのし掛かる巨躯の男――――リュカを見据える。それを受け、リュカは戸惑うように声を上げた。
「し、しかし、この男は勇者様方の小間使いに過ぎず、このような男がオリヴィア様の肌に触れるなど断じて許されることでは……」
「それを決めるのは貴方ではありません。まして、呼び出しておいて小間使いと馬鹿にするなど言語道断ですわ! 彼は勇者様の小間使いであって、私達のではないのですから」
「は、はは……」
こうも小間使いを連発されると、さすがにリシエといえども笑うしかない。
「とにかく、そこをお退きなさい。そして、ノエルさんに謝罪を」
「ぐっ!」
リュカは顔を歪めるが、オリヴィアに従わないわけにはいかない。巨躯をノッソリを起き上がらせると、リシエの前でリュカは膝をついた。
「こ、この度は無礼を働いてしまい、すまなかった……」
言いながら、肩がブルブルと震えている。彼にとって、相当な屈辱なのだろう事が、簡単にうかがい知る事ができた。
「い、いえ……気にしないでください……」
リシエとしては、そう返答するしかない。
「いいですから、頭を上げてください」
「……分かった」
短いやり取りの後、リュカが立ち上がる。その間際に向けられた憎悪に塗れた視線を受けて、リシエの肌に鳥肌が立った。
「後はノエルさんの主人である勇者様方にも謝罪を」
「はい」
リュカは露骨であった。リシエに対してはあんなに逡巡したにも関わらず、勇者とされているエデとロザリーにはあっさりと膝をつく。心なしか、リシエの時よりも頭が深々と下がっているように見えた。
「……大変申し訳ありませんでした」
頭を下げるリュカをエデが絶対零度の視線で見下ろす。その瞳には感情が宿っておらず、まるで人形の瞳のよう。無言の圧力を感じているのか、リュカはピクリとも動かなかった。その額を粘ついた一筋の汗が流れる。
「……」
無言……。
「…………」
無言…………。
「………………」
どこまでも無言の静寂が王の間に流れた。妙な緊張感で、その場にいる者は誰も物音一つ立てようとはしない。
やがて、無言に業を煮やしたのか、エデに変わってロザリーが変わりに言った。
「反省してるならいいと思うよ。……いい、よね?」
自分の意見を述べた後、ロザリーはリシエに判断を仰ごうとする。あれだけ小間使いを連呼されているというのに、まったく機転がきかない。さすがはロザリーである。
「……い、いいと思います……」
リシエの言葉は明らかに苦しかった。どこの世界に小間使いの了承を受ける主人がいるというのだろうか。
しかし、その状況を打破してくれたのは、やはりエデである。
「以後、気をつけてください。ノエルが私達の所有物である事、努々忘れることのないように」
「はっ……!」
冷徹なエデの声でようやく世界が動き出す。緊張から解き放たれ、あちこちで息を大きく吐き出す人々がいた。
「ノエルさん、リュカの主人として私も謝罪します。申し訳ありませんでした」
オリヴィアは、軽く頭を下げる。ノエルがそれを制すと、オリヴィアは唐突に手を差しのべて来た。
そして、
「改めてよろしくお願いします。どうかガレリアにお力添えください」
「は、はい」
今度はリシエも普通にオリヴィアの握手に答え、波乱を告げる自己紹介は幕を閉じるのであった……。