ガレリア皇国
ガレリアは死に体である。
幼げな相貌を似合わぬ辛苦で彩り、地面に届きそうな程に長い美しいブラウンの髪をフンワリ揺らす少女。ガレリア皇国第一皇女であるオリヴィア・マリー・リンヌ・ドゥ・ガレリアは現在の状況をしっかりと認識していた。
【逸脱者】と呼ばれる国家を守護する者達が暗殺された事実は、混乱を避けるため国民には未だ伏せられているものの、決して看過できる問題ではない。逸脱者を擁立することで、各国は冷戦状態にある。しかし、そんな今、ガレリアに逸脱者が不在という事実を知られたなら、あっという間にガレリアは食い物にされてしまうだろう。
そんな未来をオリヴィアは受け入れることができなかった。
オリヴィアが静謐な眼差しで見下ろす先には、複雑な古代語と円で形作られた巨大な魔方陣がある。真っ暗な、光のない空間にポツンと書き記された魔方陣は、見る者を圧倒させるような威圧感を漂わせていた。
ここは、ガレリアにおいて救済の間と呼ばれる特殊な部屋である。
「オリヴィア、そろそろ始めようか」
「はい。お父様」
華美なマントを肩に羽織ったガレリア国王――――つまり、オリヴィアの父であるランディー八世に促され、オリヴィアは一歩前へ踏み出した。
わずかなざわめき。
救済の間の壁際には、幾人ものフードを被った老人達が並んでいる。オリヴィアが動いたことで、いよいよ儀式が始める予感に、各々考える事があるようだった。最も、その大半はこの茶番に呆れ果てているのは間違いがないだろうが……。
「では、参りますわ」
オリヴィアが魔方陣の前に膝をつく。彼女に付き添っていた侍女が、オリヴィアの髪が汚れないように、髪の先端をそっと手に取った。
「っ!」
オリヴィアは目を閉じ、魔力を身体に循環させる。循環させ、純度を上げた魔力を魔方陣に流し込んだ。
しかし――――
「だめ……なの?」
どれだけ魔力を送り込んでも、魔方陣は一向に反応を示そうとはしなかった。ただ、その場に鎮座するのみである。元々、成功する確率は限りなく低かった。何故なら、有史以来、この魔方陣が発動したことは、たった一度しかないのだから。
しかし、そんな魔方陣もガレリアにとっては唯一の希望だった。国の最重要機密として受け継がれてきたこの魔方陣にどのような用途があるのか、オリヴィアは推測はできていた。召喚陣である。であるならば、召喚陣で逸脱者に匹敵する守護者を呼び出せれば……そんな考えでオリヴィアは縋ったのだ。
始めから分かっていた通り、結果は無残なものだった。
「オリヴィア……もうよい」
ランディーがオリヴィアの肩に手をかけた。
「まだ! まだですわっ!」
それでも、オリヴィアは魔力を注ぐことをやめようとはしない。オリヴィアは魔術の天才と称されたガレリア有数の魔術師だ。その力は逸脱者と比べられるものではないものの、知識量だけを見るならば、劣らないだけのものを持っている。
オリヴィアは湯水のように魔力を注ぐ。限界を超えた魔力の消費は、命の消費に他ならない。
「っ……ぅっ! ……ぅぁっ……ぃぅっ!」
脂汗を垂らしながら、オリヴィアは苦痛に呻く。
「もうやめぬか!」
「きゃっ!」
オリヴィアはランディーに肩を強く引っ張られ、尻餅をついた、同時に、魔力の供給も途切れてしまう。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
オリヴィアが息を荒げる。その瞳に、大粒の涙が溢れた。オリヴィアはその場で項垂れると、力なく懺悔の言葉を漏らす。
「……お父様……ごめんなさい……」
「よいのだ」
号泣するオリヴィアを慈しむようにランディーが抱きしめる。
そんな悲嘆に暮れる二人の耳朶が、嘲笑をはっきりと捉えた。
「くっ……くくっ……いやー、感動的ですなー? しかし、結果は残念だったようで、このアドリアンも悲しいですぞ?」
とてもそう思っているとは思えないニヤニヤとした笑いを浮かべながら、国の中枢、元老院筆頭のアドリアンが近づいてくる。痩身痩躯の肉体は老いを感じさせないほどに若々しい。なによりも特徴的なのはその目であった。ギラギラとしたすべてを飲み込もうという野心に溢れた視線。それが人心を惹きつけてやまないのか、アドリアンは国民にも愛されている。
しかし、オリヴィアはずっと以前から、アドリアンを危険視していた。
「何がいいたいのですか?」
オリヴィアはきっと鋭くアドリアンを睨め付ける。アドリアンは「おー怖い」とばかりに大仰なリアクションをとりながら、オリヴィアからランディーに視線を移す。
「約束していたはずですぞ? 王よ。逸脱者不在の現状を回復できないなら、民を守るために王には犠牲になって頂くと」
「……分かっておる」
ランディーは重々しく頷く。
「お父様!?」
オリヴィアが抗議のために声をあげるも、その場に誰も真面目に聞く者などいない。元老院はすでにアドリアンに掌握されている。
「アドリアン! 貴方は国を売るおつもりですか!?」
アドリアンがやろうとしていることは、無血開城に他ならない。逸脱者不在の旨を告げ、全面的に降伏する変わりに民の安全を保証してもらう。だが、言葉で言うのは簡単でも、そうそう上手くいくはずもない。どこに国を明け渡すにしても、ガレリアとその国の間には必ず格差が生まれるだろう。そもそも、権力欲の化身とでも呼ぶべきアドリアンが国民を救いたいなどと考えているはずもないとオリヴィアは考えていた。
「これは失敬な。私ほどの愛国者はそうおりませぬよ? 民のために血肉を流すのが我ら元老院と王族の務め。違いますかな?」
飄々と言ってのけるアドリアンに、オリヴィアの頭に血が上る。オリヴィアがなおも言い募ろうとした所を、ランディーに止められた。
「よいのだ。そういう約束だったのだ」
ランディーは覚悟を決めた悲壮な表情を浮かべていた。
降伏するにして、王族なんてものは百害あって一利なしと見られてしまう。降伏する場合は、王族に連なる者すべての処刑が慣例であった。当然ながら、オリヴィアもその一人に含まれている。国を民を守るためならば、オリヴィアは死も厭わない。しかし、それでもアドリアンに全てを託すのは承服しがたい出来事だった。
「すまぬ……オリヴィア」
ランディーの表情は罪悪感で濡れていた。ランディーは誰よりもオリヴィアとその弟ユーリに愛情を注いでくれた。オリヴィアは初めて目にする弱々しい父の姿に言葉を失う。
オリヴィアの脳裏を絶望と虚無感が襲う。アドリアンに向ける敵意が、急速に失せ始めていた。残ったのは、オリヴィアの生の終焉。『死』のみであった。
「ユーリは……」
夢の中を彷徨っているかのような、力のない声色。現実味というものがオリヴィアの声には欠如していた。しかし、そんな状況にあっても、オリヴィアは真っ当な人間であった。……真っ当であり続けようとした。
「ユーリだけは……どうかお助けを……」
オリヴィアは地面に頭を擦り付け懇願した。あまりにも惨めであり、人の上に立つ高貴な者のするべき事ではなかった。民の模範たるオリヴィアはそこにはいなかった。
「…………」
「お願い……します。ユーリの命だけでもお助けください……」
それでもなお、オリヴィアは重ねて懇願する。次期王であるユーリの生存を希った。そんなオリヴィアをアドリアンは表情もなく、冷徹に見下ろす。その表情に、先程までのような遊びは一切ない。やがて、一分、二分が過ぎた頃、アドリアンはオリヴィアの姿を瞳の奥に焼き付けるかのように、長い瞬きをして言った。その口元を歪め、悪魔のように笑いながら。
「そのお願い……聞き届ける訳にはいけませんなー? ユーリ王子は普通に生きていられればガレリアの次期国王だ。処刑すべき優先順位としてはランディー王に次いで二番目……つまりオリヴィア姫、貴殿よりも高い」
「……っ」
そんな事、オリヴィアも百も承知である。
「ですが――――」
だが、アドリアンの言には続きがあった。
「一つだけない事もありませぬ。ユーリ王子どころか、ランディー王すらも犠牲にしなくてすむ方法が」
「本当ですか!?」
オリヴィアは目を見開いて驚いた。そんなオリヴィアの表情を見てアドリアンは嫌らしく笑いながら続ける。
「西の同盟国にあるイシス教国はもちろんご存じですよね?」
「ええ、それはもちろん……存じております」
若干戸惑いつつ、オリヴィアは頷いた。
イシス教国といえば、魔術を司る女神イシスを絶対神とする魔道国家である。数第前からガレリア王家とは親交があり、ガレリアの約八割はイシス教に入信しているとされている。その縁もあり、オリヴィアはイシス教国で魔道の勉強のために留学した経験もあった。知らないはずがない。
「そのイシス教国指導者……オルバ様はオリヴィア姫をいたくお気に入りと拝聴しております。……言いたいこと、分かりますかね?」
アドリアンのネットリとした視線がオリヴィアに注がれる。アドリアンの言葉の意味。分からぬはずがなかった。
「し、しかし……オルバ様はもう……」
「くっくっくっ……その通り。オルバ様は今年で御年六十になります」
オリヴィアはぞっと背筋を凍らせた。皇族である以上、いずれ国の繁栄のための政略結婚をオリヴィアは覚悟していた。しかし、まだオリヴィアは十六になったばかりの少女である。六十歳を迎えた老人の嫁になれと言われて、容易には受け止めることができない。
オリヴィアはランディーを見る。ランディーは無言でそっと目線を外した。まるで、逃げるように。
「っ……っ、っ!」
オリヴィアは唇を噛みしめる。
「さて……どうなさいますかな? 姫……」
胸元で祈るように手を握りしめ、オリヴィアは震える口から自分を捧げる旨の発言をしようとして――――
――――そんな時、それは唐突に訪れた。
「……え?」
オリヴィアの呆けたような声。アドリアンが釣られて振り向くと、そこには目を覆わんばかりの光が溢れていた。
夢でも見ているのだろうか、オリヴィアはそう思った。
しかし、現実に、件の魔方陣は極光を発している。そこから生まれる魔力の波動は逸脱者に何ら劣ることはなく、むしろ凌駕しているとさえ感じた。
やがて、その極光が収まると、その場には三つの見慣れる影ができていたのだった……。