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プロローグ Ⅱ

 巨大な浴槽には並々とお湯が張られ、湯気が立ち上っていた。

 湯を囲んでいるのはゼルシムの大事な資源であるカシムの木である。カシムの木の特徴は、特有のバニラのような甘い香りを発することであり、この香りは熱に触れるとさらに増幅する特性を持っている。そのため、ゼルシムのお風呂は女性を中心に、世界的な人気があり、お風呂を求めて旅人が集ってくる程である。 惜しむらくはゼルシムに天然温泉がない事だ。小規模な山、森林はあるものの、成層火山のような活発な働きをしている山が周囲にないのが原因であった。そのため、温泉が出そうな国へカシムの木を輸出する事業も、近年は活発になってきている。


――――閑話休題それはさておき

 

「はぁ……ダメね」

 

 バニラの香りに包まれ、全身の力が抜け落ちてしまいそうな熱めのお湯に入っているというのに、リシエの表情は冴えない。リシエは本日二度目となる大きな溜息を吐いていた。


「どうしたの、お姉?」


 若い肌にお湯を弾ませ、リシエの肩へ気楽な感じでのし掛かる少女が一人。リシエよりも頭一つ分高い身長に、深紅の瞳、波打つ美しい金髪、豊満な肢体を誇る少女は、リシエをまるで挑発するように、胸をすり寄せる。


「重い……」


 いつもなら生意気な小娘に、仕返しの一つや二つ平然とするリシエではあったが、今日はそんな元気はなかった。


「お姉……本格的に参ってるみたいだね」


 少女もリシエに普段と違う何かを感じ取ったのか、そそくさと身を離す。


「どしたの?」


 少女は両足を行儀悪く水面でバタつかせる。水面が泡立ち、水滴が無作為に周囲へと拡散された。リシエは鬱陶しげに少女の頭を軽く叩いた。


「やめなさい」


「いたっ」


 少女は叩かれた箇所を撫でながら、悪びれる様子もなくテヘリと舌を出す。


「はぁ……」


 それを見て、リシエは本日三度目の溜息を零した。


「いいわね、ロザリーは悩み事なんてなさそうで……まったく、羨ましいわ」

 

「え、そう? えへへ……お姉に褒められるなんて嬉しいなー」


 芸術品のように整った相貌を崩し、少女――――ロザリーは満面の笑みを見せる。もちろん、リシエは皮肉のつもりで言っていた。にもかかわらず、こんなにも心底幸せそうに笑われると、自分自身が馬鹿みたいに思えてくる。


「もう……仕方のない子ね」


 ニコニコとした表情を崩さないロザリーの頭をリシエは若干雑に撫でた。濡れた金髪は絡まり合い、次第に悲惨な様相を露わにしていく。しかし、ロザリーはもっともっとと、請うようにリシエに頭を傾ける。まるで小動物のようである。

 ようやく、ほんの僅かではあるが、リシエの頬が緩む。それを目敏くロザリーが見つけ、指摘した。


「お姉、ようやく笑ったね」


「え?」


「なんかずっとムスッとしてたよ」


「そう……ね」


 リシエは自分がそんなに機嫌の悪そうな表情を浮かべていたのかと、少し反省し、自らの頬をマッサージする。


「何があったかなんて、私馬鹿だから分かんないけど、笑ってればなんとかなるよ!」


 何の根拠もないロザリーの言葉。だけど、不思議とリシエにはその言葉がスッと胸に入ってくる。


「そうよね。落ち込んでても、何も解決しない……か」


「そうそう!」


 当たり前のこと。だけど、悩みの元は、正直リシエ自身、どうしようもない事だと諦めていたのも事実だった。だったら、まずは行動だ。自分で解決法を見いだせないのなら、相談すればいい。リシエには自慢の部下や家族達が大勢いるのだから。


「ありがとう。でも、ロザリーのくせに生意気っ!」


 一転してリシエは意地悪く笑うと、ロザリーの頭をぐちゃぐちゃにする。


「う、うあああっ」


 目が回ってフラフラ揺れているロザリーの頭を見て、笑みを浮かべながら、リシエは小さい胸を堂々と張った。


「そろそろ出ましょうか。……それで、話、聞いてくれる?」


 リシエのお願いに対する答えはいつだって一つ。少なくとも、ここ、ゼルシムにおいては。 


「うんっ!」



 


 ネグリジェを身に着け、牛乳を一気飲みする。それが入浴後のリシエのスタイル。その隣では、リシエの真似をするように、ロザリーが腰に手を添えて豪快に牛乳を飲んでいた。しかし、比較的上品に飲むリシエとは違って、口の端から牛乳がポツポツと零れている。流れ落ちた牛乳は、山となっている胸元まで滑り、そこで静止した。リシエはどこか恨めしそうに、それを見つめている。

 やがて二人が牛乳を飲み干すと、脱衣所の扉がゆっくりと開く。


「お待たせしました。お姉様が私に相談とは珍しいですね」


 エデである。ある事を相談するために、リシエが呼んだのだ。リシエと同じく、エデもロザリーも神祖ではないものの、吸血鬼と呼ばれる存在である。さらに、かなりの遠縁にはなるものの、二人はリシエの親族に当たる。神祖たるリシエは自分の血族を実質的に掌握しており、血の繋がりを利用してテレパシーに似た術を行使できるのだ。


「こんな遅くに呼び寄せて悪いわね」


 リシエはチラリと壁に掛かっている機械式時計を確認した。午後十一時過ぎ。エデは規則正しい生活を心がけているようだから、微妙な時間だったかもしれない。


「いえ、お気になさらずに」


 心配とは裏腹に、エデは嬉しそうに笑う。


「お姉様のお役に立てるのでしたら、何時まででもお付き合いしますよ」


「ありがと……」


 親愛の情を隠そうともしない率直な物言いに、リシエの頬が僅かに赤らんだ。


「あっ、お姉赤くなってる……いたっ!」


 隣からチャチャを入れる意地の悪い子には、迷わず鉄拳制裁をリシエは下した。


「では、とりあえず談話室に移動しましょうか?」


「ええ、そうね」


 エデの提案で、リシエ達は談話室に移動することになった。






 談話室は浴室、脱衣所のすぐ隣にある部屋だった。一通りの化粧品や美容用具などが揃えられており、基本的には浴室同様、城で働く女性ならば、誰でも使用することができる。よく仕事終わりにメイド達がお風呂に入り、談話室で軽くお茶をして帰っているのをリシエもよく見かけることがある。たまに、お風呂に一緒に入って、そのまま彼女たちと会話に興じるのも、リシエは密かな楽しみにしていた。

 ところで、この浴室と談話室であるが、ある時期を境に完全男子禁制となった訳だが、そのせいで兵士や男性職員から不満の声があがっているらしいが、それはまた別の話。


「お茶飲みますか?」


「ううん、私は結構よ」


「いらなーい!」


 談話室のソファーに腰掛けると同時、エデの提案をリシエとロザリーは断る。「そうですか……」とエデが若干寂しそうに座るが、気にしない。いつもの彼女らの挨拶のようなものである。エデは誰彼構わずにお茶を振る舞おうとする。それだけなら結構な話なのだが、一度お願いすると断りもなしに次から次へと注ごうとするのだ。エデの数少ない悪癖の一つである。


「相談ってなにー?」


 子供のように足をばたつかせながらロザリーが問う。リシエはロザリーの足をペシリと叩きつつ、小さく言った。


「あの……ね? ……悪意が……足りないの」


「……?」


 ロザリーが少し目を瞬かせる。意味が汲み取れていないようだ。逆に自分の分のお茶を啜りながら、エデは「なるほど」とでも言いたげに目を伏せて頷いた。


「どういう意味?」


 ロザリーが再び問いかける。リシエの変わりにエデが答えた。


「ゼルシムの方々は皆さんよい方ばかりだから、お姉様のお食事ができないのよ」


「あ、そっか! お姉って血を吸わないんだっけ?」


 まるで今気付いたと言わんばかりに手を打つロザリーにエデは呆れたような視線を向ける。


「な、なによー!」


 その視線の深い意図は分からずとも、よろしくない意味合いであることには勘づいているようで、ロザリーはむーと頬を膨らます。見た目だけならば舞台女優として主演を張れそうな容姿をしているだけに、この子供っぽさは残念の一言に尽きた。


「ま……エデの言うとおり。そういう訳なのよ」


 リシエは未だ膨れっ面のロザリーの頭をポンポンと撫でながら、肩を竦めた。お手上げといわんばかりだが、またしてもロザリーは違った印象を抱いたようだ。膨れっ面を一変。瞳を輝かせて声をあげる。


「でも他の国に行けばいいんじゃない!? お姉が昔はそうしてたって私どこかで聞いたことあるっ!」


 「ね?! ね?!」とロザリーは同意を求めてリシエとエデの顔を見る。しかし、返ってくるのは苦笑と冷笑のみだった。


「なんでぇー!?」


 褒めてもらえると思っていたのか、ロザリーはバタンとソファーに倒れ込んだ。そっぽを向いて、今度こそ機嫌を損ねてしまう。リシエが頭を撫でようとしても、避けられてしまう。


「ふっ」


 そこに、追い打ちをかけるように、エデがロザリーを鼻で笑う。ロザリーは敏感に反応して、エデを睨み付けた。 


「本当に馬鹿ね……あなたは……」


「なにおうっ!?」


 目が合うと、バチバチと火花が飛んでいる様をリシエは幻視する。別に珍しい事ではない。恒例のただの姉妹喧嘩だ。エデとロザリーは二卵性双生児であるものの、相性はあまりよくなかった。


「お姉様が他国に訪問した結果起こったあの悲劇……あなたは知らないの?」


 ニヤリと笑いながら、エデは言う。それほど一般に知られている情報ではないだけに、ロザリーが知らなかったからと恥になる訳ではない。その事をエデも心得た上で、あえて周知の事実のようにエデは語る。


「お姉様が昔訪問なさったシュベーラの王族は、その身に宿す人として最低限の悪意――――つまり疑心、嫉妬、自己愛、その他の負の感情を残らずお姉様に喰われた結果……滅んだのよ」


「え!? 滅んだ!!?」


 ロザリーが目を見開く。


「そうよ。疑う事を考える事さえしなくなったシュベーラの王族は言われるがまま他国に国を売り渡し、勇猛果敢を誇った兵や国民もほとんど虐殺された」


「……嘘」


 ロザリーがリシエを見る。リシエはその視線を正面から受け止めることができずに、逸らした。

 悪意が喰われたという意味ならば、ゼルシムもそうだ。リシエが碌にお腹を満たすことができない程に、ゼルシム内における悪意は枯渇している。そのおかげで、突き抜けて平和な日常を送れているという側面もある。だが、リシエや、その影響を最小限に抑えられる神祖血族者達がいなくなれば、ゼルシムもやがてはシュベーラと同じ末路を辿るであろうことは容易に想像ができた。


「そんなにイジメないでちょうだい……エデ」


 リシエはエデを軽く睨む。


「あっ……」


 姉を言い負かすことに集中していたらしいエデは、リシエの姿を目にすると、分かりやすく取り乱した。


「い、いや……お姉様! か、勘違いなさらないでくださいね?! 今のは別にお姉様を非難しようと思って言った訳ではないんです!!」


「本当にそうなの? 意気揚々と私を糾弾してたように聞こえたけど?」

 

 焦るエデに、リシエは背を向ける。その背に、エデがしがみついてきた。


「お姉様ぁ~!」


 半泣きだった。リシエはクスリと微笑みながら振り返り、エデを抱きしめる。


「……分かってるわよ、そのくらい。だけど、それを置いてもロザリーを馬鹿にするような言い方は見過ごせないわ。姉妹でしょ? もうちょっと仲良くしなさい」


 リシエが宥めると、エデは数瞬迷った後、


「…………はい」


 と、頷いた。


「えっと?」


 対して、ロザリーは話の流れがよく分かっていなかったようだ。可愛らしく首を傾げて、ハテナマークを浮かべている。

 リシエは苦笑しながら、


「エデが謝りたいんだって」


 と、言うと、ロザリーは軽く目をそらしてから言った。


「しょうがないな~、もうっ!」


 その頬は、隠しようもないくらいに、緩んでいた。







「なんだか話が脱線しちゃったわね」


 話を本筋に戻すために、リシエはコホンと咳払いする。幾分落ち着いた姉妹の視線が、リシエに向けられる。


「エデの話は事実よ。そういった事があったのは本当の事」


 リシエが改めて言うと、ロザリーの肩が若干落ちる。血族とはいえ、リシエの悪意食いの影響を完全に免れる訳ではない。エデのように、リシエの密命を受け、頻繁に他国へと赴いて悪意への耐性をつけているならまだしも、基本的には悪意に対して脆弱なのだ。人が死んだ。心優しい者は、その事実だけで心に傷を負うこともある。

 しかし、ロザリーもいい加減大人の仲間入りをしても良い年齢であることも確か。今回の相談は、ロザリーにとっても、いい経験になったのではないか、リシエはそう思った。


「その時は私も自覚がなかった。結果を予想することができなかった。……そんな言い訳を口にするのは簡単だけど、私のせいで一つの国家が滅びて、多くの人々が犠牲になったのも、紛れもない真実」


 エデと、ロザリーは無言でリシエを見つめていた。リシエは決意を込めて、罪と知りつつ、その一言を言い放った。


「だけど――――私は生きたい。……ううん、こんな所では死ねないの」


 ゼルシムは、何としてでもリシエが守らなければならない。今まで生きてこれたのも、すべてはゼルシムという国があったからに他ならない。もしかしたら、ゼルシムは元の純粋な姿から大きく変質してしまっているのかもしれない。それでも、リシエはゼルシムを愛していた。


「お姉様……」


 エデが、覚悟を決めたような表情を浮かべていた。


「お姉様だけに罪を背負わせはしません。元よりお姉様あってこそのゼルシム。この国の誰もがお姉様と共に罪を背負うことを厭いません。ですので、はっきりと、言葉にしてお聞かせください」


 エデに迷いはないようだった。リシエが次に言う言葉を察した上での忠誠だ。


「お、お姉……」


 ロザリーは……震えていた。


「私……なんだか、怖いよ」


「うん……そうね」


 ロザリーの言うとおり、リシエの下そうとしている決断は決して許されざるものだ。長い時間、封印してきた決断。そんな重いものをロザリーに背負わすのは、あまりにも酷だったのかもしれない。


「でもね……」


 しかし、ロザリーはリシエが想像していたよりも、遙かに成長していた。


「お話聞いてても、たぶんあんまり私は理解できてない。それでも、お姉が辛そうって言うのは分かるよ? だってお姉泣きそうなんだもん。だからね、私はどんな事があってもお姉の味方だよ!」


 ロザリーの言は、支離滅裂である。しかし、リシエには十分にその気持ちが伝わってきた。何よりも、どんなことがあっても味方をしてくれる……そんな心強い存在はない。


「ありがとう」


 リシエは話を聞いてくれた二人に感謝する。

 結局の所、リシエは最初から相談するつもりなどなかったのだ。ただ、無垢な子供のように、自分の罪を誰かに一緒に背負って欲しかった。

 なんという醜悪で自分勝手な感情だろう。悪意を取り払った世界では、リシエこそが何者よりも悪意に満ちている。

 リシエは、そんな自分を嫌悪しつつも、憎みきれない愚かな女だった。そんなリシエだからこそ、こんな最低最悪の決断ができるのだろうと、言葉に出さずに思った。


「私は――――」


 リシエは目を閉じた。心臓が脈打つ。どこからか大きな鼓動が聞こえる。誰かを呼ぶ声。


「え!?」


「ええぇっ!」


 エデとロザリーの小さな悲鳴。

 雰囲気をぶった切りにされ、リシエが目を開けると、そこには――――


「はっ?」


 エデとロザリーを中心として、私を巻き込むように足下に魔方陣が浮かんでいた。リシエが呆けたような声を上げた刹那。


「「「っ!?」」」


 世界を空白と無重力が支配した。どこかへ、飛ばされているであろう事だけ、リシエには理解できる。


「ああ……」


 飛ばされながら、リシエは恨んだ。この現象を生み出した存在を。人がせっかく一世一代の決断をしようとしている時に、よくも邪魔してくれたな! と。

 声も届かない空白の中、リシエはそれでも声を張り上げようと口を開く。

 曰く――――


『私は――――他人を犠牲にしてでも大切な人のために生き延びてやるーーーーー!』


 と、いった事らしいが、声なき世界では、それは神とリシエ本人のみが知る……。







 リシエ・アナト・ルージュは八百年以上を生きる吸血鬼の神祖である。

 元々は多くの残された伝承通りに、人に限らない血液を啜って生きてきたのだが、齢三百を過ぎたころに突然異変が起きたのだ。


「……美味しくない」


 その日、朝食変わりに貯蓄しておいた、毎朝日課にしている血液を飲み干したリシエはそう呟いた。前日までは猛暑の季節にキンキンに冷えた飲み物を一気飲みした時のような爽快感があった血液が、味気なくただ苦いだけの物に変貌していた。たまにフォークやスプーンが歯に当たった時にする嫌な感覚。俗にカルバニー電流と呼ぶ現象らしいが、それと同質の味をリシエは血液に対して初めて覚えたのだ。

 予想もしていなかった事態に、リシエは大いに戸惑った。血とは吸血鬼人生における最大の嗜好品ゆえに、三日三晩リシエは泣き腫らした。

 しかし、事態はより深刻だった。味覚は血液を受け入れないが、身体は別だったのだ。リシエが泣く泣血液から離れてから一月後、猛烈なダルさがリシエを襲った。さらに刻一刻と身体の重さが進行していくものだから、もう大変。リシエは半泣きになりつつ、血液を飲み干す毎日が始まった。あれだけ好きだった血液を飲む行為が、まるで拷問のようになり、リシエは二重に泣いた。


 しかし、ある日転機が訪れる。


 ゼルシムが新興国家の一つに過ぎなかった時代。リシエは同盟締結のために当時大国であったシュベーラを訪れていた。シュベーラは選民思想の非常に強い単一民族国家であり、とりわけ人外が王を務めるゼルシムを軽蔑の対象として見ていた。もしかすれば、この同盟じたいに何らかの裏があったのかもしれないが、満足な軍備の整っていなかったゼルシムとしては比較的近隣にあったシュベーラを敵に回すことだけは避けたかった。そこで、条約が不条理な物になるだろうと覚悟しつつ、リシエはシュベーラに渡ったのだ。

 リシエはシュベーラ国民、謁見したシュベーラの大臣、王族からも予想通り、筆舌に尽くしがたい悪意を向けられることとなった。実際、リシエと共にシュベーラに渡った者の中には、人生で最悪の思い出として語られることもままあるらしいが、リシエにとってだけは違った。


――――美味しかったのだ。


 垂れ流される悪意の悉くが、舌が蕩けるように美味に感じた。同時に、血液を美味しく思えなくなってから、どことなく本調子ではなかった身体の隅々まで、満たされるような感覚があった。

 リシエはシュベーラで垂れ流される悪意を無我夢中で貪った。最終日、締結した同盟は初日の話し合いから百八十度方向転換がなされたように、平等、もしくはゼルシム側に有利な内容になっていた。まるで、悪意が抜け落ちたかのように、リシエと直接接した大臣や王族達は穏やかな表情になっていた。

 リシエはその時に直感した。

 己がすべて喰ったのだということを――――


 その日から、リシエの人生は大きく変貌した。

 さらなる美味な悪意を追い求める人生へと……。

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