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私の人魚姫

作者: 原めぐみ

 白い柔らかな母の手が絵本を指し示す。

そこには虹色の鱗と金色の髪をした美しい人魚の姿と、珊瑚や貝殻で出来た海底の城も、鮮やかに描かれていた。

儚げな笑みを浮かべた母の姿と、泡沫のような人魚姫。子供の心を捉えるには充分すぎる物語。


『あなたが行く修道院は海辺にあるというからもしかしたら人魚に会えるかもしれなくてね』


 そう微笑んで仰られたお母様の予言の通りに、確かに私は人魚に会うことは出来たのだ。

 薄い紅色の鱗、黄金の髪の人魚姫。

 一目彼女を見た時から。

最早彼女の面影を私の心から消し去ることなんて出来るはずもなく。もう一度彼女を見たいという願いが重なり続ける。

 それは激しい恋のようだった。

 彼女の為なら、きっと何でも出来た。

間違いなくそれは断言できるのだ。

 その縁談が持ち込まれた時、私には躊躇いはなかった。人魚姫が助けたかった王子様。その男の元へ嫁げばもしかしたら彼女に再び遭えるのではないかという思いが、私を動かしていた。

 その王子様は私が行儀見習の為に預けられていた修道院の近くの海岸に打ち上げられていた。…打ち上げられていたというのは正しくないかもしれない。彼は人魚姫によって海岸へと運ばれたのだから。

 その前夜、かの王子様は船に乗っていた。そして突然の嵐がその船を襲う。海に投げ出された王子様はそのままでいけば溺れ死んでいたのだろう。けれど彼は人魚姫に見つけられ、人魚姫は彼を死なせまいと海岸へと運ぶ。偶々通りがかった私に発見された王子様は急いで修道院へ運ばれ一命を取り留めた。

 人魚姫を見たのは私だけだった。はっきりとその顔が見えるほどの距離で、それでもそっと身を隠すように彼女はこちらを窺っていた。それははっとするほどの美しさ。けれど彼女を見たことのない者にはいくら説明してもわからないだろう。それは人が知る以上の美だった。彼女は私が助けを呼ぶところまでを見届け名残惜しそうにその場を去った。

 一見して王子様と知れるような美麗な衣装を纏った青年に息があるかどうかを確かめようとして、屈み込んだ私は彼の服に付着していた薄紅色の鱗を手に入れた。

 人魚姫が彼を海岸まで運んだと知っているのは私だけだった。私は誰にもその話はしなかったのだから。…誰に言うことがあるだろう!!あの美しい人魚姫の存在すら誰にも知られたくはない。…だからあの王子様には私こそが命の恩人で、そして私が隣の国の王族の姫と知ると求婚してきたのだった。

 私の人魚姫。彼女に遭える可能性がほんの僅かにでもあるならば、私は何でもするから。何をしても後悔はないから。


 思った以上に彼女に再会するのは早かった。

 そのお城に着いて初めての夜に行われた舞踏会の席で私は彼女に再会する。

 私の人魚姫はもう人魚ではなかった。彼女は人になっていた。けれど私が間違えるわけはないのだ。その顔もその瞳もその髪もその肌でさえも、彼女が人魚姫なのは間違いないのだ。彼女の下半身は薄紅の鱗の、魚のものではなかったけれど。

 王子様はにこやかに私に彼女を紹介してくれた。彼女は言葉がしゃべれない。彼女は王子様につい最近拾われた身元不明の少女で、名前すらない。その美貌と気品とを珍しく思った王子様の、侍女というか友人というかそういう身分で今は城に住んでいるのだという。

「この子はとても踊りの名手でね」

 そう微笑む王子様の要請で彼女は舞をひとさし。それはとても華麗で儚く美しく。

 ああ、気が付かぬわけがあるものか。その悲しげな瞳に、気付かぬのは王子様。人魚姫は、あなたに恋をしているのに。

 後悔はすぐに生まれてしまった。私は人魚姫から彼女の大切な王子様を奪ってしまったのだ。それも王子様の命の恩人として!本当の命の恩人は人魚姫だったのに。

 けれど私はもうこの縁談を承知してしまった。断ることはもう出来ない。この身には私の故国の人間の命がかかっている。そしてましてや人魚姫と今更離れるなんて私には、できるはずがないのだ。

 そして人魚姫は私を恨んだ様子もなく、ただ、愛しげに悲しげに王子様を見つめて、言葉を紡ぐことの出来ないその唇を微かにわななかせているのみだった。

 どうすればいいのだろう、言葉が頭を巡る。どうすればいいのかわからない。人魚姫を悲しませるつもりなんて全くなかったのに。

 一つだけとるべき行動があるだろう。だけどもしかしたらそれは笑い飛ばされるだけで終わるかもしれなかった。彼女が本当は人魚であると王子様を告げるのだ、そして彼女が本当の命の恩人であることを信じさせることが出来れば、今は私に向いている王子様の愛を彼女に向けることは可能だった。だって彼女は人魚であったときと同じように美しいのだから。

 けれど私は人魚姫を悲しませるのは嫌だけど、それ以上に彼女が誰かのものになるのなんてもっと嫌だったのだ。

 私の悩みは解決しないまま、その日は、結婚の日は来てしまった。


 結婚式は趣向が凝らされていた。それは船で行われた。

 いつぞやの死にかけた思い出は王子様に学習機能を与えなかったようだ。

 海の上というのがどうしても私は不安だった。人魚は海のもの。人魚姫は帰っていってしまうかもしれない。彼女の両の足が魚のものへと変わりそのまま海に飛び込んでいってしまったらどうしたらいいのか。もう目の前に彼女がいない生活なんて耐えられそうにもない。けれどそれが彼女にとって幸福となるのならば仕方がないという思いもある。

 私の人魚姫。私の愛する人魚姫。人魚ではなくなった人魚姫。

 懐かしげに悲しげに苦しげに海を見つめてはいても、振り返って私を見つけるとにっこりと微笑んで、祝福をそっと送ってくれる。

 人魚姫、どうしたらあなたは幸せになれるの?

 問いを口にすることは出来なかった。


 夜半、パーティーが終わって人々が寝静まっても、どうやら私は眠れそうにもなかった。

 隣に眠る王子様の姿を見ても、重なるように浮かび上がってくるのはただ人魚姫の姿だけだった。

 肩掛けを羽織り、そっと部屋を出て私は甲板へと向かった。

 外は風も無く、空は雲一つ無い状態で、満月が辺りを明るく照らしていた。

 …人魚姫が甲板にいたのは偶然だろうか、それとも今日が今日であるからこその必然なのだろうか。

 身を乗り出すようにして彼女は海面を見つめているようだった。その背に呼びかけようとして私は人の声に気が付いた。けれどそれはどうやら彼女のいる辺りから聞こえてきているのだ。彼女が声を出すことが出来ないの位知っている。けれど彼女の他に人影はおよそ無かった。

 私は彼女に気が付かれないように彼女の近くまで忍び寄ると物陰から、彼女が覗き込んでいるように海面を覗き込んだ。

 人がいた。

 いや、人というのは正しくないだろう。その者たちはきっと人魚なのに違いなかった。海面から顔だけ出した姿が五つ、揃いも揃って短い髪の、彼女に似た容貌の女たちだった。

「知っているのでしょう?おばば様に聞いたのでしょう?あなたが愛した男があなたではなくて他の女と結ばれたのならばあなたは海の泡に…消えてなくならねばいけないのよ。消えてしまうのよ」

 ずきりと胸が痛んだ。女たちが必死に人魚姫に語りかけているその内容は。

「私たちはあなたを泡になどしたくはないわ。幸いなことに時間は日が昇るまであるわ。これを受け取りなさい」

 海から一人の女が何かを彼女の元へと投げた。月の光にきらりと光るそれは何なのだろう。私にはそこまでは確認できなかった。

「それは私たちが髪と引き換えにおばば様から貰ったものよ。夜明けまでにあなたはそれであなたが愛した男をあなた自身で殺しなさい。男の血にあなたの人の足を浸せば元の姿に戻れるわ。そうしてあなたは泡にならずに私たちの元へ、海の底に戻ってこられるの。ねえ、お願い。帰ってきて頂戴。私たちもお父様も皆があなたを待っているのよ」

 それは残酷な方法だった。

「待っているわ、妹よ。人などに何の価値も無いことはあなたも良くわかったでしょう。こちらと私たちの世界は違うのよ。早くこちらへ戻ってきて」

 女たちも必死だった。

 彼女はその場にへたり込んだ。いやいやをするように首を振る。

「これしか方法は無いのよ」

 止めをさすその一言に私は我に返った。彼女はまだ俯いたまま動かない。私は彼女に気付かれぬようそこを離れた。

 ぐらりと揺らめく世界の中で私は考えながら部屋に戻り、王子の隣に横たわった。王子は暢気に寝息さえたてていたけれど。私は夜風に凍えた体と、それ以上に凍りついた心をしていた。

 早く、早く来なさい。人魚姫。あなたがあなたの手でそれを行わねばならないのだから。

 あなたは海に還るべきなのだから。

 あなたが消えるなんて。それよりもあなたに気付かなかったこの男を殺して、人魚に戻って…。

 時間は刻々と過ぎていった。じっとりと汗ばむ手を握り締めて私は甲板に戻って引きずってでもここへ彼女を連れて来るべきかと考えていた。

 その時扉が微かに軋んで、開いた。

 彼女だった。その軽い足音も彼女のものだった。

 熟睡している王子の枕元に彼女は佇んでいるようだった。

 早く、人魚姫。

 すぐに足音は部屋から去っていた。

 嘘!!

 私は飛び上がるように起き上がった。王子の寝息はそのままに、だから彼は死んではいなかった。

 あなたは消えてしまうのよ。王子を殺さなければ。元々王子の命もあなたが助けなければ無かったものなのに。あなたが生きる為に犠牲にしても構わないのに。

 私は急いで彼女の後を追った。

 窓からのぞく外は東の空が段々に明るくなってきていて。夜明けが近いのは間違いなかった。

「人魚姫!」

 甲板に飛び出た私は彼女の背中に思わず叫びかけていた。

 彼女はびくっとして振り返った。そして私を見つけてふっと笑う。

「待って!」

 制止の声が届くわけも無かった。彼女は手すりから身を投げ出した。

 それは太陽が水平線に姿を見せるのと同時。

 水音はしなかった。

 覗き込んだ海面にはただ泡がたゆたうのみ。

「本当に?本当に泡になったの?」

 疑問には誰も答えはしなかった。

 その場にへたり込んだ私の手に甲板とは違う硬いものが触れた。

 それは小さな短剣だった。

 これが人魚が彼女に渡したもの…。

 私はそれを握り締めた。

 自分がどうすればいいのかなんて、勿論わかりきっていた。

 彼女が王子を愛したように、私は人魚姫を愛していたのだもの。

 そう、命なんて惜しくないほどに…。


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