揺れる尻尾
わんわんにゃんにゃんの日なお話
会長視点
放課後、いつもより遅い時間に聞こえた挨拶の声に顔を上げる。遅れるとメールにあったから気にせず声を掛けようとしたのだが、様子が可笑しい。
帽子を目深に被り、薄手のロングコートを羽織った後輩は、部屋の入り口に佇んだまま何かを躊躇するように動かないでいる。普段怪しまれるからと変装の一切をしない後輩の明らかに不審な姿。眉を寄せ何かあったのかと訊ねると、暫く迷う素振りを見せた後輩はゆっくりと帽子を外して見せた。
「……何だそれは」
「…………分かりません」
茫然と言葉を溢す俺に心底困ったという顔をした後輩。その頭上では三角の平たい物体、何かの動物の耳が折れ曲がっていた。
「……猫?」
「……いえ、たぶん犬です」
脱いだコートの下から緩く丸まった尾が現れる。成程確かに日本犬らしい形状をしていた。
唖然とする俺に後輩は恐る恐るといった様子でこちらに近寄り苦笑する。立ち上がり眼下の見慣れぬ物体を凝視してみたが留め具は無く。それどころか生き物の一部として血が通っているように見えた。
「本物か?」
「……取れないんで、……はい」
参ったとばかりに傾けられた頭の上で垂れている犬の耳。尾の方も力無く下がっているがこれはいったいどうしたものか。
「何故こうなったか分かるか?」
「……朝、目が覚めたら既にこんな感じで。……一日、お休みして、考えたり、調べたり、しよったと、ですが、わ、分からんで……っ。どぎゃん、しよ、って、」
(「……朝、目が覚めたら既にこんな感じで。……一日、お休みして、考えたり、調べたり、してたん、ですが、わ、分かんなくて……っ。どう、しよ、って、」)
話せば話す程落ち込みが増していくのか言動に混乱が混じる。言葉に詰まる後輩の肩を叩きこちらを向かせれば不安に揺れる瞳とかち合った。
「そうか、分かった。じゃあ戻り方を探すか。……大丈夫だ。ちゃんと戻るさ」
「……はい」
穏やかさを心掛け言い聞かせれば安心したように笑って肩から力を抜き頷く後輩にこちらも自然笑みが溢れる。と、頭に生えた耳と尾がピンと立ち上がったのが見えた。ちゃんと動くのかと驚いて目の前のそれに触れると驚いた声を出され瞬く。
「どうした?」
「い、いえ。何か、擽ったかった、だけです……」
顔を僅かに赤らめて耳を押さえる後輩に触感はあるのかと納得し、少し考えてから話を切り出した。
「少し触っても良いか?」
「え?」
「どう付いているのか見たいんだが……」
治すには先ずそれの状態を知りたくて言ったのだが、唸るように考え込んだ後、一大決心したかのような顔で目を強く瞑り体を固まらせる姿に心配が湧く。取り敢えず落ち着くようにとソファに並んで座らせてみても緊張が解れる様子は無い。痛みを感じるのかと訊ねれば大丈夫だと首を振られ、迷ったが兎に角直ぐに済ませてやろうと細心の注意を払ってそれに手を伸ばした。
「……大丈夫か?」
「っ、は、い、……っ」
存外柔らかいその耳は触ると温かく時折跳ねるように動く。髪を梳いて付け根を確認してみると頭からそのまま生えている事が分かった。
全く奇々怪々な状況に対処が浮かばず、しかし医者に見せた所で何も出来ないだろうという事に頭を悩ませる。身を強張らせ接触に耐える後輩には悪いが今直ぐに戻してやる事は出来そうないともう一度耳殻に触れ、ふと気になった事を口に出した。
「……これに聴覚はあるのか?」
「ひっ……!?ぃ、あ、あり、ますっ」
耳の傍で声を出したのがいけなかったのか後輩は怯えたように腰を引いて逃げようとする。謝り留めたその後方で、尾が足の間で縮まっているのが見えた。
「尾の方は……」
「っ、……っ、……っ」
涙を浮かべ尾を隠し、必死な様子で首を横に振る後輩に従いそちらの確認は止める。いくら非常事態とはいえ他人に臀部を見せるのは嫌だろう。それに耳に触れるのでさえ相当嫌そうなのだからこれ以上辛い思いをさせる事も無い。
耳から手を引き、息を吐いて脱力した背を撫でてやると視線の先で尾がゆったりと揺れた。
そう言えば動物の尾の動きは感情を示すものであったか。この反応はどのような気分であるのだろう。
後輩の表情を見ながら考えようとした所でポケットから着信音が響く。短く断りを入れ電話に出ると相手は友人で、明日の仕事について確認の報せだった。時計を見、普段ならばもう後輩は帰るくらいの頃合いなのだと気付き眉を寄せる。帰すにも人目が気になるし、何よりこのままの状態では心労が重なるだけだ。
早く解決策を、と思考を飛ばし掛けた所で後輩が控えめに声を掛けてきた。
「……お仕事ですか?」
「ん、あぁ……」
通話口を押さえ会話を中断し顔を向けると後輩は大変ですね、と苦笑した。困ったように笑う姿に首を傾げる。そして何気無く見下ろした先で、後輩の尾が先に見た時よりも巻きが取れ地に向かい垂れ下がっている事に気付いた。どうしたのかと訊ねようとしたのだがそれよりも早く後輩が口を開く。
「えっと、……じゃあ、帰ります」
「は?」
「お忙しいのに遅くまで付き合わせてしまってすみませんでした」
明るく笑った後輩は言葉を返す前に頭を下げ俺の分の食事だけ置くとまた帽子とコートを被り足早に立ち去ろうとする。驚き慌てて電話を切り、その腕を掴んで引き留めた。
「待て。まだ帰るな」
「ですが、」
「それが戻るまで、傍にいるから。……そんな顔をするな」
「…………」
戸惑いを浮かべる頬に手を当てそう言えば作られた笑顔が剥がれ不安そうな顔が見上げてくる。大丈夫だからと後頭部を撫で笑い掛けると漸く柔らかに表情を緩め礼を言ってきた。安堵と嬉しそうに笑む姿にほっと肩を落とす。その背の後ろで尾が揺れているのが見えた。
と、言っても原因に心当たりが無いとなるとやはりどうにも手詰まりで。一先ず食事を済ませ彼是と議論してみたが何も手掛かりが無いまま時間が過ぎる。この不可思議な現象の解決法など無いのだろうか。
しかし、駄目なのかと落ち込むのを宥め一日気を張り疲れ果てていた後輩に暫く休むよう仮眠室へ寝かせて少し席を外したその僅かな時間。起こそうと戻ってみればその頭と腰から犬の特徴は消え去っていた。
寝ればそれで仕舞いだったのかと拍子抜けしつつも、良かったな、と言うと喜び笑う姿に安心する。そして、もし今あの尾がまだ付いていたなら千切れんばかりに振られているのだろうなと想像し、丸い頭を撫でて笑った。