1日目 王妃の願いを叶える!
ついにこの日がきたわね。今日からの七日間に私の未来がかかっているんだから、気合い入れていくわよ!
記念すべき? 決戦の一日目の相手は王妃様。特に順番に意味はない。ルークの任務を知ってから、会おうと決めた人たちに順に約束を取り付けていった結果、こうなったのよね。
午前中を礼儀作法を教えてくれる講師と過ごした私は、お昼を食べたあと、ルークの母親、つまりマーレ=ボルジエ国の王妃様に会うため、彼女専用の庭園にやってきた。
毎日毎日みっちり教えてくれるのはいいのだけど、間違えると眼を吊り上げて怒ってくるからほんと恐いのよね、あのオバサ……婦人は。あの人も私の胃が痛くなる原因の一人に違いないわ。彼女のおかげで、日々淑女っぽくなれてる気がしないでもないから、文句は言えないのだけど。
「ライカ様、どうかしましたか?」
「え? ああ、何でもないわ」
いけないいけない。午前のことを思い返していたらいつの間にか足が止まっていたわ。大事なときなのに。集中しないとね。
あ、今話しかけてきたのは、レイエって名前の私付きの侍女よ。金色の髪がふわふわでとっても可愛いの。まだ十代なのだけど、話の分かるすごくいい子で友達みたいに私は思ってる。嬉しいことに彼女もそう思ってくれてるみたい。でも、何度言っても様付けと敬語はやめてくれないけどね。それだけは譲れないらしいわ。
「指定された場所は東屋だったわよね。例の物はちゃんと持ってる?」
「はい」
レイエが頷くのを見てから、私は止まっていた足を動かす。
この庭園の東屋は王妃様のお気に入りの場所らしい。確かにここは色とりどりの花と色鮮やかな緑に溢れていて見ているだけで気持ちいい。穏やかな気持ちになるわ。……多種多様の犬の鳴き声と奇声さえ聞こえてこなければ。
「こ、こら、も、もっとゆっくり走りなさいぃぃぃいやぁぁぁぁぁっ!」
少し先にある藤棚のようなところを、手綱を握った女性が叫び声を上げながら駆けていく。犬の世話をしている――させられている王妃様付きの侍女のようだったわね。彼女を引っ張っていたのは、犬(茶)かしら。かわいそうに、あの調子じゃしばらくは止まらないでしょう。怪我しなければいいけれど。
今この庭園には、犬(白)犬(茶)犬(斑点)犬(灰)犬(肥)犬(細)の六匹がいるわ。どうして名前で呼んであげないのかって? しょうがないじゃない、名前がないんだから。理由は知らないけど、王妃様が名前を付けなかったらしいんだもの。だから外見で区別するしかないのよ。勝手に名前を付けるわけにもいかないでしょ。
「相変わらず賑やかね……」
「……そうですね」
私がこの世界に来る前までは、庭園は常に静寂に包まれていたってルークが言っていたけど、今の状況からは想像出来ないわ。
庭園の中を走り回る犬と侍女をなるべく視界に入れないように、私とレイエは王妃様がいる東屋までやや足早に歩いた。だって、今まで全力疾走なんてことをしたことがないだろう彼女たちの走る姿を見ると、居たたまれなくなってしまうんだもの。
「ご機嫌麗しゅうございます、王妃様」
東屋で周りの騒音をものともせず、悠然と読書をしていた王妃様に、ドレスの裾をつまんで頭を下げる。最近ようやくまともに挨拶が出来るようになったのよ。貴族の礼儀なんて最初はどうなることかと思ったけど、どうにかなるものね。講師のオバ……婦人にはまだまだぎこちないって言われるけど。
「あらあら、そんな堅苦しい挨拶はやめてって言っているのに。さ、こっちにいらっしゃい、ライカ。美味しいお茶があるのよ。きっと貴女も気に入るわ」
王妃様は朗らかに笑うと手招きをして自分の向かいの席を示した。
「失礼いたします」
いくら近い将来義理の母になるとはいえ、一国の王妃に気安く接するとか無理なので、堅苦しい態度のまま、私は東屋にいた(本当の意味での)王妃様付きの侍女が引いてくれた椅子に腰を下ろす。そして、向かいに座る王妃に眼を向けた。
マーレ=ボルジエ国王妃アルエレーテ。美しく結い上げた艶やかな黒髪と澄んだ碧色の瞳。子供の年齢から考えて五十前後のはずなのに、全くそうは見えない。三十代といっても十分通用するんじゃないだろうか。美容の秘訣は何なのかと、この人と会うたびに思ってしまう。といっても、まだそんなに会う機会はないのだけど。多分、今日で五回目じゃないかしら。
王妃様はとても優しい人よ。それは断言できる。この世界の人間からしてみれば出自すら不確かな私にもよくしてくれる。ルークとの婚姻を一番最初に認めてくれたのも彼女。まあ、王様も第一王子様も特に反対することもなく、こっちが驚くほどあっさりと認めてくれたけれどね。
いつも穏やかに微笑んでいるアルエレーテ様。そんな彼女のどこに問題があるのかって思うでしょ。
それがあるのよ……。
「ねえ、ライカ。前からお願いしているあれだけど、やっぱりどうにかならないかしら」
優雅な仕草でお茶を飲みながら王妃様が訊いてくる。
ああ、さっそくきたわね。きらきらと笑顔が眩しいわ。
私にできることなら何でもしてあげたい。心からそう思う。でも、このお願いだけは無理なのよ。
……だって、王妃様のお願いって“ルークを黒犬の姿に戻す”ことなんだもの! 無理でしょ、そんなこと。どういう仕組みなのかもさっぱり分かんないわよ! っていうか、やっと人間の姿に戻れた息子をまた胴長短足の犬にするって、もう鬼の所業じゃない。
「ずっとあの可愛い黒犬の姿でいてくれれば良かったのに」
残念そう溜息吐かないで喜びましょうよ。
確かにルークの黒犬姿は可愛かったですけど。もふもふ具合も最高でしたけど。困った時に耳がへにょって垂れるときゅんとしましたけど。
でも、一国の王子が黒犬っていうのはまずいでしょう、どう考えても。
「ルークはもう二度と嫌だと言っていましたが……」
「だって、人の言葉が分かる犬なんて滅多にいないでしょう? 何匹か集めてみたけれど、どの犬もわたくしの話を理解してくれないわ」
「そ、そうですか」
滅多にって、そんな犬どこを探してもいませんって。ルークは犬じゃなくて人間だったから言葉を解することが出来たんです。そこんとこ、理解して下さいね、王妃様。
しかし……まずいわね。私は大きな勘違いをしてたみたい。彼女は意思疎通が出来る犬が欲しかったんだわ。
てっきり王妃様はルークの姿形、胴長短足の黒犬という外見に未練があるのだとばかり思っていたから、一番体形が近い犬(斑)の毛を黒く染めればいいと、レイエに染粉を用意してもらったのに。私の『黒犬がいなければ作ればいいじゃない!』作戦がパアだわ。
ちらりと東屋の外に控えているレイエを見ると、彼女も困った顔をしている。それはそうよね。私もレイエも絶対うまくいく自信があったもの。
ああ、初日から作戦失敗かあ。先が思いやられるわ。
ま、でも無理だったものは仕方ない。また別の方法を考えるとして、今日はお茶を飲んで帰るとしましょう。
「いただきます」
用意されたカップを手に取り口を付ける。うん、美味しい。香りもいいわね。王妃様が自信を持って勧めてくるのも分かるわ。
「あっ、危ない! 王妃様、お逃げ下さい!」
小さな幸せに浸っていると、離れたところから切羽詰まった声が聞こえ、私はさっと立ち上がって東屋を飛び出た。
「なっ、なんですとぉ」
慌てたせいで変な口調になってしまったわ。いやでも、仕方ないでしょ。犬(肥)がもの凄い速さでこっちに向かってくるのを見たら、誰だって変な言葉遣いになるわよ。
「まあ、どうしたの?」
なんでこの人はこんなにのんびりしているのよ。見えてるわよね? デブ犬が餌を欲しがる感じで暴走気味に突っ込んで来ようとしてるの、見えてるわよね? 猪並に突進してこようとしてるの、見えてるわよね?
手綱持ってた侍女はどこに……うん、花壇に突っ伏してるわね。ぎりぎりまで手綱を放すまいと頑張ったんでしょう。ご愁傷様です。
って、のんきに観察してる場合じゃなかったわ。王妃様を守らないと。えっと何か武器になるものは……椅子でいいか。
いやいや駄目駄目、動物虐待は駄目だわ。愛護団体的なところから後で訴えられるからね。この世界にそんなものがあるのか知らないけど。
というわけでしょうがない、叫ぶとしますか。叫んだらどうにかなるって、どこかで聞いた気がしないでもないし。
大きく息を吸って……よし!
「止まりなさあぁぁぁぁい! このデブ犬うぅぅぅぅっ! 止まらないと犬ごはんにするわよおぉぉぉぉっ!」
きききぃぃぃぃっ! ぴたっ。すちゃっ。
犬(肥)は私にぶつかる寸前で急ブレーキをかけて止まり、おすわりの体勢になった。
おお、本当にどうにかなったわ。叫びの力ってすごいのね。
犬(肥)もやればできるじゃない。よしよし、偉いぞ。
私がやけに姿勢のいいおすわりをしている犬(肥)を撫でていると、周りからどよめきが起こった。顔を上げてみれば、いつの間に集まったのか、王女付きの侍女が十人近く集まっているではありませんか。
なんで皆さんそんな「信じられない!」って顔をしているんですか。犬の頭を撫でているだけなんですが。毒蛇の頭を撫でてるわけではないんですが。
「あらあらあらあら、ライカの言葉は犬に通じるのね」
「はい?」
「わたくしも侍女たちも何度も話しかけていたのだけれど、全然聞いてくれなかったのよ。すごいわ。何か秘訣みたいなものがあるのかしら」
全然聞いてくれないって、それ多分なめられてるのでは……?
「秘訣ではないですけど……」
立場をはっきりさせないと全く言うことを聞かないから、こっちの方が上だと分からせることが大事だと、何かの本で読んだような読んでないようなことを伝えると、侍女たちからこういうときはどうすればいいのですかと質問攻めにあった。
なるほどね。しつけの仕方を知らなかったから、あんなに犬に振り回されてたんだわ。まあでも、彼女たちは王妃様のお世話をする侍女なんだからそれも当然か。
ちゃんと教えてあげれば言うことを理解してくれますよ、と言うと王妃様は嬉しそうに「そうなの」と微笑んだ。
予定していた方法とは大分違うけど、どうやら問題は解決出来たみたいね。よかったよかった!
……あれ、なんかもの凄い期待に満ちた眼差しを王妃様に向けられてるわ。どうしよう、まだルークのことを諦めてないのかしら。
「犬たちに教えるの、手伝ってね」
「……はい」