緑桜
それは、桃色がかった雲が東から流れ始め、暖かな朝の予感が始まった時だった。
今の仕事を始めた時から朝と夜が逆転した生活を送っている翠は、木曜市で一目惚れしたアンティークのゆったりとした一人掛けソファから昇りゆく朝日をぼんやりと見つめていた。ソファの隣には小さなデスクがあり、そこにはショコラフレーバーのミルクティとジンジャー・クッキーが入ったブリキの缶があった。翠はたまに手を突っ込んで歪な形のクッキーを手にとっては口に運んだ。時刻はまだ五時にもならない早朝だ。うるさい車の音も、わずらわしい人間の声も聞こえない大変静かな時間だった。
翠はおもむろに自分の左手を見た。そこには美しい桜の刺青が施されていた。刺青、というと語弊があるかもしれない。翠が人間ではない何かと契約した時に施された烙印だ。その烙印の桜を翠は愛おしげに撫でた。そうして過去を振り返るのに十分な時間があること、――同居人が起きてくるまでの時間だ――まだ香ばしいジンジャー・クッキーの匂いがあることを確認して、静かに目を閉じた。そして幼い頃の記憶を思い出したのだった。
翠は元々、とある田舎地主の一人娘だった。しかし、その家というのが曰くつきだった。
ある時代の当主が自分の自画像を描かせた時、自分の自画像と自分の区別がつかなくなり、自画像が意思を持っていると大声で叫び始め、最後には発狂して死んだ。別の当主の婦人は、たくさんの目玉をコレクションしていた。猫、犬、鼠、狸、多くの動物の目玉をコレクションし、最後には自分の目玉を刳りぬいて死んだ。他にも多くの変人や発狂者を出した一族は次第に何か悪いものに取りつかれていると囁かれ始めた。そんな時代に翠は生まれたのだ。
平成という年号になってもなお、悪いものに取りつかれているという考えに至ったのはそこが田舎だったからだろう。狐やら狗やら、そんな信仰がまだ根強く残っている田舎の村では翠の一族は格好の的だった。勿論大地主の一族を大声で指さす真似はしなかったが、村では知らぬ人間がいない程に良くも悪くも有名だったのだ。
村といってもそこは集落にも似たほとんど何もない場所で、村で一番大きな実家でさえ、車に乗せて貰った時に見た下の町には普通の家より少し大きいくらいだった。あるのは小さな老夫婦が経営している雑貨店と学校兼公民館、貯水所くらいで、他は田んぼと畑が一面に広がっていた。郵便すら一週間に一回まとめて来る始末であり、ガスや電気、水道代は当番の村人が徴収し、郵便で送っていた。よく熊や鹿、狸が下山してくることがあり、彼らは農作物を食べ散らかし村人を脅かしていた。村での子供への常套句が“熊に食われるから早く帰ってこい”という程なので、子供も大人も山と動物、田畑のあるこの村を愛していた。
何もないからこそ日々の変化が顕著に表れ、雲が流れる様を畑から見上げる時、大人も子供もその大きさに圧倒され、そして感動すら覚えた。山の新緑や紅葉を愛で、冬のしんと冷えた空気を肺いっぱいに運ぶのは何にも代えがたい幸せだったのだ。
そして翠はそんな村に生まれ、何不自由なく暮らした。地主のご令嬢である翠は例え曰く付きの家名であったとしても偏見の目で見られる事は無かった。翠は後にこれは奇跡のような幸運だったと考えている。もしくは、あらかじめ設定された翠の運命だったのかもしれない。村の分校に通い、大人しく本を読んだり、木の実や花と戯れたりしたただの田舎の少女だった。
しかしそんな少女に人生の転機が訪れた。それが訪れるには翠には幼すぎたし、その後に惨劇が起きたのも不幸な事故であると考えられる。しかし惨劇は起きてしまったのだった。
きっかけは翆が同じ分校に通う年上の子供たちと山へ入って行ったことだった。分校であるからにして、同じ学年の子供は翆ひとり、全校生徒であっても両の指で数えられるくらいであった。だから翠がこのように山へ入ったことも何ら不思議ではない、むしろ日常であったのだ。
山に入ることも熊さえ気を付ければそう難しいことではなかったし、大人も鈴を持たせたりして対策を練っていたので、山はむしろ子供たちの遊び場だった。翠の好きな木の実やアケビがたくさんあったし、山の中にいくつかある秘密基地は歴代の先輩からの作品でそれをいかに良くするか考えるのも楽しかった。雑貨屋から買ってきたお菓子をそこで食べるのもまたオツなものだった。
その日は盆前の蝉が煩く鳴く獣道の中の事だ。ずっと道を歩き続けていた上級生が立ち止まって首をかしげているのを見て、翠は何か可笑しなことが起きたのかと思った。そうして上級生の肩の隅から前を覗くと目の前には鳥居があった。こんな所に鳥居があるなど聞いた事が無い。ここは村人も通らない獣道だ。しかも鳥居は小さな御社を祀るための小さなものではなく、彼女らが頭を大きく傾けなければならないほどに大きかった。
「こんな所、来た事ないよ…」
上級生の呟きがいっそう不安気な空気になった。鳥居の先には石畳の道があり、先には大きな木造の小屋があった。小屋からはどこかひんやりとした風が流れていて、暑い夏の風など吹き飛び翠達の身体には鳥肌が立っていた。こんな所にどうして流れ着いてしまったのか誰にも分からず、ただただ気味悪さに翠は吐き気さえ覚えた。数秒か、数分か、時間が止まったかのように子供たちは立ち尽くした。
「か、帰ろう…」
翠がカラカラに乾いた喉から絞り出した聲を出したのと同時に、同級生達は蜘蛛の子が散るように鳥居の反対側へと走り出した。翠も走りだそうとしたが、苔の生えた石の上に立っていたせいか転んでしまう。けれどここにいてはいけないという本能から、四つん這いになってもがき始めた。その時リン…――と鈴の音が聞こえた。
『娘』
翠は声にならない悲鳴を上げた。ああ、お爺様達みたいになってしまう…――それは翆が自分の実家の事を少なからず知っていたからの恐怖だ。
『娘』
鈴の音のような、けれどきちんと理解できる言葉で声は続いた。
『帰るのはよくない』
「な、なんで…」
泣きそうになりながら翠は呟いた。
『なに、村に今帰ってはいけない。いけない』
ひひひひひ、と笑いながら声は続いた。
『戻れ、戻れ。御社に来い。私なら匿ってやれる』
「か、くまう…」
『そうよ、そう。生憎と茶菓子は無いが、子供の命くらいは守ってやれるのでな、呼んでやったが…みぃんな帰ってしまった。私は寂しい、寂しい』
そこで翠は震えながら後ろを振り向いた。そこには一匹、灰色の猫が居た。四つん這いになった翠を嘲笑うかのようににやにやと笑っている。猫のくせに、と思ってやめた。猫が話しているのかもしれないと思ったからだ。
『ほれ、猫についてこちらに来い。なぁに、危なくない。むしろ村に戻る方が危ない、危ない』
「なんで、村に帰ると危ない、の…」
『ひひっ。それは帰ってからのお楽しみよ。ちゃんと帰してやるから私の相手をちとせい。悪いようにはせぬ故な』
「…あ、あ……」
『ほれ』
猫は笑いながらくるりと後ろを向いた。そうして翠がどう動くのか計るようにこちらを振り向いた。翠は、私はもう狂ってしまったんだと頭の中で呟いた。それを哂うかのように声は、ひひひひひと続いている。翠は覚悟を決めて、鳥居を潜った。
そこは不思議な場所だった。誰に掃除されているのか、石畳には木の葉ひとつない。ただ時間が止まったようにひんやりとした空気だけが漂っている。奥の小屋に猫は歩いていく。猫を追いかける様に翠はすりむいた膝を撫でてから小屋に向かった。十数歩でついた小屋まで翠が来たのを見届けると、猫は小屋の下に潜ってしまった。
小屋も古い作りではあるが、妙に小奇麗でいっそその方が不気味だった。神社のような階段も無く、ただの掘立小屋のような茅葺屋根の小屋からは緑の匂いで溢れていた。木の扉の枠の部分を翠は手に取り、横に引いた。翠が思ったよりも大きな音がして扉は空いた。
中は古い民家のようだった。土間があり、勝手場があり、一段上げて畳があった。そして畳の上には木で出来た太刀の様なものが掛けられていた。鞘も唾も上質な木でできていて、漆で塗ってある。他には何も無かった。声の主さえ翠は見つけられない。翠は運動靴を脱いで畳に上がった。するとまた声が聞こえた。
『よぅく来た。やっと来た。私は待ちくたびれてしまった』
「…だれ?どこ?」
『ほれ、目の前よ。よもや見えぬとは云えぬよなぁ…ひひひひひ』
声の主は太刀だった。じぃ、と目を凝らして見ると、冷や汗が出た。太刀はそんな翠を愉快そうに哂った。
『そう見られては恥ずかしい、恥ずかしい。私はな、大昔に作られたのよ。そうして御役目を終えてからはずぅっと此処に一人ぼっちでなぁ。退屈していたのよ。お前を呼んだのは退屈しのぎ。または私と会ったせいでお前の運命が変わるかもしれぬなぁ』
「うんめい?」
『そうそう。まぁ、起こることはすべからく起こるべきして起こるのよ。それを泣いたり喜んだり、人間はまぁ、退屈せぬよな』
「…何がいいたいの?」
『まぁそう怒るな。そうそう、昔話でもしてやろうか。私が生まれた理由、お前に話してみても面白いかもしれぬ』
そう太刀は呟くと、鞘の中から煙のようなものがふわりと出て、それがカーテンのように一枚の布のように揺れた。そこに描かれていたのは美しい桜並木だった。
『我はな、八重の桜から作られた刀よ。勿論刃も木で出来ているから良きものを切る事は出来ぬがな。悪いものを切るために作られた』
「悪いものって?」
『ニンゲンでいう悪いものよ。罪や感情、そういうニンゲンの悪いものを切り落とす為に作られたのよ。まぁ、儀式みたいなものだったよなぁ』
「儀式の際具だったってこと?」
『おや、ムズカシイことを知っている。賢い娘は愛い。愛い』
「…お父さんに教わったの」
『ひひひひひ。オトウサンオトウサン。良き父君をお持ちであられるなぁ。まぁ、ニンゲンでいう際具のひとつではあった。元々樹齢のある木は霊木になりやすい。そんな私を切って細工して刀にしてしまったのよ。私が切られなければまだ咲けたかもしぬのに、ニンゲンは惨い、惨い』
桜の煙はふわふわと舞った。
『まぁ仕方なく、ニンゲンの云う悪いものを引き剥がしてやった。ニンゲンが私に与えた使命を私は全うしようとした。しかしニンゲンの罪は絶えぬ。やれ、盗んだだの、殺しただの、犯しただの、その度に私はその罪をニンゲンから剥がした。泣く子がいれば泣きやませてやったし憂う者がいればその憂いを晴らしてやった』
一旦、そこで話しが途切れた。翠は聲の主が何か神がかった者ではないかと半分恐怖し、そして半分安心した。太刀は翆に悪い事をしないと六感で感じ取ったようでもあった。運動靴をきちんと扉に向けて置き直し、太刀の前に体育座りをし、居住まいを直した。
そんな翠を太刀から出た靄はふわふわと眺め、嬉しそうにまたひひひひひと哂った。
『お行儀が良い、良い。私がまだ使われていた時のようよなぁ』
「今は誰にも会わないの…ですか?」
付け焼刃程度に語尾に敬語を付けた。太刀は嬉しそうにひらひらと舞う。
『もう年を数えるのも飽きたほどに人に会ってないのよ。そう、最後に使われてからずっと…――ニンゲンは都合の良い時にしか必要なものを必要としない。だから私は忘れられたのよ』
「忘れられた?」
『忘れられなければ誰かがちゃぁんと来てくれるだろうに。私はずぅっと待っていたのよ。だが、最後の日、今日のような日に私を誰も使わない家に閉じ込め、鳥居で封をした。私もそんなニンゲン達に嫌気が刺していたのでなぁ、そうやっておしまいよ、おしまい』
「今日の様な日?誰かが間違えて来ちゃった日ですか?」
『いや…――それは、帰ってみれば分かる、分かる』
「帰ってみれば?」
その時翠は、先ほど太刀が匿うだの帰るなだのと、云っていたのを思い出す。俄かに厭な予感が翠の胸をよぎった。
『気になったか? そろそろ帰っても、お前の運命は変わった、変わった。 変わらなければ良いと思えばそれまでだが、私もたまには無垢な子供に慈悲を与えたくなったのよ。否、むしろ残酷な現実かもしれないがなぁ。ひひひひひ』
「なにが…起こっているんですか。 村で?」
『帰れば分かる。分かる』
「帰っていいですか」
それは質問ではなかった。村で何かあったのだ。それも、自分の運命が変わる程の事が。翠はそれに気づいて立ち上がる。靄はしゅるしゅると鞘に戻り始めた。
『また会いたければ私を探せ。ひひっ。その時私が今のように機嫌が良かったら会ってやろ。それまでしばし、お別れよ』
そうしてしんとなった小屋から翠は体操靴を履いて走り出した。鳥居までの短い距離が長く感じた。しかしそんなことに構ってなどいられず、翠は一目散に鳥居を目指した。
鳥居をくぐると、そこは獣道だった。来た時がそうだったので当たり前のはずなのに、歩きにくい獣道を翠は恨んだ。そうしてなんとか山を降りると、そこには翠にとってはあまりにも無慈悲な現実があった。
村と山の間にある地蔵の前で、翠は立ち尽くした。道は先に帰った同級生の血でべっとりと濡れていた。同級生たちは誰もがお腹や胸を食いちぎられていた。足が無い人もいた。
震える足で村に入ると、そこには乱雑に散乱した死体が転がっていた。村といっても、家が20あるかないかの集落だ。分校兼公民館、いつもの雑貨屋さん、お隣の家、自分の家…――歩くたびに血の匂いが濃くなり、内臓や肉片が転がっていた。
悲鳴を上げることすら出来ずに、翠は周りを見渡した。生きている者がいない気配だった。あるのは血と肉片ばかりでその血の匂いに翠はまた別の意味で吐き気がした。家に帰ると、玄関には父が倒れていた。父の頭は食いちぎられて死んでいた。父の手には戦った後のように歪んだゴルフバットが握られていた。震えながらすぐ先のリビングに行くと、そこには母が内臓を食いちぎられて死んでいた。
――最近は熊が凶暴になり始めたので気をつけてください――
分校でもらったプリントがデスクの上でひらひらと風に舞っていた。
「熊が出たんだ」
翠は確信して呟いた。大きな獣の足跡がいくつも血の跡を残して部屋のカーペットを汚していた。その場に座り込む。山道から帰って来た時の疲労と村の惨状のショックでもう立ち上がりたくもなかった。生きている人がいない、と思った。音も動きもなにもかもが村から失われていた。あるのは熊の食べ残しだけだ。
太刀の言葉を思い出しながら、ああ、私は浦島太郎だ、と思った。竜宮城というあの鳥居を潜らなければ、翠は死んでいた。けれどこんな村に一人ぼっちで一体何が出来るというのだろう。いつの間にか翠の目には涙が浮かんでいた。それは絶えることなくぼたぼたと落ちて、翠のスカートを濡らした。皆が死んで悲しかった。理由はそれだけだった。どうしようもないこの惨状に翠は泣くしかなかった。理不尽な現実を恨むより、翠は悲しみに溺れた。そうしなければ誰が他に悲しんでくれるというのだろう。
いつも優しかったお隣のおばあちゃん。厳しかったけど楽しかった分校の先生。年の差を感じさせずに仲間に入れてくれた分校のみんな。そしてなにより、今まで翠を大事にしてくれた両親。
皆の顔を思い出す度に、翠の目からは涙が溢れた。日は暮れかかり、窓から見える空は燃えるような緋色だった。それが一層、翠を傷付けた。この色は皆の命のようで、翠の苦しさは一層募るばかりだった。体育座りで額を膝に押し付けて翠は泣いた。いつまでも泣いた。これ以上泣いたら全てばらばらになるのではないかというくらいに泣いた。
いつまで泣いただろうか、夜も更け、音はさらにしなくなった。翠は部屋の灯りを付け、泣きはらした目で自分の部屋に行った。そしてクローゼットを漁り一番上質な黒いワンピースに着替えた。ワンピースに着替えると、部屋を出て母の部屋に入った。母が一番大事にしていたサファイアの耳飾りをつけた。父の部屋に入り、書斎の机を漁るとロケットが出てきた。そこには幼い翠を抱いた母と父の写真が入っていた。それを首に下げると、翠は小さくため息を吐いた。
その時、ガサガサと木々が揺れる音がした。生きている人間がいるかもしれないという雑念は一瞬で消し飛んだ。それは人間にはない何の遠慮も出来ない獣の音だった。書斎の奥の父のクローゼットの中に入る。微かに遠吠えが聞こえた。そして幾つもの獣の音が村をうろついているのが音で分かった。昼間に食べ損ねた死体をまた食べに来た――翠はそう思い、クローゼットの中で硬く手を握った。脂汗がだらだらと額を流れたが、翠の心は落ちついていた。匂いであっても、ここを探り当てたら生きながらに食べられても良いとすら思っていた。そうすれば皆一緒だ。村の皆と一緒になれる。けれどもし、殺されなかったとしたら。翠が行く場所は一つしかなかった。
耳飾りをした耳が痛くなってきた。そっと音を立てずに調節し、耳飾りの金具を緩めた。
どのくらい時間が経っただろうか。翠はいつの間にか眠ってしまった。小鳥が鳴く音がクローゼットから微かに聞こえ、目を覚ました。
小鳥の朝の鳴き声がこんなにうるさかっただろうか。一羽鳴く度に翠の神経は逆撫でされた。しかし小鳥の鳴き声以外は何も聞こえない。翠はクローゼットから出た。そして皺になったワンピースの裾を直し、一番上等な靴を履いて外に出た。
村は一層酷くなっていた。血と肉片がどこまでも村を覆っていた。建物すら半壊されている所が多かった。翠は小鳥の鳴き声から逃げるように、山の中へ入っていった。
鳥居を潜ったのは昨日のはずなのに、随分時間が経っているような気がした。昨日起こった事を全て話せと言われたら、翠には答えられる自信が無かった。けれど獣道は翠に全てを教える様に感じた。草を踏み、木を潜って森の奥へと入って行った。熊などもう怖くはなかった。それ以上に怖いのは、例の鳥居を見つけられないことだった。けれど翠はそれでいいとも思っていた。昨日から翠は、自分は達観していると感じていた。命を守らなくても良いという諦めがここまで翠を達観させるものだと始めて気付いた。
どのくらい獣道を歩いただろうか。昨日転んだ石の苔はまだ翠が転んだ跡をしっかりと残していた。そして見上げれば大きな鳥居があった。翠は迷わずに鳥居を潜った。小屋の外ではにやにやとまた猫が笑っていた。
『娘が来た、来た。お早いお着きでなにより、なにより。ひひひひひ』
昨日の声がまた響いた。翠は扉を開ける。昨日と変わらない緑の匂い、そして美しい太刀がそこにいた。
『昨日は早に帰ってしまったのでな、すこぅし寂しかったのよ』
「…村ことを知っていたの…ですか?」
『なぁに…先日、爺が山で熊に食われたのを知っているよなぁ?』
「はい」
翠は昨日のように靴を並べ、太刀に向かって正座した。太刀のいう爺というのは、山川のおじいさんのことだ。彼はいつも山菜を採りに山に行き、先日熊に襲われたと両親から聞いていた。
『その時に熊がニンゲンの味を知ってしまったのよ。九つの熊がな、下にはたくさんのニンゲンが居るから喰ってしまおうと話しあっていたのを耳に入れたのよ』
「熊が話し合うんですか?」
『そうよ、そう。ニンゲンが他人を理解するために言葉を欲したように、集団で動く者たちはみぃんなお話しておるのよ』
「熊がお話なんて、聞いた事がないです」
『ニンゲンは他の動物を自分より格下と思うている。ひひっ。賢いのは爪を隠した鷹よ』
「…じゃあ、全部知っていたんですね?」
『そうそう、だから子供たちでだけでも生きたまま食ろうてくれるなと、私が招いてやったものを、娘以外はみぃんな逃げて死んでしまった』
「それが、運命…」
『それが運命よ。でもな、娘。獣の世界も食うと食われるものの関係よ。ニンゲンが米を食うからといって米がニンゲンを恨むのはお門違いというもの。熊がニンゲンを食うのも同じことよ』
ひひひひひ、と太刀は哂った。
『ところで娘、これからどうする?よもや助かった命の運命、使いどころを間違える気か? そこまでおべべを綺麗にしたというのに、勿体ない、勿体ない』
「…じゃあ、助けてくれるんですか?」
『助ける、というとちと言葉が過ぎるよなぁ…』
太刀は考え込むように沈黙した。
『私と契約をせぬか?』
ひひひひひっ、と太刀は哂った。
「…最初からそれが目的だったんじゃないですか?」
『おや、それはどうしてそう思うのよ』
「親も村人もいないとなれば、あなたを頼るのはぜったい。そうじゃなくちゃ、匿って信用を得ようなんて考えないでしょ?」
『ふぅむ……昨日とはまるで別人よ。まるで千年の修行を終えた後の賢者のようよな』
「…千年分の…みんなの死体を見たからじゃないでしょうか」
『言われれば道理。だが、私は契約がしたい。お前は頼るものが欲しい。利害は一致しているよな』
「そうですね」
『ならば契約よ、契約』
翠は少し考えてから言った。
「契約の内容にもよります」
『ほう…私の契約に頼らねばお前の命は無いかもしれぬぞ?』
「命は無くても良いです。そうしたら村の人たちと一緒になれますから」
『ひひっ。己の命を軽んじる者ほど厄介な相手はおらぬなぁ…――まあ良い。私が欲しいのは自由よ。自由。お前の腕に私を入れる。その変わりお前は私が居る限り決して一人ぼっちにはならぬ』
「…っ」
『ひゃはは、そうよな、もう一人ぼっちはこりごりよなぁ、ひひひひひ』
太刀は愉快そうに哂う。翠は村の惨状を思い出して、ごくりと唾を飲んだ。
「…一人ぼっちにならないだけ?」
『否。私の力のうち、ひとつ欲しいものをくれてやろ』
「力…」
『穢れを払う力か?それとも切る力か?私は樹齢千年の大木。出来ない事などほとんど無いわ』
翠はすぅ、と目を細めて、呟いた。
「…殺す力をください」
『殺す?』
「誰をも、何をも、殺す力」
『復讐でもする気か? やめておけ、虚しいだけよ。それに先にも言うたはずであろ。熊を恨むのはお門違いよ』
「それだけではないです。命が大事なら、殺す力があれば誰からも怖がられるはず。絵本の中の魔女のように」
『ひひっ。ご本を読んでお勉強したのか? 良いだろう。ならばお前の殺したいもの全て殺してやろ。私が中に入ったらな、目で見たもの、思ったものに“死ね”と心の中で命じよ。さすれば私が殺してやろ。しかしこの力はお前が言った通り、恐れられるもの。もしかしたらお前を永遠の孤独に陥れるかもしれぬ』
「いいの。あなたがいるから」
『ひひっ。ほんに、千年の賢者よの。娘、名を教えよ』
「…みどり。市川翠」
『よかろう翠。ならば左腕を差し出せ。私が中に入る。そして鳥居を潜れば私は自由。後はお前との契約を果たすのみ。それにおまけでな、猫もくれてやろ。そうすれば寂しくはないであろ』
「あの、にやにや笑っている猫?」
『そうよ、そう。あやつはいつも笑っておるからな、退屈しないであろ。私の力を少しくれてやったから、まぁ、お前が生きている間は生き永らえるはずよ』
「…分かった。契約します」
そうして翠は、左手を掲げた。
すると太刀の鞘の間から桜色の靄が出て、翠の左腕を包んだ。そしてくるりくるりと回った後、左腕に桜の文様が浮かんできた。靄はその中に入って行った。
『ひひっ。これで私は自由よ、自由』
心の中で声がした。翠が心の中で言う。
「心の中で会話出来るのですか?」
『そうよ、そう。今私は翆の中にいるのでな、翠は声に出さずとも、頭で私と会話が出来るのよ』
「便利ですね」
心の中でそう呟いた。
『敬語など私には不要よ。それより、さぁ翠。おんもへ行こう、行こう。お前と私ならば、出来ぬことは無かろうて』
「…うん」
太刀を見ると、それは翠が見た時のように漆塗りの立派な太刀ではなく、古びた木片になっていた。翠は靴を履き、扉の外へ出た。猫が出てきて、にゃあ、と鳴いた。翠は猫を抱くと、猫は嫌がりもせずに胸にすり寄った。そうして石畳を踏みしめ、翠達は鳥居の外へ出た。
『やった、やった。これでやっと外に出られた』
「良かったね」
翠が振り返ると、鳥居は風雨に負け壊れそうになっていた。綺麗だった石畳は草木に埋もれ、小屋は朽ち果てていた。
『不思議か? これが本来の私の居場所よ。私がちと時間を止めていたのでな、綺麗だったが…。本当はこんなおんぼろなのよ』
「…ねぇ、猫さん、降ろしても大丈夫かな」
『大丈夫よ、だいじょうぶ。ちゃぁんと後ろから付いてくるのでな』
翠は猫を降ろすと、ちゃんと後ろから付いてきた。翠は安心して前を向く。そして山の獣道を降りた。惨状のある村まで来ると、翠は一番見晴らしの良い丘に行った。ああ、昔ここで花火をしたな、と翠は思った。
村の惨状はカラスや虫のせいで大変なことになっていた。翠はそんな村を見て、目を閉じ、心の中で呟いた。
“村の全部が死んでしまえ”
たちどころに家々は崩れ、死体は骨になった。田畑は枯れ、貯水所は錆だらけになった。そこはどこからどう見ても廃村だった。村の全てが死んでしまったのだ。
『これで良いか?』
「うん。これで良いの。ありがとう」
『ひひっ。早速お役に立てた。嬉しや、嬉しや』
「行こう」
翠は呟いた。村のみんなの死体が全て骨になって安心した。これで帰る場所も無くなったが、それ以上に村のみんなを弔いたかった。黒いワンピースが風に揺れる。翠は手を合わせ、さようなら、と呟いた。
そうして猫を連れて、村を後にした。
『ほう、ここがコンビニというものか』
「うん、丸一日やってるの。毎日」
『毎日?よもや一日中やっているのか?』
「そう。いろんな人が時間を決めて営業しているの」
『ニンゲンは物欲よなぁ…。深夜に何を求めて行く?』
「さぁ?でも今の私には必要かな」
翠が村で一番最寄の街に着いたのは、夜が更けてからだった。街にあるコンビニに入り、おにぎりのコーナーに行く。
『おお、寿司というものが売っておるぞ。食べたい、食べたい』
「食べられるの?」
『翠が食べれば味は分かるのよ。懐かしい。よく私の下で皆が宴会をしたものよ。酒や料理を持って、私を美しいと称えながら酒盛りをしておった』
「ふぅん…。じゃあ、お稲荷さんでいい?」
『良い、良い。あと酒もな』
「お酒は駄目だよ。私子供だもん」
『ひひっ。そうか、そうか。お前が飲めるようになったら私がとくと味について語ってやろ』
「あと猫のご飯もだね…。これでいいかな?」
雑貨コーナーにある猫の缶詰めを見た。その中で適当にテレビで宣伝をしていたキャットフードのメーカーの品を手に取る。そして飲み物のコーナーの扉を開き、お茶のペットボトルを手に取った。
「…こんな感じかな」
『ひひっ。金子はどうずる?』
「お父さんのお財布、もらって来ちゃった」
『ひひひひひっ。翠は案外手癖が悪いと見える。ひひひっ』
「可笑しくないもの。必要だよ」
『そうよな、必要、必要』
そうしてレジへ行き、スキンヘッドの店員と会計をした後、コンビニの裏の蛇口の横に翠は腰を下ろした。猫はコンビニに入った翠を見届けた後、ずっと待っており、翠について隣に座った。
「はい、猫さんの分」
翠はコンビニのビニール袋を空にしてその上にキャットフードの缶詰めを逆さにし、中身を出した。猫は最初、匂いを嗅いでいたが、翠が稲荷寿司のパックを開ける頃には食べ始めていた。油揚げと寿司飯の稲荷寿司は盆や彼岸に翠はよく食べたが、声の主は初めて食べるらしく、非常に喜んでいた。
「そういえばさあ…」
稲荷寿司を食べ終えた後、お茶を飲みながら心の中で会話する。
「猫さんとあなたって、名前は何て言うの?」
『名前?さあなぁ…。皆に八重の剣とは云われていたが、私は八重で良い。猫はお前が適当に付けてやれ』
「八重?…ああ、八重桜のことね。猫さんは…ん…桜でいいかな?」
『ひひっ。私と猫とで八重桜よ。可笑しい、可笑しい』
「じゃあ、それで決まりね。桜、お水欲しい?」
そういって横の蛇口をひねると、猫は器用に流水を飲んだ。猫も名前には異存は無いらしい。それを見てまた八重はひひひひひ、と哂った。
『さて、翠。これからどうする?寝泊まりする場所も無かろ。野宿か?』
「うーん、そうだよね。あんまり夜中に子供が独り歩きすると捕まるし」
『捕まる? 何故よ』
「さあ?でも警察とか厄介らしいから、近寄りたくないなぁ」
『ケイサツ?』
「うーん、奉行所、とか?」
翠は本で呼んだ警察の昔の名前を言ってみた。
『おお、奉行所が今ではケイサツと言うのか。ひひっ』
「それは分かるの?」
『私は平安から徳川の時代までは使われていたのよ。それでも街というのは明るいなぁ。見つかる、見つかる。捕まりそうになったら殺せばいいだけのことよ』
「それはそれで、事件になってもっと捕まるよ」
『それもそうよなぁ。この時代はなんとも面倒よ、面倒』
「本当に面倒だね」
そういって翠は立ち上がる。ゴミをコンビニの前のゴミ箱に放り込むと、辺りを見渡した。
「ねぇ。提案。どっちがいいか、教えてくれる?」
『良い、良い。言ってみよ』
「ひとつ。捕まる可能性は高いけれど、ホームレスとかが多い場所で眠る。ふたつ。コンビニの裏に川があるでしょ?多分探せば下水道に着くと思うの。下水道を仮宿にする。臭いし、暗いけれど、ある程度生活は出来ると思うの」
『それはご本で読んだのか?』
「うん。そんな感じかな。あと映画とか、漫画とか。馬鹿に出来ないね。そういう知識も」
『エイガ?マンガ?まあ良く知らぬが、ならば下水道というものよ。人が多ければ多いほど、煩わしい者も多いのよ』
「分かった」
猫においで、と言うと桜は付いてきた。またにやにやと笑っている。それを無視してフェンスをよじ登り、翠は草をかき分け川岸に着いた。これくらいのことは山で散々やってきたので、翠は慣れている。
川岸に沿って少し歩くと、大きなトンネルが見えた。トンネルからは水がぽたぽたと毀れていた。
「うん、ここかな。少し濡れるよ。桜、大丈夫?」
桜はまだにやにやと笑っているが、異存は無いらしい。
翠はトンネルの中に入って行った。異臭が若干するが、それも村の血なまぐささよりはずっとましだった。随分歩いたところで大きな道に出た。コンクリートで出来たそこは証明が申し訳程度に付いており、仮宿にするには十分な場所だった。
「ここが、地下下水道」
『ほう、思っていたより随分良い所よなぁ』
「うん。下水道の人が来ない限り、安全だと思うよ」
そうして突き当りの角の所に翠は座った。猫は足が濡れて不愉快そうに舐めていた。ふぅ、と息を吐いて翠は座り込んだ。
『疲れたか?』
「うん…――眠い」
『眠れ、眠れ。何かあったら教えてやろ。それまでしばし、眠るが良い』
「うん…――」
そうして座り込んだまま、翠の目蓋はすぐに重くなり、眠りこんでしまった。桜はにやにやと笑って翠を見たあと、下水道の奥へ行ってしまった。
村が廃村になったというニュースが新聞に載ったのは翠が去ってから五日目のことだった。いつもの通り、郵便を届けに来た配達員がいつの間にか廃村になっていた村を発見したのだ。そこは100年以上が経っているかのような風化した村で、至る所に白骨があった。この現象を多くのメディアや専門家が首をかしげたが、真実は分からぬまま、新聞の沢山の文字に埋もれてしまった。
チリン…――
鈴の音がして、翠は現実に帰った。朝はもうすぐそこまで来ていた。桜は寝起きでぎゅう、と身体を伸ばした。翠はソファから立ち上がり、キッチンに入っていつものキャットフードを出し、いつもの場所に置いた。桜はカリカリと音を立てて食べている。にやにや顔は始めて出会った頃と同じだ。
翠はそのまま、桜が出てきた寝室に入り、ベッドに潜り込んだ。疲労感が若干の眠気を誘い、翠はその眠気に身体を預けた。小鳥が鳴く声を聞きながら、翠は眠ってしまった。
翠が今のアパートで暮らしてから数年が経つ。その間、夜は八重の力を借りて人を殺してきた。ヤクザの重鎮を殺したこともあったし、派閥争いの道具にされたこともあった。翠は裏の世界では、人殺しとして有名になっていた。しかし翠の力までは知らない為、銃もナイフも使わずに殺すのは脅威でもあった。その為に幾度となく殺されかけたが、八重と桜のおかげで今も生き永らえている。このまま人を殺し続けて、いつか翠が八重と同じように使われなくなる時まで翠は力を使うつもりだった。
今雇われている団体は、日本に革命を起こそうと考えていた。その為に古い格式を重んじる団体と争っている。翠は暗殺を任され、今の地位についている。このまま影の存在として生きるのも運命だと翠は考え、その通り任された仕事をこなしていた。
野村と名乗る団体のトップは翠に絶対の信頼を寄せ、翠も安定した場所が提供された事に安心していた。
数時間後、野村からメールを貰うまで、翠はしばしの間眠りについていた。
翠が起きた時、外は西日が刺し、朝の桃色の柔らかい空と比べて緋色のそれは翠の過去を少し思い起こさせた。翠は頭を振って空になった桜の皿を洗い、新しくキャットフードを入れた。顔を洗い、歯を磨き、煙草を吸う。寝起きすぐの煙草は若干の貧血を誘発し、それは翠にとって欠かせない甘い麻薬だった。
何も考えずにいると頭がきゅう、と締まる感じがして、そのまま闇に溶けてしまいたいと思う。けれどいつも時間が経てば闇に溶けることなく夜の気配を感じさせるのだった。翠はため息をついて携帯を見た。メールが一件。重要な話があるので、某ホテルの部屋に来て欲しいとのことだった。
「今日も殺しかな」
『良く飽きぬよなぁ。一体今まで何人殺したやら』
「三ケタくらいじゃない?」
『ひひっ。曖昧よ、曖昧』
「いいの、いいの」
そうして黒いシャツとスカートに着替え、ガーターで二―ハイソックスを留めた。化粧台に座り、改造してピアスにした母のサファイアの耳飾りを付け、父のロケットを首にかけた。薄く化粧をすると立ちあがり玄関へ行き、猫足のヒールの付いたエナメルの靴を履いた。ちなみに猫足のパンプスは翠の一番のお気に入りで、店で見た時に衝動買いしたものだ。
黒い服しか着ない。それは翠が村を出た時から決めていたことだ。村人と、今まで殺した人の弔いの為に翠は黒い服しか着なかった。
そうして桜を連れて夜の街に出た。まだ残暑が残り、生温かい風が頬を撫でた。
街はネオンライトで彩られ、ところどころに飲み屋の客引きが立っていた。村では星しか見えない空がこんなにもライトで汚染されている、と翠はいつも感じる。八重もあまりネオンライトは好きではないらしい。翠が何もない夜に付ける灯りはデスクスタンドひとつで、照明はほとんどの場合付けない。翠にはそれで十分だった。
そんなことを考えながら某ホテルに入った。桜はいつも通り、どこであろうと翠が建物に入る時は入口で待っている。高級なホテルでそこにも立派なシャンデリアが灯っていた。ボーイがお辞儀をすると、部屋の友人に会いに行くだけ、と告げた。部屋番号を聞かれ、頭文字だけ正確に、あとは誤魔化して答えると、ボーイはエレベーターに乗る様に勧めた。ボーイと共にエレベーターに乗り、降りるとボーイとエレベーターは下に降りて行った。指定された部屋を一回、続けて三回、続けて二回ベルを鳴らすと、野村が出た。
野村は四十半ばの男だ。高級そうなグレイのスーツを着て、髪は綺麗に分けている。瞳からは知性が感じられ、多くの仲間たちの信頼を得ていた。そのカリスマ性はいつか日本が変わるだろうという確信を、興味が無い翠でも感じられるほどに感じさせていた。
「翠だね。来なさい」
そう言って部屋に通した。
「何時頃、メールを見た?」
「五時半くらいです」
「二時には送ったはずなんだけどなぁ…」
「すみません、眠っていたもので」
「ああ、そういえば君は夜型だったね」
「…お蔭さまで」
「ははは」
フランクな会話をした後、野村は真面目な顔つきでベッドルームに入った。そこには16ほどの少女が寝転びながら携帯ゲームをしていた。
「…お嬢様」
「あ、来たの?」
少女は携帯ゲームから目を離すと、ちょっと待って、と言った。野村は立ちながら少女がゲームを終えるのを待った。翠は違和感を覚えた。確かに野村はフランクな人柄だが、敬意を向ける相手であって、16そこらの少女に敬意を向けるべきではない。それほどまでに重要視するべき人物が目の前の少女だと言う事を察した。
『まぁたお仕事よ、お仕事』
「そうね。何だか変なこと押し付けられそうな予感」
『ひひっ。翠の予感は当たるからなぁ。楽しそうで何より、何より』
「こっちはあんまり楽しくないんだけどね」
八重はひひひひひ、と楽しそうに哂った。
「はい、おしまい」
少女はゲーム機の電源を切り、野村と翠を見た。そして翠を見て首を傾げた。
「こちらが本日お話していました、翠です」
「…はじめまして、お嬢様。市原翠です」
紹介されたら挨拶しない訳にはいかない。頭を下げる。
お嬢様と呼ばれた少女は笑って、いいのいいのと手を振った。
「少々翠と話しをしますので、終わりましたらまた窺わせて頂きたいと思います」
「うん。分かった」
そうしてベッドルームから出ると、二人は窓際のソファに向かい合わせで座った。飲み物を聞かれ、断ると、野村はワインボックスから冷えた白ワインを取り出し、グラスに注いだ。一口飲んだところで話は始まった。
「翠、君にはお嬢様のボディガードをして貰いたい」
「ボディガードの経験はありませんが。ちゃんとした人物を雇うのが得策かと」
翠は即答した。ボディガードなど聞いた事がない。
「否、君にしか頼めないんだ」
野村は首を横に振った。
「あの娘さんは皆木獅遥様だ。皆木獅家は知っているね?」
「…世界有数の資産家とは。日本では個人資産総額がトップクラスですよね」
「そうだ。皆木獅家は私達に経済援助をしてくれていた。しかし、先日当主、否、遥お嬢様以外は全員亡くなった。意味は分かるね?」
「…まぁ、大体は。私達に因縁のある者か、若しくは資産目当ての親戚かがトリガ―を引いたのでしょう」
「うん。後者の線が高い。そして現在、彼女が全ての財産を有している。彼女を失ったら終わりだ。勿論お嬢様には私達に経済援助をすることを確約してもらい、サインも頂いている」
「つまり、彼女がアキレス腱なのですか」
「そういうことだ。腕の立つボディガードを新しく雇った所で、親戚の息がかかっていないとも限らない。そこで君の出番だ」
「彼女の親戚全員も殺したら如何ですか?」
家族全員を失い、後ろ盾を失った少女を思い出す。いつかの自分を重ねそうで、翠は関わりたくないな、と思った。
「親戚を殺したところで、彼女を狙っている輩はいくらでもいる。いくら君でも私でも全員を探り当てて殺して回るわけにもいかないだろう。彼女の身の安全が最優先だ。彼女が安全な場所と人材を揃えるまでのボディガードをしてもらいたい。狙ってくる輩は全員殺しても構わない」
「全員?いくらなんでも、この法治国家を敵に回すかもしれませんよ。私は野村さんに雇われてから、かなりの人数を殺しました。後処理が良かったのか、そこまで公にはなっていませんが、敵の方は気付いているはずです」
「それだけ彼女は重要だと言う事だ」
野村はワインを一口また飲んだ。
「もし、彼女を引き渡したら大金を寄こすという輩が出たとしても断ってほしい。これは私と君との信頼関係で成り立つ仕事だ。勿論、一週間で三人を殺した分の報酬を払おう。状況に応じてはそれ以上でも構わない。ボディガードをしている期間、私は一切連絡を取り合わない。君に殺しも依頼しない」
「つまり、一日中部屋に閉じこもってろってことですか?」
自分の時間のリズムを崩されたくないな、と翠は心の中で呟いた。八重が哂ったような気がしたが、相手をしている場合ではない。
「平たく言えばそういうことだ。君の隠れ家に彼女を匿って欲しい」
「私の家に?無理です。手狭ですし、第一皆木獅家のお嬢様を呼べるようなところではありません。もし実行するなら引っ越します」
「いや、君はもう有名すぎている。下手に引っ越したり場所を変えたりしたらそれこそ重要な役割を担っていると敵に知らせるようなものだ」
ワイングラスから水滴が落ちた。
『ひひっ。どうする、どうする?お嬢様を家に呼ばぬのか?面白い、面白い』
「面白くない。第一共同生活なんかしたくないわ」
『私は面白いがな。あの部屋でお嬢様と二人きりよ。ひひひひひ』
「哂う場面じゃないって。どうしろっていうのよ…」
『まぁ、時間などあっという間にすぎてしまうものよ。期限があるのなら、引き受けてもよかろ』
「簡単に言ってくれるわね」
翠はため息を吐き、野村を見た。
「分かりました。ただし、下水道みたいな所にお連れするかもしれませんよ」
「ははは。君は真面目だから、そんなことはしないさ。君がお嬢様をちゃんと守ってくれる」
「私って信頼されていますね」
「目を見れば分かるさ」
翠の皮肉を野村は受け流し、笑った。野村はこの笑顔が人を惹きつけるのだと翠は思っている。野村の太陽のような笑顔は、人を心から信頼しているように思わせる。否、信頼しているのだろう。野村の仲間たちはそれを感じて慕っているのだ。私もそうかもしれない、と翠は少し思った。
「そうと決まればお嬢様にお伝えし、すぐに帰って貰いたい。まだ八時だ。人目もあるから大丈夫だろう。実を云うとな、お嬢様を保護してから君が来るまで殺されるんじゃないかと冷や汗が止まらなかったよ」
「随分と遅くに失礼しました。電話でしたらすぐに出ましたのに」
「電話なら盗聴の可能性も無くはないし、第一君のコンディションが整っている時に呼びたかった」
「だからメールだったんですね」
そうだ、と野村は頷いて、ベッドルームに向かった。遥はゲームをせずにただベッドの縁に座って待っていた。
「失礼いたします。お嬢様」
「うん」
遥は頷いた。
「これから、翠と共に彼女の部屋でお過ごしになって頂きたいと思います。我々がお嬢様を安全に保護出来るまでの間ですので、何卒ご辛抱頂きたいのですが」
「分かった」
案外素直に頷いたな、と翠は思った。
『ひひっ。これで二人暮らしよ、二人暮らし。仲良くな』
「正確には四人でしょ。ああ、煩わしい」
『これもお仕事の一つよ』
「分かっているわよ」
翠は深くお辞儀をして言った。
「遥お嬢様。お嬢様の安全は私が責任を持って保障させて頂きます。しかし私の部屋は庶民のものですので、何卒ご勘弁頂きたいと思います」
「いいの、いいの。よろしくね。ええと…翠さん?」
「翠で結構ですよ」
「んー。じゃあ、翠ちゃんで」
そう言って遥はベッドから降りた。そして立てかけてあった三つのカート付きトランクを持とうとした。あ、なんかあのマーク見たことあるな、と翠は思った。グッチだったか、シャネルだったか、よく分からないが、金持ちが持つ高級ブランドのイニシャルが書かれていた。
事前に打ち合わせてあったのか、翠の合意を得たらすぐにでも居場所を移るつもりだったらしい。トランクの一つのポケットにゲーム機を突っ込むと、遥は三つのトランクを持とうとした。
「私がお持ちしましょう」
翠が歩み寄ると、遥はうーん、と言った。
「いいよ、私が二つ持つから、翠ちゃんは一つ持ってくれない?」
「では私がお二つお持ちしましょう」
「いいっていってるのになぁ」
遥はそういって二つのトランクを差し出した。それを持つと、野村が扉を開けた。
「宜しくな。連絡は田中からさせる」
「分かりました。それでは」
翠は小さく礼をすると、二人のホテルの部屋を後にした。
エレベーターのボタンを押すと、高速で上ってくるのが分かった。
「ねぇ、翠ちゃんのお家ってかわいい?」
「…かわいくはありませんね。必要最低限しかありません。もし何かご不便がありましたら、明日にでも買いに行きます」
「ふぅん…。そっか」
エレベーターが来ると、上って来た時のボーイではなく美しいエレベーター嬢がいた。
「ロビーまで」
小さく告げると、三人を乗せたエレベーターは一階に急降下した。二人はホテルを出る。すると待っていた桜が隣のビルの階段から飛び降りてきた。
「わ。猫ちゃん」
「桜と言います。私の飼い猫ですよ」
「猫ちゃんを飼っているの?かわいい」
ガラガラと二つのトランクを引きながら翠と遥はネオンライトの付いた街を歩き始めた。そして大通りに来て翠は二台のタクシーを見送った後にタクシーを拾った。猫の同伴が可能か確認してから翠のアパートの名を告げると、滑るようにタクシーは移動した。
「すごいね。猫ちゃん、ちゃんと付いてくる。それになんだか…にやにや笑ってるみたい」
「生まれつき、この子はにやにや笑っているのです」
「生まれつき?おいで?」
桜は翠に合図されて、遥の膝に乗った。遥が撫でると、ぺろぺろと遥の手を舐めた。
「人懐っこいの?可愛い。いいなぁ、私もホワイトタイガーのモモが居たけど、ここまで可愛くなかったよ」
「ホワイトタイガーですか」
翠は苦笑いした。
「うん。パパが買ってくれたんだけどね。いつもソファの上から動かなかったなぁ。…さみしかったよ」
「…そうですか」
会話は途切れ、翠は周りの車の警戒に集中した。二台のタクシーはダミーの可能性を考えたからで、このタクシーが安全かどうかは翠には分からなかったが、少しでも何か変化があれば桜か八重が教えてくれるはずだ。その点において、このタクシーはただのタクシーの可能性が高かった。
数分後、翠の指定したアパートにタクシーは付いた。現金で支払い、二人はアパートに入った。階段を上り、翠の部屋に入る。翠は1DKの部屋で本当に大丈夫なのか少し不安だった。
部屋に入ると遥は歓声を上げた。
「すごいねぇ。楽譜や地図が壁に貼ってある。これ、外国のだよね?」
「さぁ…。ただの雑貨屋で買ったものですので」
「この写真立ても可愛い。ちょうちょが付いてる。写真立てたくさんあるね。中のカードも統一してて、かわいい」
「ありがとうございます。トランクは寝室に運びますね」
「あ、うん。ごめんなさい」
部屋を探索されるのは翠の望むところではなかったが、つまらないことで諍いを起こしても仕方ない。翠は二つのトランクを寝室に運んだ。まだきょろきょろと部屋を見渡している遥の持っているトランクも寝室に運んだ。
「何か飲まれますか?」
「何でもいいよー」
遥の今の関心は本箱のようだ。翠はため息を吐いて冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、それを沸かしてマルコ・ポーロの茶葉を出し、紅茶を入れようとした。
ミネラルウォーターを沸かしていると、今まで大人しくしていた八重が話しかけてきた。
『ひひっ。お嬢様は翠のお部屋がお気に入りのようよ』
「…さあ?庶民の家が珍しいんじゃないの?狭くて、物が無くて」
『それでも興味深そうに見ておるではないか。ひひひひひっ。翠のお部屋は変なもので沢山』
「どうせ趣味が悪いですよ。八重の趣味だって可笑しいじゃない。なんで屏風と襖かなぁ」
『日本人は畳の上が一番よ』
湧いた水をあらかじめ十分に温めたポットに移し、茶葉を入れた。腕時計を確認して三分を待つ。
「畳の上なんて今どき珍しいわ。下見したアパートも全部フローリングじゃない」
『そうよな。みぃんな欧米化してしまって、私は寂しい、寂しい』
「八重に合わせていたら、今頃部屋は平安時代よ」
『ひひっ。それも一興であろ』
「ついでに茶道に花道?冗談じゃないわ」
『そうよな、ついでにおべべも着物が良い。あれは良いぞ、日本人の美徳よ。透かし模様が何とも職人技よな』
「着物なんて着ていたら動けないわよ」
『ひひっ。昔はみんな着崩して上手く着ていたものよ』
「今は機能性が高い方がいいわ」
『翠のおべべはいつも真っ黒だからなぁ。いつか花色の浴衣でも着てみせよ』
「その気になったらね」
そんな無駄話をしていると三分があっという間に経ち、翠はティーカップに紅茶を注いでリビングに運んだ。
「お嬢様、紅茶です。上手く淹れられたとは思えませんが」
「ありがとう」
翠はソファに座る様に勧め、紅茶を置いた。それを遥は年相応には見えない上品さで飲んだ。
「美味しい。マルコ・ポーロね」
「正解です」
翠は脚立代わりにしている木製のパイプ椅子を出して座った。
「ねぇ、聞いていい?」
「私に答えられるものでしたら何でもどうぞ」
「このお部屋って、翠ちゃんが整えたの?」
「ええ。そうです」
翠は素直に肯定した。
「凄いと思う。本物のアンティークじゃないよね?それっぽい雑貨ばかりなのに、安っぽい感じが全然しない。むしろ統一感に溢れて、アイディアも良い。電気スタンドに掛けられたネックレスも素敵。今出してくれた紅茶のカップも可愛い」
「ありがとうございます」
「私ってさ…お金持ちじゃない?」
遥は手のひらでティーカップを包みながら言った。
「ええ。そうですね」
「だから、欲しいとか、寂しいとか、そういうこと言えばなんでも買って貰えたの。でね、映画とかでああ、こういうお部屋がいいなぁって思ってお部屋を作っても、なんか違うんだよね。どこか他人の匂いとか、感覚があって。でも翠ちゃんのお部屋は翠ちゃんの感覚でいっぱい。何を真似たとか、モチーフにしたとかじゃなくて、ちゃんと翠ちゃんが欲しいと本当に思ったものだけが置いてある」
「…そうですね」
自分の買い物癖を思い出す。確かに、自分がこれだというものしか今まで買ってこなかったな、と指摘されるまで気付かなかった。
「皆、パパやママ、おじいちゃんが死んで、かわいそうかわいそうって言うの。野村さんもね。でも、私は自分が可愛そうなんて思わない」
「どうしてですか?」
桜がこっちをむいてにやにやと笑った。
「パパはお仕事が忙しいっていって、全然会ったことなんてなかった。けど、私が寂しいって言えば何でも買ってくれた。だから私にとってパパはお財布でしかなかった。学校であったこととか、私の気持ちなんて、お話したことなんて一度も無かったの。ママは私のことなんでどうでもよかった。それより、若い使用人の男の子と遊んでばっかりだった。私がお友達からプレゼントされた、手作りのぬいぐるみを、ふさわしくないって捨てられたこともあった。おじいちゃんは厳格で、怖くて近寄れなかった」
遥は呟いて、紅茶を飲む。
「だから私、可愛そうなんかじゃないよね?」
翠の目を真っすぐに見て遥は笑った。泣いているようにも見えて、それでも気丈に笑っていた。
「お嬢様がそう仰るのでしたら、他人が何を言おうと、お嬢様は可愛そうではありません」
翠がそう言うと、遥は嬉しそうに頷いた。
「さて、お嬢様。そろそろお休みになられた方が」
「え?まだ十一時だよ?」
「夜更かしには十分です」
翠は寝室にまだ文句を言っている遥を通した。桜が付いてきて、自分の寝床で丸くなった。
「ほら、猫も眠るようですから、お嬢様も眠りましょう。私のベッドでは窮屈かもしれませんが、そこはご了承頂きたいと思います」
「うーん。仕方ないなぁ。翠ちゃんは?」
「私は夜型の人間なので、お嬢様が起きられたら眠ります」
「ずるいなぁ…もう」
しぶしぶ、といった形でトランクの一つをパチンと開けた。翠はそれを見届けると、寝室を後にした。
そうしてソファに座り、デスクスタンドのライトを付けると部屋の電気を消した。いつもの暗闇に包まれ、翠は安心してまだポットに残っている紅茶をマグカップに注いで飲んだ。ポットが空になると翠はベランダに出て、パイプ椅子に座り外をぼんやり眺めながら煙草を三本吸った。煙草を吸うと、どこか解放感を覚える。十分に紫煙を楽しんだ後、翠はキッチンへ行き棚からブリキの缶を取り出した。中身がほとんど無いことを確かめて、戸棚から小麦粉と砂糖、冷蔵庫から卵とバターと生姜を出し、ジンジャー・クッキーの生地を練った。形が整うとオーブンをセットし、余熱が十分に整った後に生地を入れた。ボウルやヘラ、泡だて器等、使った器具を全て洗い、それでもまだ時間に余裕がある事を確認してタオルで手を拭いた。
ソファに座ってぼんやりする。八重も眠っているようだ。朝と夜が逆になった時、八重に大丈夫かと尋ねたことがあった。彼曰く、丑の刻は草木も眠るから眠い、と呟いていた。しかし何年も同じような日々を続けると、仕事の時は桜と共に起きてくれている。
その時、携帯の着信音が鳴った。電話番号は田中からだった。
「はい」
「よう、起きてたか」
「夜は起きていますので。何か連絡がありましたか?」
「いや、お嬢様のおもりの一日目の確認だ。毎日はかけねぇよ」
「特に、変化はありません。お嬢様は眠りました。そういえば聞き忘れたのですが、お嬢様は外出禁止ですか?」
「多分そうだろうなぁ…」
「そのうち、外に出たがる可能性があるかと」
「あー、じゃあ、俺から野村さんに聞いておいてやるよ。それまでは上手く宥めておいてくれ」
「畏まりました」
他人事だな、と翠は思った。
「じゃあ、明日同じくらいの時間にまた電話する。その時に外出についても答えるから、辛抱しろよ」
「分かりました。明日は大人しくするよう努めます」
「宜しくな」
そこで電話は切れた。やれやれ、と肩をすくめると、オーブンが止まった気配がした。電子音を嫌う翠はオーブン兼電子レンジの音は切ってあるので、気配で探るしかない。上手く焼けたかどうか確認するためにキッチンに行くと、オーブンは止まっていた。小さなランプを付けると、オーブンからクッキーを取り出す。それを作業台の上に置くと、甘いクッキーの焼き立ての匂いがした。
『やれ、クッキーが焼けた、焼けた』
「あれ、起きていたの?」
『匂いで目が覚めたのよ。さて、味見よ、味見』
「まだだってば。何回言わせるの。荒熱を取ったらね」
『ひひっ。まぁたおあずけよ、おあずけ。それより翠、面白い事があるぞ』
「何?」
『向かいのマンションから視線を感じた。いつもよりねちっこい視線よ』
「ねちっこい?」
翠は聞き返した。
『うむ。素人以上の視線だが、どこかどろりとした気配がある。今のうちに殺すか?』
「分からない。とりあえず放っておくわ。私にも分かるくらいあからさまなら殺すかもね」
『そうよな。下手に殺したらここにお嬢様がいることがばれてしまう』
「んー、私はもうばれていると思うけど」
『ほう、何故よ』
「だってあの高級ホテルからトランク三つも持ってこんな安アパートに来たんだもの。お嬢様を見張っている輩が居たなら、とっくに気付いているわ」
『うむ…。言われれば道理。まぁ殺気の類は感じられなかった故な、とりあえず報告よ、報告』
「ええ。ありがとう」
『ひひっ。お互い様よ。ほれ、荒熱も取れた、取れた。焼き立てクッキーの味見よ』
「はいはい」
翠はクッキーをひとつ取ると、口にした。甘いクッキーに生姜のスパイスが効いて、焼き立ての美味しさが引き立つ。八重も嬉しそうだ。
翠は残ったクッキーをブリキの缶に入れようと缶を開け、中に入っていた二枚のクッキーを取り出して、新しいクッキーを入れた。二枚のクッキーを皿に移すと、ショコラフレーバーの紅茶の茶葉を取り出し、新しく紅茶を淹れ直した。暖かな紅茶とクッキーを食べながら、翠はソファに座った。
デスクの上にある読みかけの単行本を持ち、片手で開きながら読み始めた。紅茶は暖かく、甘かった。そうしてしばし、夜の間に翠は文字を追うのだった。
遥が起きてきたのは8時すぎだった。桜はとっくに起きてキャットフードを三分の一ほど食べて、ソファの傍で丸くなってにやにやと笑っていた。
「おはようございます」
「うん…おはよ」
遥はそういって目を擦った。絹のネグリジェを着て、髪は少し乱れていた。
翠は洗面台に遥を連れて行き、顔を洗うように言ってからキッチンに立った。誰かに食事を作るということは初めてだったので、翠はすこし緊張しながら卵を二つ割り、砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、オムレツを作った。冷蔵庫にあったポテトサラダを出し、トースターに食パンをセットした。紅茶を淹れていると、遥は顔を洗い、着替えも済ませていた。
「たいしたものは作れませんが、朝食です。置いておきますね。皿はシンクに置いておいて結構です。昼食の時間になりましたら桜に言って起こしてください。また何かお作りします」
「うん、分かった」
「浴室はご自由にお使いください。タオルは新しいものに変えておきました」
「ありがと」
翠は返事を聞くと、寝室へと向かった。遥が桜に話しかけているのが横目でちらりと見えた。
ベッドは遥が出た通りになっていた。翠は服を脱ぎ、下着姿になった。残暑がまだ少し残っていたので、翠はタオルケット一枚をかぶってベッドに寝転んだ。腕を折って腕枕をし、ぼんやりと壁を見た。何もない白い壁紙を見つめながら、ゆっくりと翠は眠って行った。
5時近くになり、翠は目を覚ました。頭を振って眠気を飛ばすと服を持って寝室を後にした。遥は部屋でテレビアニメを見ている。それを確認すると浴室に入り、シャワーを浴びて服を着た。
「おはようございます。昼食は如何なさいましたか?」
「あ、うん。起こすのも悪いかなって思って、冷蔵庫にある適当な物食べさせて貰ったの。…いけなかった?」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
シンクには皿とラップが置かれていた。水でひたされている。
「お嬢様は炊事もなされていたのですか?」
「ううん、前にちょっとコックに教えて貰っただけ。出来るのは電子レンジくらいだよ」
「そうですか。それではこれからは、昼食は冷蔵庫にいれておきますね」
「うん、それがいいね」
遥は頷いた。
「ところでさぁ…。お買いもの行かない?」
窺うような遥の視線に、ああ、やっぱりな、と思った。
『ひひっ。翠の予感が的中よ。翠の勘ほど恐ろしいものもそうそうに無いよな』
八重が哂った。昨日の電話も聞いていたのだろう。翠は少し言葉を選んで言った。
「申し訳ありませんが、今日はご辛抱頂きたい所です」
「えー。私、この前ロンドンから来てから、まだ日本でお買いものに行っていないの。ね、お願い」
両手を合わせて上目遣いに聞いている遥を見て、どこか冷めたように翠は感じた。
「その件につきましては、今、仲間に聞いています。今夜になれば返答が来るはずですので、オーケーならば明日になったら行きましょう。明日でしたら、昼間も私が起きますので沢山お買いもの出来ますよ」
「本当?」
「ええ、本当です。ただし、仲間からオーケーが来たらの話ですよ?」
「うん。じゃあ、待ってみる」
そういって遥はテレビのリモコンを操作した。ゴールデンタイムまでのニュースが画面に映った。
「ところでお嬢様、ご夕食は何が食べたいですか?」
「んー、何がある?」
「庶民の食べ物でしたら大体ありますが…。高級品は明日に買い出しですね」
「ならね、シチュー作って。シチュー」
「ホワイトですか?ビーフですか?」
「ホワイト!私、こってりしてあったかいものが大好きなの」
「畏まりました」
翠はそう云ってキッチンに立った。掛けられているエプロンをして、包丁で器用に野菜を剥き、鍋に放り込んだ。鶏肉を解凍してぶつ切りにし、鍋に入れ炒めたところで水を入れた。沸騰するまでの間に食べかけのバケットを切り、トマトを輪切りにしてその上にモッツァレラチーズを乗せ、オリーブオイルをかけて塩を振り、バジルを乗せた。トマトを冷蔵庫に入れると、丁度沸騰した鍋にホワイトシチューのルゥを入れ、弱火で煮込んでいる間に桜を呼び、キャットフードを与えた。
カリカリと音を立てて食べている間にシチューはとろみが付き、それを皿に盛るとトマトを出し、バケットを皿に並べ、部屋のデスクに置いた。
「お嬢様、ご夕食の準備が整いました」
「はーい」
遥はテレビの電源を切り、椅子に座った。そして小さな歓声を上げる。
「すごい、あっという間に出来ちゃうね」
「そうですね。他に何かご入り用な物はありますか?」
「ううん、大丈夫。翠ちゃんは食べないの?」
「私は寝起きは食欲が無いので結構です。それより、味ですが、市販の物ですので何か改善が欲しい場合は遠慮なくお申し付けください」
「いいのいいの。むしろ、私、翠ちゃんの味って好き。今日の朝ごはんも美味しかったもの」
「ありがとうございます」
「じゃあ、いただきます」
スプーンを持ってそう宣言すると、シチューに手を伸ばした。美味しい、と笑って、バケットを取る。翠はその間にまたキッチンに行き、棚から桃の缶詰を取り出すと皿に盛りつけ冷凍庫の一番冷える所に置いた。
遥が夕食を完食した後、桃を出して、全ての食器や器具を洗った。遥はまたテレビを見ている。ジャニーズが主演しているバラエティ番組の声が聞こえた。
「翠ちゃんってさぁ…」
おもむろに遥が口を開いた。
「自分に厳しい人って言われない?」
「…いえ、言われたことはありませんが」
翠はシチュー皿を洗いながら答えた。
「自分に厳しい人だと思うんだよね。だって時間が正確なんだもん。11時に寝ろとか、さ。お風呂のタオルも綺麗に新しいのが並んでいたし、ボトルも整頓されていたし。それに、時間にも正確だよね。6時にはご飯出てきたもの」
そうかなぁ、と翠は自問した。
「それに野村さんも、翠ちゃんなら絶対大丈夫って言ってたから」
「絶対ですか…」
翠は苦笑した。そして洗い終わったものをタオルで拭き、棚に戻した。時刻は8時少し前だ。
「ご入浴の準備をしてきます」
「あ、そうそう、聞きたかったんだけど、お風呂に金粉浮かべちゃだめ?」
「金粉?」
翠は驚いて言い返した。
「そう。入浴剤なんだけど、お湯を引くと金粉が残っちゃうんだよね。それでもいい?」
「構いませんよ。お好きな入浴剤をお使いください」
「うん、ありがと」
「入浴剤はお湯を入れる時に入れますか?それとも満ちてから入れますか?」
「泡の入浴剤だから、入れる時に入れて。鞄に入ってるから…。ええと、ピンクの鞄の、紫のポーチ」
「畏まりました」
そんな入浴剤が存在するのか、と驚きながら、翠は寝室に行き、指定されたポーチを出した。ポーチというにはあまりにも大きく、ボトルの形をした入浴剤がごろごろと出てきた。
「お嬢様、どれをお使いになられますか?」
「ええと、これ。半分くらい使ってね」
「はい」
手のひらで転がすと、成程、金粉が入っている。他のボトルをポーチに戻し、バスタブを洗ってからお湯と同時に入浴剤を半分ほど入れた。さらさらと流れる金粉に、うわぁ、と翠は思った。
『ひひっ。お金持ちは凄い、凄い。風呂に金を浮かべるなど、初めて聞いた、聞いた。昔は小判の中で泳ぎたいと言う者がおったが、現実になるとはな』
「凄いわ…」
『地獄の沙汰も金次第よ。ひひっ。現実も金次第よなぁ』
「本当、八重がいつも言う通り、人間の物欲ってすごいわ。やろうと思えば、大体のこと出来ちゃうし、出来ない事は必死で研究するし。そのうち、小説に出てくるロボットの完成が見られるかもね」
『ひひっ。ではそれまで生き永らえよ』
「それは貴方と桜次第じゃない?」
そんな会話を心の中でしながら、翠は桜の皿を見た。空になっているのを確認し、桜専用の魚の形をしたスポンジで洗った。
キッチンでぼんやりと時計を見て、お湯が張る頃にバスタブを確認すると、見事な泡風呂が完成していた。
「お嬢様、ご入浴の準備が整いました」
「あ、うん」
遥はソファから立ち上がり、寝室へ服を取りに行った。それを見届けて、翠はベランダに出て煙草を吸う。翠の気に行っている銘柄は外国産の重い煙草で、微かにバニラの香りがする。煙を肺いっぱいに吸い込むように翠は息を吸った。
外からはネオンサインしか見えない。月はおぼろげに雲から出ていた。昨日みた月より大きな月は、じきに満月になることを翠に教えていた。けれど満月も刹那の一日。すぐにまた欠けてしまう。そんな月もまた良いと翠は思いながら、二本煙草を吸い、部屋に戻った。
「どう?まだ視線を感じる?」
『ひひっ。一日中よ』
「監視しているのかしら」
『まぁ、違いなかろ』
「今のところ、全ては田中さん次第って所ね」
『そうよな、そうそう。今は忍ぶ所よ』
そうしているうちに一時間半が経ち、遥が風呂から出てきた。翠は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、グラスに注いで遥に渡した。遥はまたテレビの電源を入れた。
「ねぇ、翠ちゃんの本棚って読んでも良い?」
「構いませんよ」
「あのファイルって、何?」
遥がオレンジジュース片手に指差したのは、一番下段にある三つのファイルだった。
「ああ、あれは、私が個人的に好きな文章をファイルしたものです。機密等ではありませんので、興味があれば読んでくださって構いません」
「へぇ、翠ちゃんが好きなものなんだ。興味あるなぁ」
そういって遥は笑った。桜もキャットタワーの中のベッドから出て、にやにやと笑った。
その後少し、遥の話を聞き、十一時になった頃に翠は眠る様に促した。遥は桜を抱いて大人しく寝室に入り、部屋には静寂が戻った。
いつもの紅茶を淹れ、昨日焼いたクッキーを食べながら携帯を見た。田中からの着信は無いようだ。そのまま新しい単行本を手に取り、数ページ続いた所で着信音が鳴った。翠はすぐに出た。
「よう、すぐに出たな」
「昨日言った通り、お嬢様が外出を求めました」
「その件は野村さんに聞いたらオーケーだってよ。ただ、絶対に目ぇ離すんじゃねぇって注文付きだ」
「畏まりました」
「それと、もしかしたらお前の家は敵の監視下に置かれている可能性がある」
「知っています。視線を感じていますから」
「お前はほんっとうに、プロの殺し屋だよなぁ」
田中は感嘆したようにため息を吐いた。
「まぁ、せいぜい気を付けておでかけしろよ」
「はい」
「俺からの連絡は以上だ。何か質問はあるか?」
「いえ、特にありません」
「じゃあ、俺からは一週間後にまた電話する。一週間内に何か指示が欲しかったら俺に連絡をくれ」
「分かりました」
「じゃあな」
そういって電話は切れた。翠は携帯の画面を暫く見た後、浴室に行った。そしてバスタブにびっしりと貼りついた金粉の惨状を見るまでの少しの間、八重は小さく哂っていた。
翌日、翠の姿は遥と共に駅前にあった。駅前ビルが陳列してある場所で、既に翆の両手には沢山の買い物袋がかけられていた。
「ね、次はここに行きましょ!」
遥は嬉々として次のビルへと足を運んだ。翆は徹夜の睡眠不足よりも遥の元気に圧倒され、やや疲れながら遥に従う。服や香水、アクセサリーに入浴剤、他にも数えきれないほどの買い物の紙袋が翆の腕の中でガサガサと音がした。
「うーん、これどう思う?」
ビルの一階にある靴を見て、遥は翆に聞いた。
青のエナメルのパンプスで、踵部分にリボンがついている。
「すいません、試着しますねー」
翆の返答を聞かずに遥はパンプスの試着を始めた。
「…女の子の買い物って大変…」
八重にぼやくと、哂われた。
『ひひっ。翆の買い物はすぐに終わってしまうからな、一興、一興』
「これ、殺しよりずっと疲れるわ」
『お嬢様の買い物はまだまだ続くのよ』
「本当、女の子って体力あるわよね」
『使うお金も無いというのに』
「あら?あるわよ。お嬢様は全部カード払いだもの」
『カード?』
八重はクエスチョンマークを出した。
「ああ、私はカードそんなに使わないから…。そうね、ツケみたいなもの。月末に請求されるの」
『ひひっ。お嬢様はお金持ちよ、お金持ち』
「お金持ちより女の子の買い物の方が怖いわ」
そんな会話をしていると、遥はパンプスの支払をしている所だった。
真新しい紙袋を翆に手渡すと、遥は時計台を見て、お昼ごはん食べない?と提案した。時計台は既に一時を過ぎている。十時には買い物に出たはずが、たった三時間で翆はくたくたになっていた。
遥の提案を飲み、二人はフレンチレストランに入った。
高級な店で、予約を聞かれたが遥が慣れているようで、二人はビル群が一望できる席に通された。メニューを見て金額に若干驚きながらも、遥と同じものを注文した。
「ねぇ、疲れちゃった?」
料理を待つ間に遥は上目遣いで聞いてきた。
「いえ、大丈夫ですよ。まだまだお買いものしたいでしょう?」
翆は疲労を見せずに言った。
「買いたいものは大方買ったんだよね。だから、翆ちゃんがいつも行っているお店に行ってみたいの」
「いつもの店ですか?お嬢様にはあまり相応しくないかと思いますが」
「いいの、いいの。お部屋の雑貨を見る限り、私の目に狂いはないもの!」
遥は胸を張って言う。翆は近辺に店があることを頭の中で確認して、頷いた。
料理を食べ、レストランから出ると、翆は高層ビル群から少し離れた三階建てのビルに入った。
階段で三階まで上ると、上品な石鹸の香りがした。
扉を開け、遥を通すとなかに入った。
「ここがいつも来ているお店?かわいい」
「ええ、そうです」
店は個人経営のアンティークショップだった。店主がフランスに行き、直々に買ってきたものを陳列させている。
「かわいいなー。これ、いくらかな?」
「1800円ですね」
「へぇ、かわいくても、思ったより安いんだね」
失礼じゃないのか、とレジカウンターの奥の女主人を盗み見たが、店主はぼんやりと雑誌を眺めていた。
結局、数十点の買い物をビルでした後、休憩としてカフェに入り、ケーキを食べた後に二人は帰路についた。翆の足はくたびれてしまっていて、タクシーが何よりも有り難く感じた。
部屋に帰ると早速遥は寝室で買った物を取り出していた。翆は紅茶を淹れる為にキッチンに行った。時刻は四時を過ぎている。はぁ、と大げさに翆はため息を吐いた。
『ひひっ。翆はお疲れ、お疲れ』
「なら、貴方がやってみなさいな。女の子ってすごいわ…」
『翆だって娘だろうに。たまには一日中、店巡りもよかろ』
「冗談じゃない。欲しいものはほとんど無いわ」
『ひひっ。それでも気に入らなければ店巡りもするだろうに』
「それでもあんなに買った事は無いわ」
『お嬢様はお金持ちよ、お金持ち』
「これ、一か月持ちそうにないなぁ…」
足がつっているのを感じながら翆は言った。
『お嬢様は明日も行きたいと思うがな』
「はぁ…。割りに合わない仕事」
『ひひっ。お嬢様のおもりは大変よの、大変』
「あなたも一度経験してみればいいのに」
紅茶を淹れていると、タイミング良く遥がやってきた。紅茶を勧めると、素直にソファに座り紅茶を飲んだ。
「買い物のお忘れはありませんか?」
「うん。大体、欲しいものは買ったかな。でもね、明後日、また行きたいの。駄目?」
遥の返答に内心うんざりしながら、それでも表情に出さずに翆は笑った。
「宜しいですよ。明後日、またお買い物に行きましょう」
「やったぁ!」
遥が歓声を上げる。その声を聞いて、明後日も付き合ってもいいかな、と少し思ってしまう翆を八重は哂った。
「ねぇ、明後日はさ、翆ちゃんの服を買いに行かない?」
「私ですか?」
遥ははっきりとそう主張した。
「いっつも黒い服ばっかりだし、たまには可愛いお洋服もいいかなって」
「いえ、結構です。私はお嬢様に気を使って頂ける存在ではありません」
「そんなのいいって」
遥は手をひらひらと振った。そんな遥を見て翆はどうしようかと思った。
「ね、いいでしょ?今日見たお洋服の中に、翆ちゃんに絶対似合うと思った物があったの!」
遥はその服の形状、色をくわしく説明しだした。それを見て翆はどうしようかと困惑した。
『ひひっ。たまには若草色の服も着てみせよ』
八重はそう哂ったが、哂い声だけでも翆はシャットダウンした。
「私は…黒しか着ませんから」
遠まわしに遠慮してみると、遥は意図に気が付かずにどんなに可愛いか、再び洋服の説明に入った。
「それでね、黄緑のドットが凄く可愛くて…――」
遥の説明を言葉半分に聞きながら、翆は別の事を考えていた。
今日、遥と共に外出したのに、敵の気配は感じられなかった。勿論、八重も桜もだ。そのことはつまり、敵は翆の部屋を見張っているだけで他には干渉しないということだろうか?それとも、店員になりすましていたのだろうか。
考えるだけ無駄と分かっていても、翆は遥の危険に危機感を募らせていた。
興奮している遥に夕食を摂らせ、就寝させてから翆は煙草を吸い、田中に電話した。
数コール鳴った後に田中は電話を取った。
「夜遅くにすみません」
「いいって。お嬢様は寝たのか?」
「ええ、眠りました。しかし、今日、不自然な事が」
翆は声のトーンを落として言った。
「買い物をしに外に出ましたが、監視らしい視線は感じませんでした。どういうことだと思います?」
「んー…。たまたま、お前のアパートにしかカメラを置かないでいた、とは考え難いな。尾行の気配はあったか?」
「いえ、ありませんでした」
そういう気配なら桜や八重が知っているはずだ。
「とりあえず、お嬢様から目ぇ離すなってことだな。怪しい輩がいたら、殺していいことになっているんだし」
「…本当に、殺していいんですか?」
「んな怖ぇ声出すなって。俺だって殺しは好きじゃねぇよ。でもお前とお嬢様はパートナーだ。お嬢様を危険にさらすくらいなら、俺は殺す事を優先させるぜ」
「…そうですね」
翆は頷いた。
「殺しに注文はありますか?」
この台詞は翆がニンゲンという生き物をどこまで殺していいか聞く時の質問だった。
八重の力は翆が視認した者や気配を感じる者を殺せるが、どこまで殺せるかという制限を付ける事が可能だ。村人全員を白骨化させてしまうことも出来れば、身体をじわじわと腐らせることも可能、勿論普通の死体にすることも出来る。普通の死体の場合は急性心不全となるケースが多く、腐敗の場合は恐らく医学的には証明出来ない力が掛かっている。
「あー。とりあえず、顔は潰すな。身元が割れるようにな。後は好きにしていいと思うぜ」
「承知しました」
翆が使う力の多くは普通の死体にすることだ。たまに命令が下される、消してくれ、と言う場合は白骨化させてドラム缶にコンクリートで詰めて遺棄している。勿論その後にドラム缶ごと殺しているので、風化したドラム缶の死体は正真正銘の行方不明者となる。
「ちなみに、どうだったよ?今日の買い物はよ」
電話越しに茶化すように田中が言った。
「正直に言えば、疲れました。女の子の買い物は凶器です」
「はははっ。お前ならそう言うと思ったぜ。何なら次の買い物は俺が引きうけてやらねぇでもねぇぜ?」
「本当ですか?」
「おう。任せとけって。ほら、俺ってかっこいいだろ?だから女の子のエスコートも完璧だっての」
「かっこいいかどうかは論じませんが、代わって頂けるなら助かります」
「かっこいいに決まってんだろ?前にお前とジムに行った時に俺の肉体美を知ってるだろ?筋肉質な身体、高身長、高学歴、高収入、そして日本の未来を背負ってる。かーっ、俺ってかっこいいだろ?な?な?」
「…そうですね」
翆は半分以上呆れかえりながら答えた。
「お嬢様は明後日に外出なさいたいそうです」
「そうか…。じゃあ、時計台の所まで護衛してくれ。後は俺が引きうけてやるからよ」
「くれぐれも、尾行と監視にはご注意を」
「分かってるって。銃も携帯する。お嬢様には最大限の護衛をしてやるさ」
「頼もしいって間違って思ってしまいそうですね」
「頼もしいに決まってんだろ。ったく、翠はつれねぇなぁ。今度メシ行こうぜ、二人きりでよ」
「考えておきます」
翆は冷たく言い放った。そんな翆を笑い飛ばして、田中は明るく言った。
「じゃあ、明後日の11時ごろに時計台で待ち合わせでいいな?」
「ええ、承知しました。お嬢様にもそう伝えておきます」
「じゃ、俺はもう寝るからよ。お前もあんまり身体を酷使しすぎんなよ?たまには息抜きも必要だって。もし連れが欲しいなら、いつでも俺を頼ってくれよな」
「ありがとうございます」
そこで電話は切れた。翠は田中の気さくさが時に嫌いで時に好きだった。面倒見の良さも知っている。
どっと今日一日の疲れが出て、翠はデスクの引き出しから睡眠薬を取り出すと、グラスにミネラルウォーターを注いで喉に流し込んだ。青やピンクの禍々しい色が翆に睡眠を促す。翠はそのまま、身体が重くなる感覚に身を任せ、ソファに座った。目を閉じ、少し目をマッサージするとすぐに身体が蕩ける様な眠気が来て、そのまま翆は眠ってしまった。静かな夜だった。
次の日、起きてきた遥に田中の護衛の件を伝えると、翠の服をたくさん選んでくると意気込んでいた。翠は何度も丁重に断ったが、遥は意外と頑固らしく、翠が根負けした形で収まった。その日は翆が眠っている間、遥は翆のファイルを見ながら過ごしていた。たまに桜と遊んだり、テレビをかけたりしたが、それ以上に翠の選んだ文章はどれも美しく、残酷で、けれど切ないものばかりで遥は大きな感銘を受けていた。翠が眠っている間に作り置きされていた昼食を電子レンジで温めて摂り、ファイルや本を読んでぼんやりと過ごした。
翆が起きてきたのはいつも通りの5時過ぎで、夕食を摂り、入浴した後は、今日読んだ本や文章がどれほど自分にとって楽しかったのかを翆に説明した。翆は自分でも考え付かなかった視点からの論点に興味を持ち、二人で一冊の本に対して議論することが楽しかった。いつの間にか、翆にとって遥は単なる護衛対象ではなく、彼女にとっての大切な人になっていた。それに気が付くにはまだ翆には早かったが、内なる八重はとっくに翆の深層心理を見抜き、哂っていた。
11時過ぎに、翆と遥、そして桜の姿があった。時計台の下では、ラフでいてお洒落な格好をした田中が待っていた。二人に気が付くと、手を上げた。遥が田中に駆け寄る。それをゆっくりとした歩調で翆は追いかけた。
「よ、元気か?」
「ええ、そこそこに。お嬢様は随分ご機嫌ですね」
「勿論よ」
遥は笑顔で言った。
「だって今日は、翆ちゃんの為に、たくさんプレゼントを買うんだから」
田中は周囲を見渡して、翆の耳に口を近づけて囁いた。
「尾行や監視の気配はあるか?」
「いえ、ありません」
翆も小声で答えた。
「じゃ、お買い物しよっか。んー、でも、その前に!」
二人のやり取りを無視して、遥は言った。
「三人でご飯食べましょ!いいでしょ?」
「お食事ですか?朝食が足りませんでしたか?」
遥はううん、と首を横に振った。
「なんだか、田中さんと翆ちゃんって不思議な組み合わせだもの。それに、三人でご飯食べる方が、美味しいに決まっているもの」
そう言って、三人が向かった先は駅ビルからほど近い、イタリアンレストランだった。
通された窓際の丸いテーブルを囲むように三人は座った。
それぞれに注文した後、すぐに運び込まれた遥のオレンジジュースを飲みながら、遥はにっこりと笑って言った。
「ねぇ、二人ってどういう関係なの?恋人…じゃないよね?」
「当り前です」
翆はきっぱりと言った。田中はやれやれ、というように肩をすくめて言った。
「俺と翆は仕事仲間です。まぁ、俺が上司みたいなものですね」
「田中さんの方が上ってこと?」
「ええ、翆に仕事を依頼する野村の伝令役ですね」
「ふぅん…」
遥はさして面白くなさそうに、オレンジジュースを飲んだ。
「田中さんって、かっこいいよね。好みのタイプじゃないけど」
「そうですよね。もっと翆に言ってやってくださいよ。こいつったら全然俺の魅力に気付かないんですよ。っていうか、呆れるんです。いつも」
「あはは、でも田中さん、女運無さそう」
「それは同感です」
翆が言った。二人の女性攻撃に、田中は肩をすくめた。
程なくして料理が運ばれ、辛口のぺペロンチ―ノを翆は食べながら、周囲をさりげなく観察した。
「どう?何か、おかしな気配がある?」
八重はひひっと哂った。
『これだけ人がおれば、いろんな気配がするぞ。まぁ、お嬢様への敵意は感じられぬがな』
「田中さんに任せて大丈夫だと思う?」
『翆は昔から生真面目よなぁ。たまにはお嬢様を田中に押し付けて、のんびり眠れば良いものを』
「しょうがないわ。性分だもの」
暫く三人は食事をし、デザートを頬張る遥を見ながら、翆は田中に警戒レベルはそこまで高くないと話しあっていた。
食事が終わると、買い物モード全開になった遥は田中を連れまわしながら去って行った。遥を見届けると、翆はアパートに帰り、ベッドに倒れ込んだ。昨晩は眠ったはずなのに、眠気がする。携帯のアラームを4時に設定すると、そのまま眠ってしまった。
5時に時計塔で会った田中は若干疲れているようだったが、その疲労を見事に隠していた。遥は買い物袋を両手に持ち、田中はその倍の買い物袋を持っていた。どれだけ買ったんだ、と内心思いながら、翆は時計塔に近づいた。
「如何でしたか?お嬢様」
「うん、とても楽しかった。田中さん、センスがいいんだもん」
「それは何よりでした。田中さんは大丈夫ですか?」
「女の子の買い物に付きあわねぇで何が男だ。男ってもんは、こういう時に本領を発揮するものだぜ」
「はぁ…。まぁ、いいですけれど。ところで」翆は声を小さくした。「何か、異変はありませんでしたか?」
田中は屈託のない笑顔で言った。
「何も無かったぜ。こんな可愛いお嬢様とデート出来たんだ、何も心配いらねぇよ」
その笑顔がどことなく好きだなぁと、馬鹿な事を考えつつ、田中から買い物袋を受け取った。
「それでは帰りましょう、お嬢様」
「うん。今日は沢山お洋服を買ったのよ。翆ちゃんの分も」
「光栄です」
「だから、早くお部屋に帰って試着しなくっちゃ!」
元気に言うと、買い物袋がガサガサと揺れた。
田中と別れ、タクシーを拾いアパートへ帰った。買い物袋は先日翆と買った買い物の優に三倍はあった。アパートの寝室に転がった紙袋はベッドを覆い尽くした。遥は嬉々として買い物袋の中から、深い緑色のワンピースを出した。タグを切らずに、それを翆に渡す。
「ね、着てみて? 翆ちゃんの黒髪に、とても似合うと思うの」
天真爛漫な笑顔に押され、翆はワンピースに袖を通した。上質な着心地がする。
胸にワンポイントで入った蝶の刺繍が大人らしさを感じさせた。
「うん、凄く似合う。これ、私からのプレゼントね」
「…ありがとございます。大切にしますね」
「うーん、大切にしてもらうより、たくさん着てくれた方が嬉しいな」
そして、と付け足して、また新しい紙袋を取り出した。
それは黒を基調としたノ―スリーヴのワンピースで、スカート部分が紺色と黒の生地で分れていた。キャミソールのようなワンピースの胸の部分に垂れ下がっているリボンを後ろで大きく結ぶ。
「これは、田中さんから。翆ちゃんなら絶対似合うって言ってたの。やっぱり田中さん、センスいいな。すっごく可愛い」
「はぁ…」
自分は鏡を見ていないので、遥の感想しか分からないのだけれど、けれど素直に良いデザインだと思った。勿論、年頃の女性にしては、だけれども。街を歩く分には、プレゼントされた二つのワンピースはとても似合うだろう。一瞬も忘れていない村に居た時の自分を少し、思い出した。
いつもの黒いシャツに着替えている間に、遥は次々と小物を取り出した。バスソルト、アクセサリー、紅茶の缶、チョコレート。ずいっとベッドに転がした小物を、遥は翆に差し出した。
「これ、全部、翆ちゃんへ。田中さんと二人で決めたんだよ。翆ちゃんが、もっと笑顔になるようにって」
「もっと、笑顔に、ですか?」
「うん。だっていつも、どこか寂しそうだって田中さん言っていたから。私もそう思っていたの。だから、ね?もっと笑って、楽しそうにして?笑ってないと、幸せになれないんだよ」
二人分の気持ちがベッドに並べられた小物にはあった。それは翆にとってはとても重く、とても嬉しいものだった。
「ありがとうございます。素直に、嬉しいと思いました」
「うん!」
二人はこんなににも、私を見ていたのだろうか。人を殺して、だんだんと荒んでいた心を、二人分の気持ちだけでこんなににも充たされる。それは、村では当たり前のように感じていた愛情が突然失われてから、初めての温もりだった。
その暖かさに懐かしさと、嬉しさがこみあげてきた。
ああ、私はこんなににも、お嬢様と田中さんが好きなんだ、と確信した。
ベッドの上ではまだ、遥が自分への買い物を漁っていた。
翆は静かに寝室を後にして、キッチンへ向かい、ミネラルウォーターを飲んだ。心が暑くなるだけで、身体も暑くなるなんて。
『ひひっ。お嬢様と田中、ニンゲンというものは暖かであろ?』
八重が話しかけてきた。
「…そうね」
『お前は村人全員失って、ずっと孤独だと思って生きてきた。人の温もりなど、求めたためしが無かったからな。私の力が恐ろしかろ?殺す力など、人を孤独にするだけよ。身を持って感じた、感じた。ひひひひひっ』
「…でも、私はあの時の選択を後悔したことなんて一度も無いわ」
『何故よ』
「だって、大切な人を守れるじゃない」
翆はまたミネラルウォーターを喉に流し込んだ。
「その為の孤独なら、私は甘んじて受けるわ」
『ひひっ。そうか、そうか』
「でも」
翆は呟いた。
「私が殺した人たちの中にも、大切な人はいるのよね。失って、泣く人だっているのよね」
『因果応報よ。いつか、遠くない未来にお前が泣く日が来るであろ』
「そうかな」
『全て守れるなど高慢、高慢。きちんとお手手を繋いでおっても、人の縁など容易く切れるのよ。お嬢様も、田中も、いつかは別れるであろ。死を持って別つであろ』
「…それは、予言?」
『ひひっ。長年の経験よ、経験。1000年以上生きれば、大抵の事は分かるのよ』
「なら私は、貴方の力でそれを守るわ」
この身がどこまでも罪深きものであってもね。
そう呟いて、ブリキの缶からクッキーを一枚食べた。
それから、殆どの遥との買い物を田中は嫌な顔をせずに引き受けた。むしろ嬉々として田中は引きうけ、帰りにはどっさりと買い物袋を引っ提げて来たのだ。その中には翆への贈り物も多く含まれ、翆は田中と遥によって少しずつではあるが荒んだ心が癒されていった。
「俺はな、別に、今の日本が嫌いって訳じゃねぇよ。でもな、見てみろ。世の中金次第じゃねぇか。お嬢様みたいに欲しいものがすぐに手に入る地位ってのはなかなか無ぇもんだ。それでいて、地下通路に居るホームレスの実態は、住所が無いだけって理由でお役所から締め出された連中がほとんどだ。若者は未来に関心なんか抱いていねぇよ。ただ、誰かが良い大学を出て良い就職先を見つければ、幸せになれるなんて謳い文句に踊らされているだけだ。しかも、その誰かが、そのまた誰かに言われたことを繰り返して言っているだけだ。幸せなんて誰も掴めたためしなんてねぇや。俺は、そんな世の中を変えたい。どういう風にすれば良くなるなんて具体案はねぇけどよ。でも、少しでも笑える奴が居ればそれでいいんだ。俺が今日やった事の中で、少しでも笑いを取り戻せる人間が居ればそれでいい。綺麗事だが、それが真実だ。綺麗事がねぇと誰もやって行けねぇ。だから俺はいつまでも綺麗事言って、野村さんについていくぜ。いつか、お前みたいのでも本当に笑える日が来るまでな」
田中の持論はいつもそれで、自信に満ち溢れてそれでいて優しかった。どこまでも優しかったのだ。
しかし、そんな束の間の幸せは、一本の電話で崩れ去った。
その日も、連日の通り田中に遥を任せ、仮眠を取っていた翆は、突然の着信音で目を覚ました。電話は野村からだった。野村から連絡はしない約束のはずなのに、鳴った電話に緊急性を感じて、すぐに電話に出る。
「どうしましたか?」
「…今、どこにいる?」
「アパートの部屋です。何かあったんですか?」
野村はそのまま黙ったきりだった。翆は心臓が壊れるのではないかと思うほど、嫌な予感がした。
「…田中と連絡が取れなくなった」
ぽつり、と呟かれた一言に、翆の全身に鳥肌が立った。
「いつも、お嬢様と出かける際には田中と、二時間おきに連絡を取り合っていた。しかし、4時間が立っても連絡が来ない。こちらからかけても、電源が切られている」
「それで、お嬢様は?」
「行方不明だ」
はぁ、と野村はため息を吐いた。
あの田中が居なくなった。そして遥が居ない。その二つの事が翆の頭の中を音のように反響させた。
「…申し訳ありません。私がついていれば」
十分二人の間に沈黙が続いた後、翆は呟いた。いや、と野村は否定する。
「君が悪い訳ではない。田中とお穣様の外出を許可したのは私だ。責任なら私がある」
「それでも私が付いていれば、このような事態にはならなかったはずです」
「悪いが、今は責任云々の話をしたい訳じゃない。今、仲間総出でお嬢様と田中の行方を捜索している。君もコンディションが整い次第、行方を捜索してくれ。考えられる範囲全てをだ。一時間後、また連絡しよう」
一方的に切られた電話に、野村の苛立ちを感じたが、それを申し訳なく思う前にすぐに翆は支度をして、桜を連れて駅へ走った。
『ひひっ。お嬢様と田中が行方不明よ』
「心当たりある?場所、分からない?」
『私には分らぬ。桜に聞いてみると良い。そやつの嗅覚がもしかしたら役に立つかもしれぬ。犬には劣るが、猫の嗅覚も蔑ろには出来まい』
「桜、分かる?」
走りながら桜に問うと、にやにや顔のまま答えは無い。
『桜もお手上げのようよな』
「駅の近くにいるかしら?」
『…翆、これは私の想像だが。田中とお嬢様が連れ去られたとしたら、駅を探すより、近くの高級ホテルを探した方が良い。わざわざ携帯を切って連絡を怠ってまで駅をぶらついている訳でもあるまいて』
「それは、二人が捕まったって事?田中さんは?殺された?」
『可能性は否定できぬなぁ。ひひっ』
嫌な汗がじっとりとシャツに貼りついた。高級ホテルは機密性が高い。それ故に、第三者に客の居場所をやすやすと伝えることはまずない。しかも、ホテルの中には敵の息のかかったものがある。それらを探すとなると、絶望的なくらい二人を無事に探すのは不可能に近かった。
翆の携帯が鳴る。すぐに出ると、野村は見つかったかという確認をしている。見つけていないと答えると、一時間後にまたかけると言って一方的に電話は切られた。
お気に入りの猫足のヒールが折れるのではないかと思うくらいに探しまわった。桜に付いて、駅裏の廃屋を探したり、いくつかホテルを訪ねたりしたが、プライバシーの関係で、と断られるばかりだった。
散々走り回って、携帯の時計を見ると、丁度野村からの電話がかかってきた。
「お嬢様が見つかった」
「本当ですか!?田中さんは?」
「田中は…行方不明だ」
「…っ」
翆は息を飲んだ。
「今すぐ、パラディンホテルに来れるか?」
「すぐに向かいます。何号室ですか?」
部屋番号を聞くと、駅の東口から西口へと走った。ホテルが密集している区域の中でも他のホテルに埋もれてしまうようなホテルがパラディンホテルだった。
そこまで高級なホテルではない。翆はドアボーイを無視してエレベーターに乗り、部屋の階まで行って一旦確認する。
「ねぇ、尾行の気配はあった?」
『いや、無い』
「…そう」
そして息を整えて指定された部屋のベルを押した。少しして野村が出た。若干老けたように憔悴した顔がそこにあった。
「早かったね。入りなさい」
そういってドアを開けた。中に入ると、遥がベッドで眠っていた。
「睡眠薬かガスを嗅がされただけらしい」
「場所を特定したのは誰の情報ですか?」
「場所の特定は、泉波が駅周辺の防犯カメラをハッキングして見つけた。君と入れ違いで医者の峰内がお嬢様を診察した。得に外傷はないが、左手首に傷が出来ていた。縫う程ではないが、新しく付けられた傷だろう」
見てくれ、と野村は眠っている遥の布団から、包帯を巻かれた左腕を出した。包帯を解くと、縦に一本、線が出来ていた。
「リストカットだと思うか?」
「いえ、違いますね…」
傷口を見ながら翠は呟いた。
「初心者がここまで深くナイフで切る事はまずありえません。まず、剃刀からが常識です。それも、線が薄く残る程度。自分でナイフを使うのは、剃刀では深く切れずに血を見足りなくて血管を切るか、痛みが足りなくて切るかの二択です。それに日本は横線がポピュラーです。縦線は重度のリストカッターでもほとんどやりません。アメリカドラマでは見た事がありますが、そこまでの度胸はお嬢様には無いでしょう。眠らされている間に切られたので間違いないと思います」
そこで野村の顔がくしゃりと歪んだ。
「峰内も同じような事を言っていたな。くそっ…血のサインをされた可能性がある」
「血のサイン?」
野村は舌打ちをして、腕組をした。
「日本では印鑑か拇印が証明となる。しかし血でサインすることは、本人のDNAを使うことになるから私が貰ったサイン以上の強制力があるんだ。特に我々の世界ではね」
「…すみません。私の知識と配慮不足でした」
「いや、君が知らなくても問題の無い情報だ」
「でも知っておくべきでした」
翠はうな垂れる。それを見て野村は組んだ腕をほどいた。
「それにしても、君はリストカットについてかなりの情報を持っているね」
「はは、元ですがやっていましたから」
翠は自嘲気味に笑った。
「それは…――辛かっただろう」
「過去のことです。それでも…」
言葉半ばで野村に抱きしめられた。いきなりの行動に翠は目を丸くして、冷静に呟いた。
「野村さん、こんなところ、誰かに見られたら危険ですよ」
「いいんだ…。辛かったろうに」
「辛くなんか…」
ありません。そう呟きたかったのに、翠からは心のどこかが蕩けたように目が潤んだ。
「君は大事な仲間だ。仲間が辛い思いをしていたのを、誰が見過ごせと言うんだ…。そうでなくても私は君に辛い思いをさせて、人殺しまで依頼している。辛いだろう」
「………」
野村の腕の中で、翠は一粒だけ涙を零した。
そして胸を押し、野村から距離を取った。
「今は過去を思い出して泣いている場合じゃありません。お嬢様の血のサインを奪い返さなくては」
「…そうだね」
野村は呟いて、一瞬、暖かな眼差しを翠に向けてから、息を吐いた。
「お嬢様を無事奪還出来ただけでも感謝しなくては」
翆はふと、疑問に思い、言った。
「部屋に監視は居なかったんですか?」
「いいや、居たよ。私と、泉波、それと一文字と伊達が入った。泉波の偽装カードキーで突入し、一文字と伊達に制圧させた。今、死体はバスルームにある。一文字と伊達は死体処理の作業をしている。我々の私有地のどこかで穴を掘っているはずだ」
「死体に見覚えは?」
「いいや、私達には知らない人物が二人だった」
「そうですか」
翆は言った。そして心の中で小さく決心をした後、野村に言った。
「泉波さんに連絡は取れますか?」
「取れるが…。どうする気だ?」
「勿論、血のサインを奪い返し、可能なら田中さんの安否も確認します」
「それは許可できない」
野村は即答した。何故、という翆の言葉を遮り、野村は続けた。
「君にはお嬢様のボディガードを任せたはずだ。お嬢様が我々側に居る限り、君にはボディガードを頼まなければならない」
「けれど」
「君にはボディガードの責任がある。それに、伊達も一文字も銃では君に圧倒的に勝る。サインの奪還は彼らに任せる」
責任、という言葉を翆は重く受け止め、分かりました、と椅子に座った。
「お嬢様が眠るまで、ここに待機します。目覚めたらアパートにお連れします。外出はしません」
「それでいい」
野村はそう言って、向かいのソファに座った。
「君には話しておこう。泉波に居場所を突き止めさせたら、伊達と一文字で奪還させる。しかし、もしもサインが奪還出来ない場合は、君に奪還を依頼する可能性がある」
「畏まりました」
「しかし、それは万が一の話だ。君にはお嬢様のボディガードを最優先とし、警戒レベルを最高にして貰いたい」
「勿論、そのつもりです」
暫くして、遥が目を覚ました。何か覚えているか、という野村の問いに、突然後ろから布を当てられ、その後は知らないと答えた。よくある推理物の小説のような展開だった。
「お嬢様、これからは私のアパートで私とずっといて頂きます。外出は禁止です」
「えー…」
「このような事がまた起きた場合、私達にはお嬢様を無事に保護できる確信がありません」
きっぱりと翆が言うと、それ以上の追求を遥は止めた。簡単な説明をすると、遥は大人しく従う事に決めた。外出禁止令よりも、田中の行方不明の方が遥に大きなショックを与えていたらしい。
今後の連絡は一文字経由と言う事で話はまとまり、早々に翆は遥を連れてホテルを出た。桜が階段の下で呑気に寝そべっていた。
一文字と伊達は、チェスで言うルークとナイトだ。キングである野村から近い存在で、影響力も高い。銃の腕も立ち、翆ほどではないが、戦場慣れしている部分がある。伊達は屈強な大男で、元海上自衛隊に居た事を野村が話していた。無愛想ではあるが、自分で決めた事には責任を持ち、確実にやり遂げる実力もあった。戦闘面ではなくとも、野村のサポートとして優秀な実力の持ち主だ。一文字は伊達に比べれば一般人で、常にきょろきょろと不安気にしている所があり、あまり頼もしいと感じられる部分が少ない。おずおずとして、話す時も翆に対してさえ敬語で話す。昔、ヤクザのチンピラをやっていたが、嫌になって、というよりも怖くなって逃げてきたらしい。
ホテルからタクシーを拾い、アパートへと向かった。二人とも無言だった。
アパートに帰ると、翆は部屋の全てをチェックし、盗撮や盗聴の気配を探した。八重と桜も手伝ったが、結局何も見つかなかった。遥をベッドルームに幾冊かの本と共に押し込むと、紅茶を淹れた。
ポットとカップを寝室に運ぶと、翆はベランダに出て煙草を吸った。
「…ねぇ、田中さん、どうなったと思う?」
おもむろに八重に訪ねた。
『ふぅむ…。残酷かもしれぬが、殺された可能性が高かろ』
「でしょうね」
紫煙を吐きながら、翆は呟いた。
「死体すら見つけて貰えないのだわ」
『翆もやっていることよ。先日も言ったであろ、因果応報。全ては春の夜の夢の如しよ』
「そうだけど、ね」
二本目の煙草の火を付けた。
「誰かっていうのが分かれば、殺せるのに」
『ひひっ。流石に私も、田中を殺した者、という情報だけでは殺せぬのよ』
「分かっているわよ」
翆は少し苛々しながら答えた。
日はとっくに落ち、周りのマンションやアパートに灯りが灯り始めた。
しかし翆は部屋に灯りを灯す気になれなかった。このまま夜の闇に溶けてしまいたかった。この言葉に出来ない喪失感の中に埋もれて、全てが蕩けて無くなって欲しかった。
『しかし、まだ視線は感じるぞ』
「視線?」
『ひひっ。お嬢様が居ても居なくても、この部屋に視線を感じるのよ。そう…――目の前のマンションからよな。あからさますぎる』
「目の前?」
そこには高層マンションが聳え立っていた。ネオンサインが眩しいくらいの新築マンションのどこかから、視線を感じると八重は言う。
「それを殺せる?」
『人とも物とも分らぬが、殺せない事は無かろ。殺してやろうか?』
「…そうね。私の苛々に少し付きあって貰おうかしら」
紫煙を吐きながら、翆はつぅ、と視線を高層マンションに向けた。
(ぐずぐずに身体が腐ってしまえ)
翆は出来るだけ、恐ろしい想像をした。そうやすやすと殺す気は無い。それは双方覚悟の上だろう。ならば、楽しい殺し方を。指からだんだんの壊死していき、紫色になり、くずれていく。蛆が湧いても払う手が腐ってしまう。そのまま蛆に身体を這わせながら、どこまでも苦痛と恐怖を感じながら、いっそ殺してくれと願う程までの絶望を味わいながら、じわり、じわり、と崩れていくのだ。
そこまで想像すると、八重はひひっと哂った。
『翆が思った通りになった、なった。相手はぐずぐずの肉の塊になっているはずよ』
「視線を感じる?」
『もう感じもせぬわ』
「そう…」
翆は呟いて、半分以上吸い終わった煙草をベランダの縁に置いてある灰皿に押し付けて部屋に入った。静寂と暗闇の中に入った翆は一つ息を吐いて、遥に出した紅茶の残りをマグカップに注ぎ、飲んだ。
伊達が死んだ、という連絡が来たのはそれから一週間後だった。その間翆はずっと上の空で、遥の世話以外はほとんど何もしていなかった。外出を一切せず、食糧はインターネットの通信販売を利用した。遥には本とノートパソコンを与え、彼女が欲しいものも全て通信販売を利用させた。悪意という感情が入った荷物は八重が教えてくれた為、マンションの粗大ゴミに段ボールごと突っ込んだ。他にも怪しいものがあれば、桜か八重の勘で捨てていた。遥はずっと上の空の翆を気遣ってか、ほとんど文句を言う事無く寝室を使っていた。
一文字からの連絡は単純だった。血のサインの書類の在処までは特定出来たが、突入の際に相手の銃の前に伊達は倒れたのだった。後方支援をしていた一文字は伊達が攻撃を受けたのを確認すると、すぐに現場を後にした。ただそれだけだった。
田中と伊達が死に、一層野村は神経質になったらしい。そして翆が呼ばれた。一文字は、遥を連れて某高級ホテルに来て欲しいという旨を伝えた後、一方的に電話を切った。声が震えていて、もし自分が突入を先にしていたら殺されていたという死の恐怖を電話越しに感じた。死にたくないのなら、殺されなければいいのに、と翆はいつも思う。殺していいのは、殺される覚悟のある人間だけだ。
彼らの派閥の風向きが悪くなっているのは、一目瞭然だった。特に、重鎮の一人だった田中の死亡と、翆には劣るともかなりの殺しの腕を持っていた伊達がやられたことにより、チェスでいうルークとナイトが取られたようなものだった。ポーンでしかなくとも、かなり優秀な殺傷能力を持つ翆をサインの奪還に当てる事はある意味サクリファイスだ。野村もそれを承知で翆に奪還させるだろう。翠の勘がそう言っていた。
遥と共にホテルに入り、指定された部屋に入ると野村は遥をベッドルームへ入らせ、初めて遥と翆が会った時のように向かい合わせで野村と翆は座った。
野村は翆が予想していた以上に憔悴していた。当たり前かもしれないが、駒を取られるのはこれ以上苦痛でしかないのだろう。
「…君に、今夜23時より、一文字と共に血のサインの奪還をして貰いたい」
野村は少し掠れた声で言った。
翆は一文字の顔を思い出す。一文字とは一度しか会っていないし、何よりそれ程腕の立つ人物ではなかった為、それほど翆は期待していなかった。最悪、置いていけばいいとすら思っていた。
「場所は分かっているのですか」
「ああ、泉波によって割られた新しい場所に血のサインが置かれている可能性が高い。ここだ」
地図によって指刺された場所は廃ビル群の中の一つだった。
「…もっとセキュリティの高い場所にあるかと思いました」
「セキュリティが高いと、法律が煩わしい場合も多くない。何しろここは、ホームレスとヤクザが多く、銃やナイフによる殺人が起こっても、あまり関心が向かない場所でね。一文字も昔はここらを根城にしていたらしい」
「伊達さん達もこのビル群付近に居たのですか?」
「ああ…――。伊達の死体は見つからなかったよ。田中と一緒だね。ただ、一文字の報告からするに、死亡は確定していると思って良い」
「そうですか」
翆はため息を吐いた。そして時計を見ると、夜の8時になろうとしていた。
「…悪いが、今回は君に殺しの条件を付けたい」
「分かりました。どの様な条件でしょう」
「銃とナイフで殺してくれ。そして死体に損傷があまり無いようにして欲しい。銃であれば致命傷を与えやすいし、敵もやられた顔ぶれが分かればこれ以上の犠牲は避けられる可能性が高い」
「分かりました。銃の指定はありますか?」
「いや、それはない。君は銃の取り扱いの経験はあるか?」
「ええ、あります。部屋に戻れば、コルトがありますが、それでよろしいでしょうか?」
「十分だ」
野村は頷いた。
「それでは、コルトの準備をしてきます。22時に場所の指定の連絡だけお願いします」
そこでベッドルームをちらりと見て、翆は言った。
「お嬢様はこのまま、お部屋でお待ち頂いても宜しいでしょうか?」
「ああ、構わない。仲間に連絡して、腕の立つ連中を集めるよ。私達はここから動かないつもりだ。22時にこちらから連絡しよう」
「ありがとうございます」
翆は頭を下げて、一人でホテルを後にした。タクシーを拾い、アパートまで来ると、寝室の下に置いてある小さな引きだしを取り出した。中にはコルトのリボルバーと、拳銃、そしてナイフがあった。コルトの整備をしていると、八重が話しかけてきた。
『やれ、何か悪い予感がする』
「悪い予感?私はいつでも悪い予感の中で生きているのよ」
『ふむ。そうではなく、今宵は本当に何か悪い事が起きそうな予感なのよ』
にゃぁ、と桜も鳴いた。そして頭を手にすりよせて来た。桜を撫でながら、鉄のリボルバーを見つめた。
そのまま手を顎の下に持って行くと、桜はひっくり返り、お腹を出した。お腹を柔らかく撫でてやると、嬉しそうに目を細めた。いつも桜と一緒にいるのに、遥は初めて桜を触った時のように、お腹から喉にかけて、優しく撫でた。桜は嬉しそうにしていた。
大分満足になったようで、また寝室から出て行った桜を見届けた後、銃弾の点検をしながら八重と話した。
「悪い予感は、私にとって?」
『うむ、そうよ』
翆は昔、八重から教わった事を思い出した。翆が死ねば、翆と一体化している八重も死ぬ運命らしい。また八重の力で生きながられている桜も程なく死ぬらしい。だからこそ、八重も桜も翆の身の安全を第一に考え、協力してきた。その八重が、悪い予感がする、ということは翆にとって死の危険が迫っているという言葉と同意義である。しかし、やらなくてはならない。野村の為でもなく、遥の為でもない。翆にとって、23時の戦いは田中と伊達の弔いなのかもしれないと感じていたのだ。可能ならばせめて、死体を捨てた場所だけでも知りたい。そう思いながら、布でコルトを磨き、弾を詰めた。拳銃は左腰に、リボルバーは右腰に刺し、右の太股にナイフを下げた。予備の弾は腰にフック付きのベルトの付いたポケットに入れ、左腰に下げた。そしてキッチンへ行き、ミネラルウォーターを飲む。その時、電話が鳴った。
「はい」
「野村だ。支度は出来たか?」
「はい、出来ました」
「では、第13地区に行って欲しい。13地区の入口で一文字と待ち合わせだ。ホテル・ミネルヴァという廃ホテルの前で一文字と合流し、先ほど見せた地図の場所で制圧してもらいたい」
「畏まりました」
「くれぐれも、注意をすること。いいね?」
「はい、サインは必ず取り戻します」
「宜しく頼むよ、翆」
電話はぷつりと切れた。翆は携帯電話をポケットに入れ、桜を連れてアパートの部屋を後にした。
夜の月は緋色に輝いていた。ハロウィンのようなその月は赤々しく、満月だった。満月は人を狂わせる。翆はもう、運命という歯車が狂い始めているのを知っていた。
ネオンサインから遠ざかった、第13地区。地区というのは32まであり、それぞれ貧困層や富裕層が住む場所に分れている。その中でも第13地区は貧困層が多く、ヤクザの根城としても有名で、昼はおろか夜も一般人は避けて通る場所だった。
23時丁度に廃ホテル、ミネルヴァに着いた。一文字はまだ来ていないようだ。ポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出し一本咥えると、ジッポで火を付けた。2本目を吸うかどうか迷っている間に、一文字は姿を現した。
怯えているかのような蒼白な顔、細い身体付きの一文字はくしゃくしゃの髪をまとめていた。
「い、行きましょう、翆さん」
一文字は震えた声で言った。翆は心の中で、ああ、これは駄目だな、と感じた。何しろ、死に怯えている。殺されるかもしれない状況では仕方ないかもしれないが、これならば野村の秘書でもやってもらった方が役に立つのではないかと思った。伊達も同意見かもしれない。とにかくそんな雑念を払いながら、翆と一文字は指定された廃屋へと足を進めた。
二人とも無言だった。月だけが艶やかに翆達を嘲笑っていた。
廃屋へ近づくと、翆は言った。
「別行動を取りましょう。一緒に居ては、どちらに狙いが定まるのか分かりません」
「…わ、わかりました…。では、僕は右から…」
「私は左の窓から突入します」
二人は距離を取って、一文字は正面のドアから、翆は左に周り、姿勢を低くした。
ガシャァン、とドアの蹴り破る音を聞いた後、翆は頭上の窓ガラズをコルトの持ち手で割り、中に突入した。蹴り破る音から、中にいた人間のざわめき声が聞こえる。中は非常階段用の緑のランプしか無く、灯りは無いに等しかった。
翆は拳銃を持ったまま、窓から入った部屋を出た。そのまま右上にある階段を上り、壁に背を付けると、急に男が翆の正面から拳銃を持って飛び出してきた。コンマ一秒差で翆はリボルバーのトリガ―を引いた。弾丸は男の胸を打ち抜き、男は倒れた。
「サインの書類の場所、分かる?」
少し息が上がりながら、八重に訪ねた。
『いや、分らぬ』
「そう、いいのよ」
そう言うと、翆は2階を虱潰しに探した。途中で3人の男が出てきたが、拳銃で制圧出来るほどだった。ただ、左肩に一発弾丸を食らった。二階の部屋を全てチェックし終えると、また階段へ戻り、3階に行った。
ホテル・ミネルヴァは4階建の建物だ。もしいるとしたら、という予想を立て、3階を飛ばして4階へと足を進めた。銃声が聞こえる。一文字のものだと信じたいが、彼の蒼白ぶりでは健闘しているとは考え難い。翆は弾を詰め直し、4階の扉をチェックしようとした矢先、一文字の声が聞こえた。
「翆さん…!ここです!」
翆は声に釣られて、右に行った。すると大男がぬっと現われて、両手で翆の首を絞めた。翆は咄嗟に銃を取り落とし、男の逞しい両手を握ったが、何の意味も無かった。消えそうになる意識を取り戻そうと、右に下げてあるナイフを何とか握り、男の心臓に突き刺した。男は翆を離し、そのまま絶命した。酸素を取り戻した翆は拳銃を拾い上げ、右へと進んだ。一番奥の部屋の前では、少しばかりの灯りと非常用の緑のランプが見えた。灯りを見つけて翆はドアを開けた。
そこには、翆には予想していなかった情景があった。
一文字が、デスクの上に座って、ひらひらと書類を眺めていた。周りには5人もの男が立っていた。
「…どういうこと?」
翆が低い声でたずねると、嫌だなぁ、翆さん、と一文字は笑った。
その顔には、突入する前の怯えも、蒼白な顔も、面影が無かった。ただ勝ち誇った勝者の笑みが浮かんでいた。
「ユダは僕でした」
にんまりとした顔で一文字は言った。
「僕が警備が手薄になる田中さんと遥さんのお買い物の時に襲うように仕向けて、遥さんから血のサインを頂きました。あ、別に遥さんを騙したんじゃありませんよ。ちゃんと眠っている間に全部したことにしてありますから。それに、遥さんだって返してあげましたし。あと、伊達さんも。僕がユダって教えた時は、今の翆さんの表情にそっくりでしたよ」
うふふ、と一文字は笑った。
「つまり、僕が血のサインを頂いて、これから億万長者になるんです。壁に控えている彼らにも、たっぷりの報酬を用意していますしね。翆さん、貴方の力は怖いんです。どうやっているのかは知りませんが、人を殺す力なんて恐ろしいもの、僕には到底かないません。だから、今、死んでください」
ね?と一文字が笑うと、壁に控えていた5人が銃を出した。彼らがトリガ―を引く前に翆は一瞬にして、5人を心臓発作にさせた。
のたうち回る5人を見て、一文字は絶句した。
「みどり…さん」
「田中さんと伊達さんはどこ?」
「…く…来るな!」
拳銃を突きだして一文字は言った。けれど銃口は震えている。
「どこって聞いているの。分からない?」
翆は心の中で念じた。
すると一文字の右手の指先、トリガ―を引いている指先がコロン、と落ちた。それは健康な肌色ではなく、壊死した紫色の肉片だった。
「ひっぃぃぃいぃぃっ!」
拳銃を落とした一文字に、翆は近づく。
「どこって聞いているの?」
「こっ、殺してやりましたたよ!今頃バラバラになって仲良く魚の餌でしょうよ!」
「そう…。サインは別に、貴方が死んでからでも奪還できるわね」
そういって翆はにっこりと笑った。
「遊びましょう」
ぽろん、と落ちたのは左手首だった。一文字が絶叫を上げる。翆はそれを薄く開いた目で見つめた。
「ほらほら、次はどこが無くなって欲しい?やっぱり右足かしら?」
ぼろっ、という音がして、テーブルに座っていた一文字の右足の膝から下が落ちた。
「ぎゃぁあああ!」
翆はそんな叫び声を聞きながら、心臓麻痺で殺した男の一人の前に立ち、トリガ―を引いた。心臓を打ち抜く。
「じゃあ次は、耳なんてどう?」
そう呟きながら、5人の男全員の心臓を撃ち抜いた。もはや止まっているだけの彼らに狙いを定めるのは簡単だった。
「次は左足」
腐りきった左足が一文字のズボンから滑り落ちた。
「…さて、もう動けないわよね?」
「あ…あ…」
「書類は頂くわ。さようなら」
最後に翆は八重に頼んで、一文字の全身に蛆が湧くようにした。
「生きながら死になさいな」
翆は残酷な笑みを残して、一文字の横にある書類を持ち、部屋を後にした。
部屋には、心臓を貫かれた男たちと、未だに意識があるにも関わらず、徐徐に傷口から蛆が侵食している一文字だけが取り残された。
サインを畳んで弾丸を入れていたポケットに入れ、翆は煙草を吸いながら第13地区を後にした。桜が廃屋の隅から出てきた。抱き上げて、頬ずりすると、嗅ぎ慣れた獣の匂いがした。お日様の匂いという比喩もあるけれど、桜は翆の凝り固まった何かを溶かしてくれる優しい存在だった。13地区を歩いていると、ところどころに施しを貰いたいという人間が現れたが、無視した。先ほどの戦闘も、この場所では異常なことではないのだ、と翆は思った。人の死などありふれているのだ。それを左右することがどんなに不思議なのか、それは人間だけのバグなのか、翆には分りかねなかった。
ネオンライトが輝く大通りに着くと、翆はタクシーを拾い、野村のいるホテルへ向かった。タクシーの中で、翆はポケットから血のサインの書類を見た。そこには、皆木獅家の財産全てを一文字に寄贈するという馬鹿馬鹿しい内容だった。
金銭が人を狂わせる事は知っている。大金が目の前にあれば、誰でもむしゃぶりつきたくなるだろうし、欲しくても買えない場合に窃盗を試みる人間の心理も理解できる。しかし、田中や伊達を殺してまで、否、仲間と信頼されている人物を裏切ってまで大金が欲しいのかと疑問に思った。そういえば、一文字は自分のことをユダと言った。ユダは銀貨30枚でイエスを売ったが、銀貨30枚の値打ちがこの書類にあるとは到底思えなかった。思いたくもなかったのだ。あれだけ明るく、優しく、翆の事を気にかけてくれた田中や、無愛想だけれども野村の為に尽力した伊達の気持ちが金銭の為に奪われるなんて、翆には信じたく無かったのだ。まだ青い考えと言われれば、それまでかもしれない。しかし、翆は青い考えだとしても、まだ金銭と命の均衡を計れなかったのだ。
ホテルに着き、エレベーターで上昇し、野村の部屋を訪れた。8時過ぎに来たばかりだというのに、疲労と起こった出来事全てが大きすぎて、午前1時過ぎでも時間が経過した感覚が無かった。一回、続けて三回、続けて二回ベルを鳴らす。するとドア越しに待っていたかのように、すぐに野村が出た。
「無事だったのか…!一文字は?」
「…全ての元凶が、一文字さんでした」
「一文字が?」
翆は扉を抜けて部屋に入り、ソファに腰掛けた。疲労感がどっと身体に襲った。銃で撃たれた肩が今更ながらに痛みだした。
野村が向かいのソファに座った事を確認すると、ポケットから書類を取り出した。野村は何も言わずに、ジッポ―で書類を燃やした。
その後、この一連の出来事の影で糸を引いていたのが一文字だと翆は説明した。全てを説明し終えると、部屋には沈黙で溢れた。翆が少しこめかみを押すと、隣の部屋から、黒いスーツを着た男が二人出てきた。野村は二人を確認して言った。
「お嬢様は御休みになられたか?」
「はい」
「ご苦労だった。少し込み入った話がしたいから、別の部屋で待機していてくれるか?キーはこれだ。少し休むといい」
「お気遣いありがとうございます」
そうして遥を護衛していた二人は出て行った。また部屋は沈黙で溢れた。
「…そうか、一文字が、か…」
「野村さんの指示に従い、一文字さん以外は全員、銃とナイフで仕留めました。しかし、一文字さんだけは、私なりの判断で別に殺しました」
「問題無いよ」
そう言って野村は微笑んでみせた。
「むしろ、君が伊達の二の舞にならなくて良かった。一文字の件は私に責任がある。もっと、信頼出来る人間だと思っていたが…。ははは、裏切られてしまったか」
乾いた笑いが部屋に響いた。
「私はこれから、どうしましょう?」
翆は野村を見て言った。
「そうだね、勿論、これからもお嬢様のボディガードとして役立って欲しい。ただ、少し待ってくれ。君も負傷しているから、峰内に診てもらいなさい。お嬢様の件はあと少しで準備が整いつつあるから、その間、頑張ってくれ」
「畏まりました」
野村はポケットから携帯電話を取り出して、電話を始めた。翆は肩の痛みと戦いながら、ぼんやりと窓から見える夜の街を見ていた。
電話が終わると、野村は翆に向かって言った。
「もう少しで峰内が来るから、ここで待っていてくれ。何か欲しい物はあるか?」
「いえ、ありません」
「私は少し、失礼するよ」
野村は席を立ち、ホテルの部屋を出て行った。それを見届けてから、八重に話しかけた。
「…どう?まだ嫌な予感はする?」
『うむ…。まだするぞ、ずるそ、ナニカ嫌な予感がな。ひひっ』
「そう………一文字さんは死んだ?」
『まぁだ殺してはおらぬ。今頃ウジ虫とお遊び中よ』
「まだ死ねないんだ。かわいそうに」
『ひひっ。翆もたまには心無い事を言う』
「本当は、一週間くらいのたうち回ってくれればいいのに」
『まぁ、翆の想像では三日は息があるであろ』
そんなくだらない会話をしていると、一回、続けて三回、続けて二回ベルが鳴った。ドアを開けると、峰内が居た。大きなトランクを持っている。
「失礼しますよ。翆さん。貴方、銃で撃たれたそうですね」
「ええ、そうです」
「ささ、ソファに横になって…。傷口だけ見せてください」
若干小太りした男が峰内だ。眼鏡をかけていて、白髪が混じった髪をしている。まるで小児科の先生のような面持ちだが、野村が信頼を寄せている某大学病院の名誉教授であるからにして、腕は確かだ。過去に二度ほど、翆は峰内に診察して貰った事がある。
峰内がトランクから医療器具を取り出している間に、翆は左肩を出した。どろりと血が溢れた。
峰内は麻酔です、と注射を打つと、鼓動と共に響く痛みは引いて行った。
「局部麻酔ですけれど、傷はもう痛くありませんか?押している感覚はありますか?」
親指が傷口から遠い肩の皮膚を押している感覚があった。
「痛みはありません。感覚はあります」
「良いでしょう」
さて、と言って峰内はビニールの手袋をはめ、傷口を見た。
「弾丸は入っていませんね。掠った程度でしょう。少し縫います」
そうしてうつ伏せになった翆の肩の傷を消毒液で濡らし始めた。翆はぼんやりと階下のネオンサインを見ていた。
数時間後、麻酔の効き目が切れる頃には翆の傷は見事に塞がっていた。まだ痛みがあるかもしれないと言って、痛み止のカプセルを渡された。翆は礼を言うと、野村さんの頼みだから、と峰内は笑った。
峰内が部屋を後にすると、部屋には翆しか残らなかった。寝室には遥が眠っているだろうから、おいそれと部屋を出て行く訳にはいかないので、ぼんやりと夜景を眺めながら八重とくだらないおしゃべりをしていた。
3時過ぎに野村は部屋に帰って来た。手にはコンビニのビニール袋を下げている。
「コンビニの物で悪いが、食べてくれ」
「お気遣いありがとうございます」
受け取ったコンビニ袋の中にはミネラルウォーターと鮭の昆布のおにぎりが入っていた。翆はミネラルウォーターを飲んだ。身体が冷えていく感覚がした。
「食べながらでいいから、聞いてくれるか?」
「ええ、どうぞ」
野村は翆におにぎりを勧めながら言った。
「お嬢様はこれから親戚に引き取られる事になった。勿論、信頼のおける親戚にだ」
「そうですか」
「色々と調査してね、お嬢様にボディガードを付けて屋敷を提供するか、親戚に引き取って頂くか検討したのだが、親戚に引き取られる方が安心かつお嬢様の気持ちも良くなるだろうという結果で纏まった。一週間後に引き取られるように交渉したから、それまでは君にお嬢様のボディガードをお願いしたい」
「畏まりました」
「その後は、また、私達に協力してくれると嬉しい」
「勿論です」
翆は微笑んだ。
そうしておにぎりを食べ終え、翆は少し外の空気を吸いたいと、部屋を出た。まだ傷口に痛みを感じていたが、それを無視して煙草を吸った。甘いバニラの香りが広がる。
その時、キィンと耳鳴りがした。
『翆、ここに居てはならぬ。狙われるぞ』
「え?」
『私の感じた予感は今よ』
その時、空気がぐにゃりと曲がったような気がした。それは殺気にも似た感覚で、翆は立ち尽くした。
「ここ、32階じゃない…――殺気って?」
『銃で狙っている輩がいる。私では殺せない距離よ』
「じゃあどうすればいいってこと?」
『逃げよ。野村もお嬢様も翆にとってはただの仕事よ。ここから早に逃げよ。そうでなくては翆が殺される』
「…じゃあ、私が逃げなければお嬢様と野村さんは助かるってこと?」
『そうだが…。私は翆を失いたくはない』
八重が小さく呟いた。
「…そうだよね」
翆は笑った。そうして、どこかでトリガ―が引かれたような音がした。恐らく幻聴だろう。けれど翆の胸には、しっかりとライフル弾が刻まれた。
『翆…』
「ごめんね、八重」
翆は笑った。
「ねぇ、ひとつだけお願いがあるの。聞いてくれる?」
胸の痛みに耐えながら、翆は呟いた。
「最初に会った時、なんでも出来るって言ったよね?私を…村に返してくれないかな?」
『………』
「ね、お願い。八重」
『…良かろ。翆』
短く八重が答えて、そうしてぐにゃりと視界が歪んだ。翆がぼんやりとした焦点で見渡すと、そこは翆が葬った村の丘だった。隣には桜がいた。
「ありがとう、私の神さま…」
翆は小さく呟いて、そのまま眠った。深い、深い、眠りだった。
動かなくなった翆の左手から、しゅるしゅると靄が出てきた。それは桜を包み、にやにやした猫は桜色になった。
『やれ、行くか』
八重は呟いた。猫はにゃあ、と鳴いた。
その後、桜色の猫を見た人物は誰もいなかった。