尾道の海 四
放課後、真奈美はひとりで家路についた。松山君は別の約束があるらしい。校門を出た辺りで、同じクラスの女子生徒が走り寄ってきた。今朝、お嬢の家来に絡まれた弱気女子だ。
「一緒に帰っても良い?」
「ええ」
「今朝はありがとう」
「別に……。そもそも、私が松山さんのことでお嬢様に嫌われたことが原因だもの。皆に迷惑を掛けているわ」
「今朝のことだけじゃなくて。ずっと真奈美ちゃんがいじめられているのに私たち……」
彼女は途中で言葉を探せなくなったようだが、真奈美はキョトンとしている。
「真奈美ちゃんは何も悪くない。皆それはわかっているの。でも、親の仕事の関係とかで、お嬢様には何も言えないの。ゴメンね」
「私、いじめられているの?」
夕陽を受けた真奈美が愛らしく微笑んだ時、
「え?」
弱気女子の言葉と重なって、
「ちょっと、良いですか?」
と、見知らぬ老婆が声を掛けてきた。道端に机を置いて『占い』と書かれた看板を立てている。占い師らしい老婆が、椅子に座ったままで真奈美に声を掛けたのだ。この通りに占い師がいる風景は二人とも初めて見る。
「何ですか?」
真奈美が老婆の方に振り向く。老婆は彼女の顔をまじまじと見つめてから、
「その指輪は不幸を呼込む指輪だ。今すぐ捨てなさい。それをはめていると不幸なことが起きる」
と、気味の悪いシャガレ声で言った。
(この婆さん胡散臭いぞ。相手にするな)
俺は懸命に叫んだ。だが、やはり聞こえない。
「でも……」
真奈美は少し言い淀んでから、
「好きな人に貰った物なの」
と言って指輪を見つめた。
「ならばその好きな人に災いが及ぶ」
老婆は口元をニヤリと緩めた。
(だから相手になるなって!)
「真奈美ちゃん、気にしなくて良いわ。行きましょう」
女生徒が真奈美の腕を強引に引張った。
「あのお婆さんは祈祷師よ。占い師じゃない」
歩きながら弱気女性徒が囁いた。
「祈祷師?」
「そう。お嬢様の家に代々仕えている祈祷師。大昔から、病気治療のために祈ったり、敵対する相手を倒すために呪いを掛けたりしてきたそうよ。関わらない方が良いわ」
「そうなの」
真奈美は少々不安そうな表情で指輪を見つめ直した。
「それにしても、普通、ここまでやるかしら?」
女生徒が呆れ顔で零す。
(ほんと同感)
俺も同意した。二人が祈祷師から遠ざかった時、物陰に隠れていたお嬢が老婆に近づいた。
「どう?あの指輪にしっかり呪いを込めてくれた?」
「いや。あの娘はもう十分に不幸を背負っておる。私が呪う不幸よりも桁違いの不幸じゃ」
老婆の言葉にお嬢が薄く笑った。
「一応、守護神は憑いておるが、不幸を防ぐことは出来ない」
老婆は道具を片付け始めた。
「本当ね?もし真奈美に不幸が起こらなかったら、あなたには若宮家の祈祷師を辞めてもらうからね!」
と、高慢な態度でお嬢が告げた。老婆はチラリとお嬢の瞳を睨んでほくそ笑んでから、
「間違いない。老婆の言葉を信じてください」
と、お嬢を見下したような表情で言った。
「じゃあ、どんな不幸が起きるのよ?」
見下されたお嬢は少し不機嫌だ。
「さあ、老婆にもわかりませんわ」
「わからない?」
「ただ、あの娘は生まれながらに不幸な運命を背負っている。私が下手な呪いなど掛ける必要もない」
「嘘じゃないでしょうね?」
「まさか。お嬢様に背いたりしませんよ」
だが、ふてぶてしい老婆の態度にお嬢は猜疑の目を向けている。
「それよりも、お嬢様も気を付けてくださいよ」
老婆が黄色い歯を見せて笑う。
「何よ。私に何か憑いているとでも言うの?だったら、さっさと取り除きなさい!」
急にお嬢の顔色が青ざめてきた。
「何かが憑りついている訳ではありません。お嬢様を取囲む環境の変化が激しくなっています」
「だから何よ。世の中は激しく動いてるわ」
「まあ気を付けてください。無能な老婆にはこれくらいのことしか言えません」
そう告げて意味深な笑いを浮かべた後、老婆は夕陽の中に消えていった。
「死に損ないの役立たずが」
お嬢は老婆の背中に向かって悪態を吐いてから、
「あんたたち、いつまで隠れてるんだ!」
と、キレ気味に後ろを振り向いた。通りの角に隠れていた家来たちがぞろぞろと出てくる。
「すみません。あのお婆さんには絶対近づくなって、昔から言われていたもので」
「睨まれると魂を抜かれてしまうって聞いたもので」
家来たちが口々に弁解をした。
「馬鹿ね、そんな力があの婆さんにある訳ないでしょう」
「でもお嬢様。少しやり過ぎじゃないですか?指輪に呪いを掛けるなんて」
「あんたたち、私に刃向う訳?」
「まさか」
全員が身を引いて否定した。
「あの女を絶対に地獄に堕としてやる!」
怒気を含んだ声で本音を漏らしたお嬢は、夕陽に向かってケラケラと笑い声を立てた。家来たちは、顔を見合わせてうんざりとした表情を交わしたが、お嬢が振り向くや顔を引きつらせながらも不器用に笑った。
「もしも私に逆らったら、あんたたちもあの婆さんに呪わせてやるからね!」
お嬢の冷たい視線が家来たちを震え上がらせた。
真奈美と深町君が、いつものようにベランダで話をしている。深町君は今日も彼女のジュース缶を開けていた。
「お嬢様はよほどお前のことが嫌いなんだな」
彼が含み笑いを浮かべている。
「そうかしら」
真奈美は爽やかな笑顔で彼を見つめた。
「祈祷師まで使って脅かしたんだろ?」
「不幸を呼ぶ指輪だからすぐに捨てろだって」
「ひどいな。指輪に不幸の祈祷でもされたのか?」
「さあね。でも、お母さんは何十年も祈り続けたけど、結局お父さんは帰ってこなかった。祈りなんてそんなものよ」
「幽霊なんて絶対に信じないタイプだろ」
深町君はニヤリと笑った。
「でも、幽霊は怖いわよ。寝る前にそんなこと考えたら怖くて眠れないわ」
真奈美には不似合いな言葉が深町君に届いた瞬間、軽く噴き出して、
「ウケル」
と言って、更に大笑いした。
「どういう意味よ」
真奈美は彼の頬をつねる。
「強く見えるってことだよ」
彼女は更にひと捻りしてから、
「ねえねえ、男は強い女をどう思う?嫌い?怖い?」
と、瞳を覗き込む。
(恐い)思わず俺が答えてしまう。
「松山さんに聞いてみれば?」
深町君は星空を見上げてうそぶいた。
「意外と意地悪ね」
彼女も星を見上げる。
「強さ以上に可愛さをアピールすれば大丈夫だよ」
「ほんと?私って可愛い?」
真奈美は弾んだ声で横顔に尋ねる。
「松山さんに聞けよ」
彼女にのろけられているようで、馬鹿々々しそうに小さく溜息を吐いた。
「今度の休みに因島に行くの」
「へえ。何をしに?」
「特に何もしない。船に乗って、知らない街を歩いて。デートなんてそんなものでしょう?経験豊富な深町君」
彼をからかった真奈美はすらりと立上り、ミニスカートから伸びた美脚に深町君の視線が釘付けになっている間に、物干竿からハンカチを取り外した。
日曜の朝、真奈美は連絡船乗場でぼんやりと海を見つめて松山君を待っていた。待合室には大人がたくさんいて、そこで待ち合わせるのは何となく恥ずかしい。
波止場の堤に立って、朝陽にきらきらと輝く青い海を見つめている。今日は終日晴天らしい。秋の香りが濃くなってきて、去りゆく夏の影が懐かしくさえある。
真奈美は指にはめた赤い指輪を見つめてひとり微笑んだ。もうすぐ松山さんに会えると思うと、胸がキュンと絞られるような軽い緊張感を覚える。しかし、約束の時間を10分程過ぎている。
「遅れるなんてキャラに合わない。寝坊でもしたのかな」
腕時計を確認しながら、彼女は少し波止場を歩いてみた。単調な波の動きなど全く気に止まらない。時計を確認する度に時間の経過の虚しさを実感する。更に15分が経過したが彼は現れない。
「待ち合わせ場所は間違いないし」
待合室も覗いてみるが、彼の姿はない。
「またお嬢様の嫌がらせにでも遭っているのかな」
そんなことを考えながら待合室を離れた真奈美の耳に、救急車のけたたましいサイレン音が届いてきた。救急車は、彼女たちの町の方向から国道を西に向かって疾走してゆく。
真奈美は嘔吐しそうなほどの激しい胸騒ぎと、不安と悪寒とを同時に感じた。瀬戸内の波は海面に貼りついたかのように穏やかだが、彼女の心には激しい不安の波が怒濤のように押し寄せてきた。
30分経過。真奈美は堪らずに松山君の実家に電話を入れてみた。誰も応答しない。何度掛け直してみても結果は同じだ。意を決した真奈美は、彼の家を目指して歩き始める。
国道沿いに歩き、線路を渡って山手に向かう。急な坂を上る途中で、警察車両を中心とした人だかりに出会った。大型トラックが店舗に突き刺さった生々しい事故現場。
「小さな子供を助けた高校生が大怪我をしたらしいわ」
おばさんたちの噂話が耳に入った真奈美は、心臓を握られるような衝撃を覚えて立ち尽した。彼女の心は衝撃に茫然としているが、意識は情報を求めて耳を澄ませている。誰彼構わず、声のする方に神経を集中して情報を集めた。だが、少しずつ事故の全容が想像出来るようになってくると、急に恐くなってその場から立去った。
大怪我でも良い、とにかく生きていて欲しい。真奈美は一心にそう願いながら、全身の血を抜かれたかのような不安定な足取りで、ふらふらと松山君の家を目指して一歩ずつ歩を進めていった。
「真奈美!」
深町君の叫び声。松山君とのいつもの別れ道に真奈美が立った時、石段の上から深町君が駈け下りて来た。彼の姿を捉えた真奈美は思わず叫ぶ。
「深町君!松山さんが、松山さんが来ないんだけど……」
心細い口調でそこまで口走ると涙が零れ始めて、それ以上に言葉が出てこない。深町君の明らかに強張った表情を目の当りにすると、自分の想像が間違いであると言うわずかな期待までもが、瞬く間に消え去ってゆく。
転ぶように階段を駆け下りてきた深町君は、真奈美の両肩をしっかりとつかんで、じっと彼女の瞳を見つめた。真奈美もじっと彼の瞳を見つめる。だが深町君は言葉を発しない。しばらく見つめ合った後、大きく息を吸った彼が言葉を吐こうとした時、
「いや!いや!言わないで!いやー!」
真奈美は大声で叫びながらその場から走り去ろうとした。まるで目の前の現実から逃亡するかのように、走り去ろうとしている。そんな真奈美を深町君はしっかりと抱き締めた。彼女は益々暴れて、まるで、今降りかかっている不幸な運命から解かれようとするかのようにもがき苦しんだ。
しかし深町君は絶対に腕を解かない。もし彼女を離してしまうと、このまま真奈美までもが死んでしまうような気がしてならない。
深町君は、更に力を込めて必死に彼女を抱きしめた。掛ける言葉もない。慰める言葉もない。否、深町君自身も、松山君の突然の死に動揺して今にも泣き出しそうだ。
運命から逃れることを断念した真奈美は、深町君の胸に顔を押し当てて号泣し続けた。心の破裂した痛みを大声で彼にぶつけた。どうにも動きようの無い目の前の壁を虚しく叩き続けた。深町君は震える彼女の身体を強く抱き締めて、彼女の動揺が収まるのをじっと待ち続けるより他に術がなかった。
「あんたの仕業か?」
俺は、事故現場がら去ってゆく黒服男の背中に声を掛けた。いつか、真奈美と松山君の後を付けていた黒服の男だ。
「そうだ。これが俺の仕事だからな」
男が振向いた。
「ひどいことをする奴だ」
俺は怒りが込み上げてきた。
「勘違いするな。俺は神様の使徒だ。彼の命を終わらせたのは神様の指示だ」
「神様がそんなひどい指示をする訳がない」
黒服男はふっと笑いを零すと、
「人は皆いつか死ぬ。あんたも例外ではない」
と冷たく言った。
「彼はまだ十八だぞ。死ぬには若過ぎる」
俺は怒りを抑えながら男に向かって吐き捨てる。
「一歳で死ぬ者もいるさ」
黒服男の言うことはもっともだが、どうしても受入れることが出来ない。
「ラオウさんとやら。言い歳をして何を言っている。本当はわかっているんだろう?」
男は俺に冷たい視線を投げ掛けてきた。
「人は、どれだけ長く生きたかに価値があるのではない。どう生きたかが人生の価値だ。お前のように、良い歳をして未だに女のケツを追い廻しているような人間が俺に意見するな」
俺は冷水を浴びせ掛けられたようなショックを覚えた。
「俺は数え切れないほどの人生を見てきた。そして終わらせてきた」
黒服男の言葉に俺は何も反論できない。この男の言うとおりだ。
「だが、可愛いミニスカ姉ちゃんのためにひとつだけ教えてやろう」
俺の瞳を見つめて少しだけ明るい表情を浮かべる。
「何だ?」
「松山君は、自分が抱いていた理想の死に方をした。彼はずっと前から自分の死に方を考えていた。もし死ぬ時が来たら、彼はたったひとりでも良いから、人の命を救うために死にたいと本気で考えていた。世の中に、自分の望みどおりの死に方を出来る人間なんてほんのひと握りしかいない。皆、ギリギリの所で我欲に振り回されて惨めな死に方をする。だから彼はとても立派で幸福な人間のひとりだ」
淡々と語った黒服は更に言葉を続ける。
「いい歳をして、妄想列車にまで乗って女の過去を覗いているような人間とは格が違う。彼は幸せ者だし立派な人生を歩んできた。だから笑顔で死んだ。今は天国で楽しく暮らしている。早速、野球部に勧誘されていた。真奈美とか言うミニスカ姉ちゃんにそう伝えてやれ」
黒服男はそう言い捨てて、すっと消えてしまった。
松山君が亡くなった夜、俺は真奈美のうちのベランダで、彼女を陰から見守っていた。レースのカーテン越しに赤いセータの姿が伺える。彼女はベッドにうつ伏せたまま昼間からずっと泣き尽していた。家の者たちもさすがに気をつかって、声も掛けられないようだ。夜も随分更けた頃、ようやくベッドから起き上がった真奈美が、まるで夢遊病者のような足取りでベランダに出てきた。
そして、夜空をしばらく見つめた後、
「ごめんなさい、松山さん。私が悪いの。私が呪われた指輪なんかをはめていたから。お婆さんの言うことを聞かなかったから」
星空に向かって語ると、真奈美はゆっくりと指輪を外した。そしてその指輪をしばらく見つめながら、秋祭りの楽しい思い出を回想しているようだ。だが、大きく息を吸った彼女は、
「こんな物、こんな物をはめていたから!」
と、激しく叫んでから、表の通りに向かって思い切り指輪を投げつけた。
俺は溜息を吐いてから路に下りて、指輪の落ちる音がした辺りを探し、彼女が捨てた指輪を拾い上げた。
と、その時、ふとあることを思い出した。大人になった真奈美が指輪をはめていないのは、この出来事が原因だったのではないだろうか?俺の脳裏には、電車の吊輪につかまった、何の飾りもない彼女の白くて小さな指が輝いていた。
俺は深町君の代わりに真奈美の横に腰を下ろした。彼女の涙は枯れ果てている。俺は言葉が届かないことを承知で、黒服男の情報を届けようと試みた。
「松山君は幸せ者だ。自分の理想の死に方が出来た。彼は他人の役に立てる人生を歩みたいと考えていたんだ」
「知っています」
突然彼女が返事をして俺を驚かせる。
(聞こえているのか?)
「私にも良くそんな話をしてくれました」
驚きながらも俺は言葉を続ける。
「そうか。もし彼が長生きすれば、もっと多くの人の役に立ったと思う。しかし、人間には寿命がある。その限られた時間の中でいかに充実した時間を過ごすかがその人生の価値だ。長さは問題じゃない」
真奈美は俯いて静かに聞いている。
「本当に満足して死んだの?」
ふっと彼女が瞳をあげて問うてきた。
「ああ。笑顔で死んでいった。今頃は天国で野球でもしているよ。だから、真奈美ちゃんが何時までも悲しんでいたら、彼も天国の生活を楽しめない。すぐにとは言わない。ゆっくりで良いから、松山君が天国で暮らしている現実を受入れてくれ」
俺は真奈美の横顔を見つめて必死に励ました。
「どうしてあなたにそんなことがわかるの?て言うか、あなた、誰?」
「俺は、君の未来の友人だ。そして神様の使徒と知り合いでもある」
「本当に?本当に神様の使徒と知り合いなの?」
「ああ、仲は悪いがな」
「じゃあ、本当に松山さんは幸福に暮らしているの?」
急に彼女の瞳が輝き始める。
「野球部に勧誘されているらしい」
「そう。良かった」
真奈美は星空を見上げた。もう枯れたはずの彼女の涙が目尻で小さく輝いていた。
松山君の告別式も終わり、人々が普段の生活に戻り始めた頃、真奈美もいつものとおりに学校へ通い始めた。真奈美の周囲には自然と人が集まって来る。
彼女は告別式で友人代表としてお別れの言葉を述べた。しかし、ここでもお嬢が出しゃばってきて、お嬢が最初にお別れを言うと言い張って譲らなかった。女優顔負けの演技で涙を零しながら、薄っぺらな恋心を言葉にした在り来たりの挨拶は、事実を知る生徒たちの心を白けさせた。
お嬢の後に立った真奈美は、涙ひとつ零さずに毅然と語った。松山君が理想としていた生き方、死に方。そしてそのとおりに実行した今は天国で楽しく野球をしていると、俺の語った情報をそのまま皆に伝えてくれた。
松山君の友人の中で最も悲しいはずの真奈美が凛として語る姿に生徒たちは涙を流し、親にも語らなかった息子の隠れた本望を知らされた両親は、安堵と感謝の気持ちを真奈美に表わしてくれた。真奈美は女生徒たちの憧れの的となり、逆に、お嬢様からは潮が引くように人が遠退いていった。
「おはよう」
女生徒たちが次々に真奈美の机の周囲に集まって来る。特別な話題がある訳でもなく、好き勝手な話題を持出しておしゃべりをしている。深町君は、女子たちのそんな平和な様子を遠くで見つめて微笑んでいた。
そこへお嬢が入って来た。たったひとりで俯いたまま後ろの入口から目立たぬように入って来た。一瞬、教室に冷たい空気が張りつめる。誰も挨拶をしない。お嬢は真奈美の後ろを無言で通り過ぎて自分の席に向かう。気のせいかひと回り小さくなったようにも感じる。
「おはよう」
空気を読めない真奈美が、天然ぶりを発揮してお嬢に明るく声を掛ける。だが、お嬢はチラリと彼女を睨んだだけで無言で席に着いた。そんな様子を見た元の家来たちがほくそ笑んでいる。元家来たちは、お嬢様が松山君に呪いを掛けたとの噂を広めているようだ。
家来になってお嬢様の我がままに振り回されていた分、彼女たちの恨みは深い。彼女たちは、お嬢様が親の権威を傘に着て横暴な振舞いをしてきたこと全てを彼女の父親に明かした。お嬢の行状を耳にした父親は、校長を通じて生徒たちに謝罪した。
お嬢にはもう居場所がない。誰も近寄らず、声も掛けない。天然の真奈美だけが普通に接していた。
月日はあっと言う間に流れて松山君の四十九日も終わった。その後、お嬢は学校を去り、皆の記憶からも消え去ってしまった。
ある日の夕刻、真奈美は体育館裏手にある、花壇の中のベンチに座っていた。松山君に告白したベンチだ。瀬戸内に突き出た島々の背中に、お日様が今まさに隠れようとしている。
俺は彼女の横に座り、二人並んで夕陽を見つめた。わずかな期間に起きた色々な出来事が思い浮んでくる。俺は胸が一杯になった。何となく、高校時代の真奈美とはもう別れた方が良いように感じ始めている。
「そろそろお別れだ」
俺は高校生の真奈美に別れを告げた。だが、彼女は夕陽を見つめたまま微動だにしない。彼女の瞳には夕陽が輝いている。
「君は強い女だ。そして素敵だ。これからも今のままの君でいて欲しい」
俺は勝手に別れ言葉を口にした。当然、真奈美には言葉は届かない。俺は小さな吐息を吐いた後、
「さようなら」
と言って立上った。
夕陽に染まる街並みを見つめていた真奈美は、なぜか大きく深呼吸をして気持ち良さそうな表情を浮かべる。そして、ふっと俺の方を見上げてからニコリと微笑んでくれた。尾道の町の風景がとても温かく感じられた。
「車掌さん。一度妄想列車に戻ります」
「もう、真奈美さんの高校時代とお別れして良いのですね?」
姿は見えないが車掌の声がする。
「はい、良いです」
「わかりました。ひとつだけ約束してください。列車に戻っても、あなたが見た話を真奈美さんにしてはいけません。大変な事が起きる可能性があります」
「大変なこと?」
「はい、必ず起きる訳ではありませんが、偶然が重なると時空を歪めてしまうことがあります」
「意味がわからん」
「簡単に言えば歴史が変わってしまうのです」
「よくある映画のストーリーみたいですね」
俺は冗談ぽく言ったが、
「確率は低いですが、実際に起こり得ますので」
と、車掌は真面目な口調で強く言った。
「了解」
俺が車掌にそう告げると、心地良い振動を続ける列車の中で静かに目覚めた。列車はどこを走っているのかわからない。車窓には山野の長閑な風景が流れている。秋晴れの優しい陽射しが車両に差し込んで、切なさの残る俺の心を癒してくれた。そして、目の前には大人になった真奈美が静かな笑みを湛えて俺を見つめていた。
「よく眠っていましたね、ラオウさん」
俺は、今しがた別れを告げてきた高校生の真奈美と、目の前にいる大人の真奈美が同一人物とは思えない不思議な気分で彼女の瞳を見つめる。
「お弁当食べます?美味しいですよ。ああ、まずはビールですよね」
彼女は俺のためにビールを開けてくれた。
「自分で開けられるようになったの?」
いつも深町君に缶を開けさせていたことを思い出して、つい口に出してしまった。
「え?」
眉を上げた彼女の不思議そうな表情が可愛い。
「オホン!」
車掌が慌てて会話を封じる。
「あ、すみません」
俺は口をつぐんだが、真奈美が急に身体を乗り出すと興味津々の瞳で俺を見つめた。
「高校生の私はどうでした?可愛かったでしょ?」
嬉しそうに話し掛ける。
「真奈美様、ラオウ様が見てこられたあなたの過去の話をしてはいけません。妄想列車の運行に支障が出ます」
「少しくらい良いじゃない」
真奈美が車掌に愛想笑いを向ける。
「困ります」
車掌はムッとした表情で睨んでいる。
「わかりました。お硬いのね」
真奈美はしばらく車窓を流れる景色を大人しく眺めていたが、
「ねえ、尾道は良い街並みだったでしょう?学校の花壇から海を見た?」
と、ヒソヒソ声で話し掛けてきた。
「夕焼けが綺麗だったし、君の制服姿も可愛かった」
思わず囁き声で彼女に答えてしまう。
「お二人とも、いい加減にしてください!」
車掌がやや声を荒げた時、突然、車窓から見える景色が不気味な光景に変化し始める。辺りは真夜中のように暗くなり、見る見る積乱雲が立ち込めてゆく。あっと言う間に稲光が走り、暗い闇を稲妻線で割いたかと思うと、滝のような大粒の雨が車両と車窓に打ちつけ、不気味な轟音が車内に響き始めた。
「まずいですよ、まずい、まずい!」
車掌が慌てふためいて右往左往している。
「車掌さん、どうしたの?」
真奈美が能天気な天然ぶりを発揮する。
(異常事態が起きていることくらい感じないのか?)
「もしかして、時空に問題が?」
俺が車掌に尋ねた。
「まだ、わかりません」
車掌の声はすっかり上ずっている。と、ガガガガガ!地震のような轟音と振動が列車を襲う。
「キャー!」
真奈美が女子らしい悲鳴をあげたが表情はにこやかだ。まるでこのパニックを楽しんでいるかのようだ。
「脱線してるんですか?」
俺は大声で叫ぶ。
「私にもわかりません!こんなことは初めてです!」
車掌はシートの足元に頭を抱えてうずくまる。
「お二人も姿勢を低くしてください!」
悲鳴に近い叫び声を上げた。
「大丈夫よ。キャキャー」
真奈美はジェットコースタにでも乗っているかのように楽しんでいる。
(度胸があるのか?単なるバカか?)
俺もこの振動にはかなりの危険を感じているが、彼女の手前、わざと落ち着いて見せている。
「怖くないの?」
俺は自分を落ち着かせるようにして真奈美に言葉を掛ける。
「怖いわ!怖い!」
だが、表情は明らかに楽しそうだ。
(なんて女や)
と、急に振動が止み、豪雨も止んだ。今度は不気味な静けさが車両を覆う。線路を走る音すらしない。突然、車両の電灯が全て消えてしまった。
「キャー真暗。こわーい」
(絶対楽しんでるやろ)
妄想列車は氷の上でも滑るような滑らかさで、闇の中を突き進んで行った。




