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妄想列車  作者: 夢追人
4/23

尾道の海 三

 深町君が真奈美の隣に住んでいることを知った俺は、再び真奈美のうちに戻った。ベランダの窓が開いていて、真奈美が机の前で勉強している。噂どおり派手なショッキングピンクのタイトミニを穿いている。

(あれもお下がりか。ジーンズくらい買ってやれよ)

 ベランダの隅に座り込んでいる俺が真奈美の叔母にムカついていると、深町家のベランダの窓が開いて、彼がジャージ姿でベランダに出た。

「いるか?」

 二軒のベランダは二メートルほど離れている。真奈美が窓から顔を出して、

「どうぞ」

 と、当たり前のように応えた。深町君は、手摺をまたがってから真奈美家のベランダに飛び移る。そして、ベランダに置いてあるBBQ用の長椅子に腰掛けた。

 真奈美も、鏡の前で少し髪を整えてからベランダに出て来た。彼女が腰かける瞬間、膝の間が少し開いて水色のパンティがチラリと見えた。

(オッ。今日はラッキーな日だ)

「上手くいったらしいね」

 深町君がニコリと笑って、持ってきた缶ジュースを真奈美に手渡す。

「ありがとう」

「どっちのありがとう?」

 そう言えば、深町君が待合わせの手引きをしたのだった。

「両方まとめて」

「感謝しろよ」

「貸しはチャラにしてあげる」

 真奈美の無垢な笑顔に彼も微笑んでいる。俺も彼女の恋が順調に進み始めたことが嬉しくてつい頬を緩めていたが、ふと、今真奈美の真正面に座り込んでいることに気づいた。タイトなミニスカートなので少しでも彼女が膝を開くと中が覗けてしまう位置だ。決して意図的ではなく、真奈美が後から出て来て正面に座ったのだ。

 いつまでもこのポジションにいることに気が引けて、深町君の正面に位置するように右にずれた。

(やはり俺は紳士だ)

 俺が自己満足していると、真奈美が空を見上げて何かを思い出したようだ。

「そう言えば……」

 と、彼女が少し深町君の方に向き直った。その際に膝が開いて、俺の視線がうす暗い水色に釘付けになってしまった。わざわざ横にずれたのに、追い掛けるようにして内腿の間を見せてくれたのだ。

(何てラッキーな日だ)

 俺が神に感謝した瞬間、真奈美が急に強く膝を閉じて両手を腿の間に置いた。

「どうした?」

 深町君が少し驚く。

「誰かに見られているような気がして」

(いや、誤解だ!俺はこんな事態を避けようとしたんだ!)

「覗き魔かなー。キモ!」

(だから、ハプニングだって。俺から見ると君が見せたんだけど……)

「誰かって、今更……。皆に見られているよ。ここは住宅街だぞ」

 周囲のベランダでは、主婦が洗濯物を取り込んだり、お爺さんが植木の世話をしたり、勉強中の学生が時々こちらに視線を向けたりしている。

「そうじゃなくて、とてもエッチな視線を感じたの」

(エッチなのは認めます)

 神に感謝した自分を素直な男だと自負している。

「今更驚かなくても、お前は男子たちにエッチな目で見られているよ」

「あら、私なんかを?」

「野球部の奴らはお前のパンチラが見えたって興奮してたぞ」

「へえ、でも深町君だって何度も見てるでしょ?興奮するの?」

「バカ言え」

 深町君は少し俯いた。

「部屋にあったグラビアアイドルの写真集と私のパンチラ、どっちをたくさん使ってるの?」

 真奈美は悪戯な笑みを浮かべて、少し紅潮した彼をケラケラと笑った。

(オイオイ、深町君にわざとパンチラしてるのか?)

「元気な男子なんだから、恥ずかしがらなくて良いのよ」

 真奈美がお姉さん口調で深町君をいじめて楽しんでいる。彼は何も言わずに彼女の楽しみにつき合っているようだ。そこへ流れて来た夕暮れの風が二人を、いや、俺を加えて三人を清涼な気分に浸してくれる。ふと気が付くと、夕陽が随分傾いて周囲は薄い宵闇に包まれつつある。

「これからが大変だな」

 深町君が少し心配そうな表情になって話題を変えた。

「どうして?楽しい日々が始まるのよ」

「お前は強いな。うちの部員に爪の垢でも飲ましてやりたいよ」

「垢なんてないわよ、失礼な」

 深町君はふっと笑いを零してから、手に持っていたジュース缶のプルトップを開けた。その瞬間、真奈美が、

「はい」

 と、自分の缶を彼に差し出す。彼は、自分が開けた缶を彼女に手渡した。

「ありがとう」

 深町君はもうひと缶開ける。

「最初から開けて渡してくれたら良いのに。毎回進歩が無いわね」 

 真奈美は真面目顔で我がままを言っている。

「お前こそ、ジュース缶ぐらい開けられるようになれよ」

「力仕事は男の仕事よ」

 彼はもう一度苦笑してから、

「もう、ハンカチはしまったのか?」

 と、物干し竿を見上げた。

「見てのとおり」

 真奈美が物干し竿を指差しながらジュース缶に口をつける。

「前から聞こうと思ってたんだけど、どうして毎日ハンカチを干してるんだ?」

「干しているわけじゃない」

「映画の『幸せの黄色いハンカチ』みたいだな」

「白いハンカチよ。だいぶ黄ばんでしまったけど」

 真奈美は可愛い笑顔を浮かべている。

(深町君は知ってるんや『幸せの黄色いハンカチ』若いのに……)

「じゃあ、何かの御まじないか?」

 深町君が冗談ぽく笑った。

「御まじないかあ。近いかもね」

 真奈美は微笑んで、一番星でも探すかのように空を見上げた。そしてそのままの姿勢で、

「船旅に出たお父さんが早く帰って来るように、子供の頃からこうしているの」

 と小声で語った。

(今度は『コクリコ坂』か?)

「お父さんは船乗り?」

「子供の頃はそう聞いたけど、本当は違うみたい」

 真奈美は空を見上げたままで言葉を続けている。

「本当は、私が小学校に上がる前に、父が愛人の所へ行ってしまったらしいの」

 彼女は空から視線を戻して、ニコリと深町君に笑顔を送った。

「ひどいお父さんだな」

「男なんてそんなものでしょう?」

 あっけらかんと話す真奈美に驚いて、深町君はあ然としている。

「私がまだ生まれる前にね、父と母が二人で刺繍入りのハンカチを作ったらしいの。ハートの刺繍が入った白いハンカチを二枚。父が出ていった時にもそのハンカチを持って出たらしく、母は毎日、自分のハンカチを表に干して何かを祈っていたの」

「寂しい状況だね」

 深町君は同情的な眼差しで物干し竿を見上げた。

「私には、父は船旅に出ているから、そのうち帰って来ると言っていたけど、私が中学一年生の時、母は亡くなる前に本当のことを話してくれた」

「お父さんは出て行ったと?」

 真奈美は静かに頷いた。

「母は、いつか父が戻ってくることを願ってハンカチを干していたらしいけど、私は、私の王子様が現れることを祈っていたのよ」

「じゃあ、遂にその願いが叶った訳だ」

「母のおかげよ」

 星が微かに輝き始めた秋の夕空を、まるで母を見つめるような瞳で彼女は見上げた。

「松山さんは王子様なんて柄じゃないけどね」

 深町君が、そう言ってからジュースを飲み干した。

「優しそうよ」

「正義感の強い人だ」

「じゃあ、私を置いて逃げたりしないわね」

彼女の前髪がそよ風に揺れた。

「で、本当に遊園地へ行くのか?初デートは」

「秋祭りへ行くことにした」

真奈美の弾んだ声が一番星に届きそうだ。

「まあ妥当だな」

「偉そうに。深町君はそんなに経験豊富なの?」

笑顔を浮かべた真奈美がすっと立上った。

「当り前だろう」

 深町君も立上ってから空缶を彼女に手渡して、

「負けるなよ」

 と言ってから、ベランダを渡っていった。

「ありがと」

 真奈美は小声で彼の背中に言葉を掛けた。


 翌朝、真奈美は元気良く登校していった。いつものようにひとりで歩いている。  

(女友だちもいないのかな)

 真奈美がいつものように教室の後方から入る。そして机に鞄を置いて前方を見た瞬間、思わず目を見張って固まった。彼女は身動きも出来ずにしばらくの間立ち尽くした。前方の黒板には派手な落書きがしてある。

『真奈美はドロボー猫』『パンチラで他人の男を誘惑する女』

 等々、ひどい中傷の数々が黒板いっぱいに書かれている。いつになく早く登校して、既に席に着いているお嬢とその家来たちがヘラヘラと笑っている。他の生徒たちは、知らぬ風に本を読んだり、不自然なおしゃべりをして関わらないようにしている。気を取り直した真奈美は、スタスタと前に歩き出て落書きを消し始めた。

「日番でもない人が、黒板消しなんてしなくて良いわよ」

 お嬢が大声で叫んだが、真奈美は何も言わずに黙々と消し続ける。

「聞こえないのかよ、消さなくて良いと言ってんだよ!」

 そう喚きながら二人の家来が真奈美に近づいて来た。それでも尚、彼女たちを無視して消し続ける真奈美。家来Aが真奈美の背後に近づき、スカートの裾を持ってヒラリと捲り上げた。

(今日はピンク!)

「キャッ」

 思わず声を上げて慌てて裾を押さえる真奈美。

(カワユイ)

 だが、真奈美と正反対に醜いお嬢とその家来たちは、

「フフフ」

 と、不敵な笑いを漏らして喜んでいる。嬉しいはずの男子生徒まで辛そうな表情を浮かべて目を逸らせている。だが、真奈美はめげずに、片手で裾を押さえたままで落書き消しを再開した。その瞬間、お嬢の笑いが消えて不機嫌な表情に急変するや、お嬢は家来Aに目で合図を送った。家来Aは軽く頷いてから真奈美に近寄り、裾を押さえている真奈美の手を振り払って再度スカート捲りをしようとした。

 だが、真奈美は手を払われた瞬間、黒板消しを捨ててスカートを持とうとしている家来の手首を握り、彼女を後ろ手に捻り上げた。そしてそのまま教壇の上に上半身をうつ伏せに押し倒した。

「痛い!痛い!」

 真奈美は、そのまま家来Aのスカートを持ち上げて、ムッチリとした太腿をギリギリまで露にした。

「やめて、お願い!」

「自分がされて嫌なことを他人にしちゃいけないって、小学校で習わなかった?」

「わかった。もうしないから許して!」

 真奈美は家来Aの手を解いてから、落ちた黒板消しを拾おうとした。と、家来Bが、

「テメエ、舐めやがって!」

 時代劇並みのありふれたセリフを吐いて勢いよく真奈美に近づき、彼女の胸元をつかもうとした。だが、その手を握られて手首を曲げられた家来Bは、宙で一回転してスカートが捲り上がったまま床に尻もちを着いた。

「イッタ!イタイタイ!」

 家来Bは、尾てい骨を強かに打ち付けたのか、床の上でのたうち回っている。真奈美は黒板消しを拾って丁寧に落書きを消していった。家来Bはとうとう泣き出して、家来Aに抱かれながら保健室へ運ばれていった。

(あ、合気道か?)

 教室中の生徒たちが目を丸くして一部始終を見つめていた。さすがのお嬢もポカリと口を開けたまま、家来Bが運ばれてゆく姿を見送っていた。


 その週の土日に地域の秋祭りが開催された。真奈美が、小学生にスカートを捲られた石段の上にある神社が祭の中心だ。境内にはたくさんの露店が並び、宵山の土曜日から地域の人々が集まって賑わう。 

 日曜には子供神輿が出るらしい。今夜は宵山で、青年団や地域のボランティアが中心となって様々な催し物を行っている。

 そんな賑わいの中を、真奈美と松山君が手をつないで石段を上ってゆく。松山君はジーンズ姿で、真奈美はいつものとおりフリルのミニスカートを穿いている。石段を上る彼女のパンチラを他の男に見られはしないかと、俺は気になって仕方がない。俺は身体で隠してみたが、きっと役には立っていないだろう。

 陽は沈んだばかりだが、神社の周囲は次第に宵山の雰囲気が盛り上がりつつある。人の数も増えて来て、艶やかな浴衣姿の女性も多く見受けられる。誰も皆楽しそうな笑顔を浮かべている。

 幸福そうな真奈美の後姿を見つめて、俺は柔らかな心持に包まれていた。真奈美の幸福が俺の幸福でもあるかのような気分だ。そんな、娘を見守るような気持ちになっていた俺に、ふと、不吉な悪寒が走って思わず後ろを振り返った。

 不審な男がいる!まだ秋だと言うのに黒いコートに身を包んで真奈美たちの後をつけている。サングラスにマスク、グレーのハットを深く被って如何にも怪しい。身を隠している積りだろうが、実は周囲で一番目立っている。

「誰だ?」

 男に声を掛けてみた。

「俺が見えるのか?」

「十分過ぎるほど見えている。お嬢に頼まれたのか?」

「何のことだ?」

「真奈美ちゃんを尾行しているんだろ?」

 男はまじまじと俺を見つめてから、

「真奈美?あのミニスカの可愛い子か?」

 と俺に確認する。

「白々しい野郎だ」

「興味はあるが用事はない。お前こそ何者だ?」

 今度は男が俺に問い掛けて来る。俺はこの男と会話が出来ていることに疑問を感じながらも、

「妄想列車の乗客だ。真奈美ちゃんの過去を旅している」

 と答えた。

「じゃあ、黙って見ていろ。俺はこの世界の者ではない」

 黒コートの男は、言葉を残したまま霧のように消えてしまった。

「車掌さーん」

 この不審な男のことを車掌に確認してみた。

「奴には関わらない方が良いですよ。下手に関わったら、ラオウさんの身の保障も出来かねます」

 車掌は小声で囁いてから、早々に立ち去ってしまった。

「だから何者だ?」

 俺はひとり言を零してから、再び真奈美たちの後を追った。


 祭りの夜は、躍動感と高揚感に包まれた独特の雰囲気が漂っている。松山君はバイト代の全てをつぎ込む積りなのか、真奈美に色んな物を勧めている。だが、彼女は綿菓子を買って貰っただけで、他のものは一切拒否していた。それでも、淡い赤色の綿菓子を嬉しそうに舐める真奈美の笑顔に、松山君は幸福そうだ。

「美味しい」

 俯いたままで小さく呟く彼女の仕草が堪らなく可愛い。俺と松山君は、惚れ惚れとして見つめていた。

「真奈美はケンカが強いらしいな」

 松山君が彼女をからう。

「もう噂が届いたの?」

「全生徒が知ってるよ」

「みんな噂好きね」

 彼女は、唇についた綿菓子を舐めて笑った。

「俺も見たかったな」

「私の技を?」

「ピンク色」

 彼が更にからう。

「見せてあげよっか?」

 真奈美は悪戯な瞳で彼を斜めに見上げた。

「え?」

「嘘よ」

 真奈美は彼の頬をつねる。照れ隠しなのか、松山君はいきなりりんご飴をかじった。

「まず飴を舐めるのよ。りんごはその後」

 真奈美が母親のような笑顔を浮かべている。

「でも、マジな話。ほどほどにしておけよ」

 松山君が、急に真面目顔になって真奈美の瞳を見つめた。

「お嬢様のこと?」

 彼女は真直ぐ前を見つめたままで問うた。

「必要以上に刺激しなくて良い。放っておけば、君をいじめることにもすぐに飽きるさ」

「え?私、お嬢様にいじめられているの?」

「え?」

(え?)

 松山君と俺は、驚きの眼で彼女を見つめている。

「だって、いつもお嬢様から挨拶してくれるし、何かと声を掛けてくれるわよ。家来たちが鬱陶しいけどね」

 松山君は、怪訝な表情で真奈美を見つめている。本心で言っているのかどうか疑っているようだ。

「でも、松山さんとのことでは、これから少し対立するかも知れないわね」

「そう。少しね……」

 彼はそれ以上深追いはせずに言葉を収めた。

「そこの可愛いお嬢さん、良かったら見ていってよ」

 バンダナを巻いた若い男が、陽気な口調で真奈美に声を掛けた。男の前には、指輪やブレスレットなどのアクセサリーが並んでいる。

「どれでも千円だよ。芸術大学生の手作りだ。ガラス細工だけどみんな良く出来ているよ」

 男は二人を交互に見つめながら商品を指差した。

「本当。どれも可愛い!」

 真奈美の瞳が一瞬で輝きを放つ。

(お下がりすら貰えないだろうからな、アクセサリーなんて)

 俺もそう考えながら、彼女の無邪気な笑顔に癒されている。

「これが良いんじゃないか?」

 松山君が、ブルーに光るガラスキューブ付きの指輪を示した。

「ええ?こっちの方が可愛い」

「それは派手だろう」

「そうかなあ。ああ、これが可愛い」

 彼はふっと笑いを零して、

「女子は『可愛い』しか修飾語を知らないのか?」

 と言った。

「同じ『可愛い』でも違いがあるのよ。わからないの?」

 彼はポカンとしている。

「女同士では通じるのよ」

「嘘言え」

「まあ、単純生物の男にはわからないわ」

(松山君、これは一生掛かってもわからない。諦めなさい)

 笑顔の真奈美は、ルビーのような赤いガラス細工のはめられた指輪を手に取った。

「これが一番可愛い」

「じゃあこれをください」

「さすがお目が高い。これは俺の彼女が作った物なんです。選んでくれてありがとう」

「お兄さんも芸大生ですか?」

 男は軽く頷いてから、

「俺は絵を描いている」

 と言って目元を緩めた。

「彼女によろしくね」

 真奈美は最高の笑顔を浮かべて指輪をはめた。

「素敵な彼女だね」

 金を受取った男が松山君に印象を漏らした。松山君も嬉しそうに照れ笑いを浮かべたその時、周囲の空気が急変した。緊張感を伴う不可思議な空気が漂い、祭の喧噪に得体の知れない静寂が走った。誰もが皆、鳥居の方に視線を送っている。俺たち三人は、そんな人々の視線の先を追ってみた。

(お嬢だ!)

 赤い花柄があしらわれた濃紺の単衣着物を着て、紅い鼻緒に白足袋を通し、贅沢な服装と金持ち臭い雰囲気をこれ見よがしに撒き散らしながら歩いている。

 控えめな柄の着物を着た女性がお嬢の周囲を囲んでいる。都合十人ほどの一団がゆっくりと境内を移動して来た。一団が通り過ぎる時、露店主は売り込みの声は掛けずに目礼している。祭りを楽しんでいる人々も、同様に目礼したり小声で挨拶したりしている。

 ふと、お嬢の足が止まった。周囲の女たちはいつもの家来ではなく、若い大人の女性たちでなかなかの美人揃いだ。きっと家の仕事をしている人たちだろう。

「あーら、真奈美さん。あなたも来ていらしたの?」

 高圧的な声に周囲の皆が一瞬で固まる。

「ここは神聖な神社。あなたのような泥棒猫が来る所じゃなくてよ」

 お嬢が更に尊大な態度で叫んでから、蔑むような視線で真奈美を見下ろした。しかしその視線が真奈美の赤い指輪に辿り着いた時、お嬢の顔色からあっと言う間に血の気が引いていった。

「私は泥棒でも猫でもありません」

 追い打ちを掛けるように、真奈美の凛とした声が涼やかに響く。瞬く間に、真奈美とお嬢を中心としたこの一角に、冷たい緊張感が張りつめて行った。

 お嬢の付き人たちが鋭い視線で真奈美を捕捉し、周囲の人々の心の目は、孤立無援の真奈美を心配そうに見つめている。

「他人の恋人とこうしてデートしているくせに!盗人猛々しいとはこのことね!泥棒猫でないなら、いったいあなたは何なのよ!ブタかしら?」

 そう喚いたお嬢は、怒りを込めてカラカラと高笑いをした。付き人たちも、お嬢の突然の怒りに慄いて不器用な笑い声を立てて真奈美に冷たい視線を投げ掛けている。この不気味な緊張感に芸大男も身を縮めて成り行きを見守っている。周囲の誰もが、哀れな真奈美を見ていられずに目を伏せている。

「私は、松山さんの彼女です!」

 そう言い放った真奈美の気高い声は、お嬢のドス黒い怒りも、周囲の不気味な緊張感も、一瞬で軽やかに吹き飛ばして、人々の心に爽快に響き渡った。驚きと喝さいの心持で真奈美を見つめる人々に向かって愛らしい笑顔を振りまいた真奈美は、松山君の手をしっかりと握り、お嬢一団に背を向けて歩き始める。

 あまりにショックな言葉を叩きつけられて呆然と立ち尽くすお嬢は、青白い頬をヒクヒクと痙攣させている。周囲には、何事も無かったかのように再び祭りの空気が流れ始めた。

「君!」

 芸大男が真奈美たちの背中に声を掛けた。振り返った松山君に、

「本当に素敵な彼女だ!」

 と、親指を立てた。二人はニコリと微笑んでから本殿に向かう人の流れに飲み込まれていった。

 お嬢は二人の背中を睨んだまま身動きひとつ出来ない。付き人たちも対応に困惑模様だ。お嬢の歯軋りが芸大男にまで届いて来た。


 真奈美の部屋の電灯が点いた。しばらくして、着替えを済ませた彼女が窓を開けてベランダに出て来た。そして星空を見上げながら手を合わせ、

「お母さん、ありがとう」

 と、星の輝きのような笑みを零した。

「チューでもしたの?」

 幸福そうな彼女の表情を見て、俺はそんな問い掛けをしてみたが当然回答は無い。だが、彼女の表情を見ていると、何となく確信が持ててきた。

 二人はお嬢をかわした後、本殿でお参りを済ませてから境内の隅にある静かなベンチに座って話し込んでいた。俺は二人の邪魔をしないように、いや、このまま真奈美が松山君の腕に抱かれてチューされるような光景を見るのが嫌で、さっさとその場を立ち去っていた。

 そして真奈美のうちのベランダで、ひとり寂しく帰りを待っていた。だから、ひと皮剥けたような彼女の新鮮な表情を見ていると、彼との距離が更に縮まったことを実感した。

「良かったね」

 本当は、笑顔で答えて欲しいところだが、俺の言葉は届かない。

(ま、いっか)

 俺は星空を目指して飛び去った。


「わあ、可愛い指輪。どうしたの?松山さんにもらったの?」

 翌週、教室に入った真奈美は周囲の席にいる女子生徒たちにあっと言う間に囲まれてしまった。落書き消しの一件以来、お嬢様の前では真奈美を無視する仕草をするものの、お嬢様がいない所では、皆、真奈美に好意的になっていた。

「うん」

 真奈美は頬を少し赤らめて頷いた。

「良いなあ。松山さんカッコ良いもの」

「真奈美とお似合いよ」

「ありがとう」

 真奈美は本当に幸福そうな笑みを浮かべた。そんな和やかな朝の雰囲気も束の間、

「おはようございます」

 と言う生徒たちの挨拶によって、一瞬で緊迫の部屋へと移り変わってしまった。真奈美を取り囲んでいた女生徒たちは、彼女に目配せをしてから真直ぐに向き直り会話を止めた。

 白々しい空気を察したのか、お嬢は周囲を鋭い視線で刺しながら真奈美の横を通り過ぎる。そして、

「あなたには玩具の指輪が似合っているわ」

 と冷たく言って、真奈美の肩をヒップで一撃した。

「玩具でも、私にとっては最高の指輪です。初めて好きな人に頂いた物だから」

 小声で漏らした彼女の声が、意外に大きく響いてお嬢の背中を刺した。

「すてき」

 周囲の女生徒たちが思わず真奈美の言葉に感銘する。お嬢の後ろに従う家来たちは、真奈美には視線を向けずに周囲の女生徒たちを睨んで威圧して回った。そして、ある席でふと足を止めると、

「何だよ、テメエ!」

 と、ひとりの気の弱そうな女生徒に家来が絡み始めた。家来は弱気生徒をネチネチといじめ続ける。いくら謝っても止めようとはしない。そんな様子を見かねた隣席の女生徒がとうとう立上り、

「止めなさいよ。あなた、偉そうにしているけど、一体何様のつもりよ!」

 と、厳しい声で家来に食って掛かった。

「そうよ、何であなたがそんなに偉そうにしている訳?」

 先程まで真奈美と話していた女子たちが次々に立上る。

「やるってのか!」

 数人いる家来のひとりが大声を発した。一瞬怯えて身構える女生徒たち。家来の怒気が彼女たちを抑えつけようとした。と、真奈美がすっと立上って大声を出した家来をじっと見つめた。

「なんだよ、やるってのか!」

 家来は再び大声を出して真奈美を脅そうとする。

「はい。私が相手になります。廊下に出てください」

 真奈美は平然と言ってから廊下に出ていった。家来たちは顔を見合せたままで顔色を失っている。誰も出て行こうとはしない。以前、真奈美に投げ飛ばされた家来Bは今にも泣きそうな顔をしている。

 威勢の良かった家来もその場に立ちすくんで動けない。廊下では真奈美が腕をグルグル回して準備運動をしている。やがて、立ち並んだ女生徒たちがクスクスと笑い始め、教室中に笑いの渦が拡がっていった。

 家来どもは赤面したままコソコソと自席に着いてしまった。真奈美も女生徒たちと笑顔を交わしながら席に戻る。お嬢は窓の外に視線を外したまま、他人事のように知らぬ振りを決め込んでいた。

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