序章 毎朝20分の恋
毎日の通勤電車で出会う小柄な女性に興味を持った俺の心は、彼女の名前を真奈美と名づけて勝手に恋を始めた。話し掛けることも無く、目的駅に着くまでの間、束の間の妄想タイムを楽しんでいた。
俺が真奈美に興味を持ったのはもう一年も前。毎朝乗る通勤電車の同じ車両の同じような位置にいながら、声も掛けられずにいる。まあ、朝っぱらから電車の中でナンパする奴もいないだろうけど。
仮にトライしてみたとしても99パーセント失敗することは目に見えている。俺も彼女ももう大人だ。そんなドラマみたいな出会いを実らせるほど子供染みてもいないだろう。
当然、彼女の名前など知る由もない。だが、俺の感性では真奈美という名がぴったりなので勝手に真奈美と呼んでいる。
歳の頃は30代前半か。しょせん、女の歳なんて見掛けで判断できる訳がないからこれ以上の詮索は止める。小顔で口も小さいが唇が厚い。睫毛が長いのだが、どうやら付け睫のようにも見える。そして背丈は低い。俺の肩くらいの高さしかない。まるで子供みたいだ。
俺が真奈美に何となく興味を持ち始めたのは、そもそもこの低い身長がきっかけだった。横に並んでいると視界が広いのだ。横にオヤジの顔があるのと空間があるのとでは大違い。それで、偶然横に並んだ時にはラッキーと思うようになった。
それから、彼女の横が空いている時には自然と並ぶようになり、そのうちに出来るだけ並ぶようになり、やがて彼女自体を何となく意識するようになっていた。
車内アナウンスが響いて今朝もいつもの通勤電車が出発する。俺と真奈美も並んで立っている。週の内、2~3日は並ぶことが出来る。
今朝の真奈美は後ろで髪を束ねて、夏らしいヘアスタイルに変わっていた。眉を剃ったのか、昨日より細くなっていて涼やかな印象を振りまいている。俺は、ショートカットや髪を後ろで束ねたアクティブな髪型が好きだ。そのためか、彼女の横顔しか見えていないのにいつも以上に可愛く見えてしまう。
(俺の好みを知っているのか?)
朝っぱらからこんな妄想に耽っている俺はラオウと呼ばれている。歳は48。気が付けば独身。いつの間にか、ひとり娘の養育費を振り込むだけの虚しい引き落とし口座オヤジになっていた。
それでも、娘が中学生の頃まではたまに会って会話もし、彼女の成長ぶりに苦労も報われたものだが、高校生になった彼女の口からウザイと言う言葉が出てからは、日本中の女子高生が嫌いになってしまった。
それから一度も娘とは会っていないし、電話もメールも一切していない。俺の記憶から娘という存在を消し去った。
記憶は消し去っても娘は飯を食う。そのための責任は果たさなければならない。そんな虚しい期間も漸く過ぎ去り、この春大学を卒業した彼女はそれなりの企業に就職してくれた。
これで俺も自由だ。いや、ずっと自由ではあったが多少の責任感からくる重圧はあった。娘が社会に出るまでは生きて稼がなければならない。存在感の全くない娘のためにでも。
そんな責任感から開放された今は、恋のひとつでもしてみたくなった。だが、本当の恋など出来る歳でもなく、ただ、恋していた頃の気分に浸りたいだけなのだと、自分では理解している。
翌日、いつものホームに到着したが、まだ真奈美は来ていなかった。俺は、早歩きをしたために吹き出た汗を拭きながら、強情なまでの夏の青空を見上げていると、もうすぐ電車が到着するとのアナウンスが響いた。
ふと電車の方を見ると、真奈美がこちらに近づいてくる。彼女の存在を意識し始めてから初めて、正面から見つめることが出来たような気がする。バッチリメイクをしてUV対策完璧。そのためか実年齢より若く見える。と言っても年齢は知らない。
(そんなに可愛いと思うならナンパしてみたら?)
悪い虫がささやく。
(お前らみたいに性欲で頭が一杯の奴らにはわからないだろうけどな、恋愛なんてもう面倒くせんだよ)
悪い虫に反論してみた。
(どうして面倒なの?)
突然、真奈美の声が聞こえてきたような気がする。声など聞いたこともないのに。
(駆け引きが面倒だ。苦労しても実るとは限らないし)
(それが楽しいんじゃない)
(そう言うのに疲れたんだ。それに、仮に恋愛が上手く発展したところで、いつまでも恋愛関係を続けられないだろう。必ず結婚という壁にぶち当たるから面倒なんだ)
(結婚すれば良いじゃない)
(俺は集団生活が苦手なんだよ)
心の中で真奈美と会話した俺は歩く速度を少し落とし、真奈美が車両に乗るのを待ってから、微妙な距離感を保ちつつ自然な感じで彼女の横にしれっと並んだ。そして、ちらりと彼女の横顔を見て、
(おはよう)
と胸の内で挨拶してみる。返事はない。当たり前だ。それでも、真奈美の横に立って、彼女の存在を肌で感じていられる時間はこの上なく幸福な時間だ。銀行口座の向こうにしか存在しない娘の気配よりも現実的で甘い心地に浸ることが出来る。
真奈美は車両の一番後ろ側の壁際をいつも求めている。今日も壁際に立って、壁に半ば持たれながら音楽を聴いている。背が低いので吊り輪を持つのがきっと大変なんだろう。それで壁に持たれたがる。不思議なことにあまり座ろうとはしない。ダイエットの積りか。どこも太っているようには見えないけど。案外、脱いだら凄かったりして。
真奈美の頬はピンクオークルのファンデがテカッている。髪を束ねている青い象さんの髪留めが可愛い。チラリチラリとしか観察出来ないのがとてももどかしい。しかし、真奈美に気づかれては元も子もない。あくまでも俺が妄想を楽しむだけだから、彼女に不快感を与えてはならない。
俺はそんな風に考えながら、ふと、この妄想をツイートすることを思いついた。バカなオヤジの妄想を公表するのも面白い。一瞬、真奈美が俺のツイートを読んだらまずいと考えたが、俺のフォロアーなんてほとんどいないから問題ない。早速、翌日から俺の妄想をツイートしてみた。
『八月○日。
(おーい、乗り遅れるぞ。寝坊でもしたのか?)
発車ぎりぎりで乗込んできた真奈美に、いつものように胸の中で話し掛ける。今日も爽やかにうなじを白く輝かせて、俯き加減で車両に乗り込むと俺と同じ列に立って並んだ。人の流れの関係で、今朝は俺が壁際に立ってしまった。
真奈美は一瞬躊躇するような仕草を見せてから、微妙に俺との距離を空けて並んだ。何となく避けられているような感じ。しかも、次の駅で背中側にある反対側の列が空くとそっちへ移ってしまった。まあ彼女の大好きな壁際が空いたので仕方ないけど』
『八月○日。今日の車両は、いつも俺たちが立っている優先座席の位置に座席がなく、広い窓と手すりがあるタイプだ。真奈美は広い窓を背にして立っている。次の駅で、彼女の横に立っていた男性が降りたので、俺がそこへ立って、さっきの男性と同じように窓を背にして彼女の横に並んだ。
だがその瞬間、彼女は俺に背を向けてしまった。真奈美は左の肩を窓に着けて進行方向に身体を向けた。ちょっと嫌な感じ。俺はちょっとむかついたので、右肩を窓に着けて進行方向に背を向け、彼女にも背を向ける形になった。と、彼女が扇子で扇ぎ始める。扇子の風と一緒に彼女の香りが届いて来る。
(ウーン幸せ)
二人は背中合わせのままで音楽を聴きながら外を見つめている。これはこれで良い感じかも。快速電車が追い抜いていく時に、二人の姿が快速電車の窓に映った。
広い窓に二人きり。身長差のある二人が背中合わせに並んだ姿は、ケンカしている高校生カップルのようにも見える。妄想膨らませ過ぎか?』
こんな妄想ツイートをしていると、ある日、俺のツイートに冷やかしの返信が返ってきた。
『あなたも妄想列車に乗りませんか?あなたの真奈美さんへの思いが叶うかも知れませんよ』
さっと目を通した俺は、
「くだらない!」
と、吐き捨ててから返信を削除した。そして翌日からもツイートを続けた。
『八月○日。真奈美は自分の脚に自信がないのか、職業のためなのか、スカートを穿いた姿を見たことがない。いつもパンツを穿いている。そう言えば彼女の職業は何だろう?夏休みが短いので製造系ではないだろう。月から金まで出勤しているからサービス業でもなさそう。出勤時間帯から考えて店舗販売でもない。控えめな服装なのでファッション系でもなさそう。俺の勘では流通業のバックオフィス。大阪駅の桜橋口から出てゆくので四つ橋線沿い船場あたりの卸関係。俺は勝手に真奈美の職業を決めてしまった』
再び俺のツイートを冷やかす返信があった。
『なかなか妄想を楽しんでいらっしゃいますね。あなたなら十分に素質がありますよ。やり方は簡単。真奈美に妄想列車に乗りましょうと誘うだけで良いのです。彼女は絶対に承諾します』
俺は嫌悪感と薄気味悪さを感じて削除した。
『八月○日。今朝も発車ぎりぎりにやって来た真奈美の頬は、白ぽいファンデで輝いている。強い陽射しも跳ね返して眩しいくらいだ。細く整えた眉がきついけど、凜とした表情に俺の心は溶けそう。淡いパールの髪留めが可愛い。
盆休みを過ぎてしまった車両は混んでいて思うように場所を選べない。今日も真奈美とは反対の列に並び、背中合わせになったまま吊輪につかまって立っていた。
(何時になったら横に並べるんだろうね?)
背中で真奈美に問い掛けてみるが当然レス無し。背中で物語るなんて言うけど絶対無理(意味が違うけど)突然、車両がガタリと揺れて彼女が数歩後ろへ!俺のヒップに彼女の腰辺りが軽く衝突。
(や、柔らかい!やっと尻合いになれた)
などとオヤジギャグを零しつつ、柔らかな幸福感をかみ締めていた』
その夜、また例の返信があった。
『私は決して怪しい者ではありません。妄想列車は無料です。金儲けや何かの目的があってあなたを誘っているのではありません。これは宿命なのです』
「マジか?いい加減にせえよ!」
俺は宿命と言う言葉を聞いて鳥肌が立った。
『八月○日。一週間ぶりにしてやっと真奈美と並ぶことが出来た。吹き出る汗を拭いていると、真奈美の扇ぐ扇子の風が届いてくる。
(あ~幸せ)
だが、すぐに扇ぐ手を変えてしまった。
(右手で扇いでくれ!)
そんな戯言を心の中で呟きながら、チラリと彼女の挙動を観察する。真奈美は束ねた髪を時折整えたりする。そんな仕草が例えようもなく可愛い。
俺は何気に、吊輪を握った彼女の手に目を落とした。真白な肌の小さな手だ。指輪はしていない。そう言えば、結婚指輪ってどっちの手にするんだ?俺は結婚している期間を含めて結婚指輪などはめたことが無い。いや、そもそも結婚指輪を買ってなかったな。だから、真奈美のどっちの手を確認すれば良いのかもわからない。
とりあえず彼女の左手には、細い腕時計と藤色とパール色のブレスレットしか見当たらない。それにしても、何て白くて綺麗な手なんだろう。
(こんな小さな手で三角お握りを握れるのか?)
おせっかいな疑問が心を過った』
『八月○日。幸運なことに、今朝は真奈美の正面に立つことが出来た。彼女が壁際の席に座り、俺がその前に立った。俺は携帯をさわりながらチラチラと彼女を観賞する。今朝も可愛い。髪留めが白に変わっている。ふと足元を見ると水色のマニュキアが消えていた。
(すっぴん爪か。あ、そうだ。この前の続きを確認しよう!)
俺はドキドキしながら、さりげなく彼女の両手を確認する。
(オッ!無い!)
どちらの手の指にも指輪は無い。
(やっぱり独身か!)
でも、女子ならファッションリングのひとつぐらいしていてもおかしくないのに。もしかすると、俺と同じで元々指輪が嫌いなのか。だったら結婚指輪を作っていないことも考えられる。
俺は、珍しく慎重になったものの、彼女が独身である可能性が高まったことに、ほんわかとした希望を感じていた』
『八月○日。今朝も真奈美と並ぶことが出来た。今日は濃い青の髪留め。
(いったい何種類の髪留めを持ってんの?)
きっと部屋にはたくさんのアクセサリーがてんこ盛りなのだろうなと、白とピンク基調の部屋を勝手に想像してみた。俺が壁際に立っているので真奈美は吊輪につかまっている。彼女が真直ぐ手を伸ばすと何とか吊輪に手が届く。そして停車する度に手を離す。
(吊輪を持つのは疲れるんやなあ)
発車する度に彼女の足元がふらついて、慌てて吊輪を握る様子がとても可愛い。
(もっとこっちへふらついてぇ)
そんな様子を見て、彼女が壁際に行きたがる理由を切実に感じ取ることが出来た。天気は曇。窓に張られた優先座席のシール部分に真奈美の表情が半透明に映った。少々憂いのある目元と、ややはれぼったい唇が大好きだ。彼女は窓に顔が写ると自然な仕草で髪を直す。
(やっぱり女の子やなあ。俺なんか鏡を見るのも嫌なのに)
窓の中の真奈美にぼんやりと見惚れていると、窓に浮かんだ真奈美と視線が合ってしまった。慌てて視線を移すが、俺の鼓動はドキドキ弾み出して血圧急上昇。やがて電車は大阪駅に到着。降車する瞬間も偶然彼女と歩調が合った。
(まるでデートみたい)
俺は幸福を噛み締めながら彼女と数歩を共にした。』
『あなたはもう達人の域に達しています。ひと言声を掛けるだけで良いのですよ。それで彼女の過去を知ることが出来る。真奈美さんの高校生時代を見たくはありませんか?』
俺は不覚にも制服姿の真奈美を思い浮かべてしまった。今まで考えたこともなかった種類の妄想。俺は軽く頭を振ってから返信を削除した。
そしてなぜか、真奈美が暗い表情しか見せなかった頃のことが自然と思い浮かんできた。
今年の春先の頃、真奈美が数日間電車に乗ってこなかった。まだ彼女に大きな関心は無かったが、三日目辺りから、もう乗る車両を変えてしまったのかと、軽く気掛かりになっていた。
しかし翌週、漸く真奈美がマスクをして現れた。
(風邪か?)
そう思ってからは特に意識はしていなかった。しかし、更に翌週になってもマスクは外れない。
(長い風邪やな)
そんな風に感じながら、偶然横に並んだある日、何気なく真奈美の横顔をチラリと観察してみた。
目の周囲のメイクがやたら濃い。まぶたが少し腫れているようにも見えた。マスクの端から傷のようなものが窺える。その傷を隠すための厚いメイクだ。
俺は見てはいけないものを見てしまったようで、その後は彼女の顔を見ないように努めた。漸くマスクが外れた頃、もう見ても大丈夫だろうと思って確認すると、薄い傷跡をメイクで隠していた。
(DV?彼氏か、夫か?女を殴るなんて許せない奴だ!)
少し暗い彼女の表情が哀れで、車内でも男性が近くに寄ると、過敏に避けているようにも見える。
(男を恐れているのかな?)
と、少し心配して見ていた。
その後、次第に傷は消え、彼女の態度から男への過敏さは消えたようにも見えた。その頃から、自分でも気づかぬうちに真奈美に関心を持ち始めていたのだろう。
あの頃の真奈美は何となく暗いイメージで、服装も地味。まあ、今も派手ではないけど。その頃はメイクもイマイチで、肌荒れが目に付いていた。
それが初夏の頃からか、暗い影が薄れてきて、服装にも工夫が見え始め、メイクも丁寧になってきた。髪を後ろに束ねた夏仕様では別人になったみたい。
いつも俯き加減でホームに並んでいた真奈美が、今ではやや顎を突き出して扇子を扇ぐ。そんな姿からは自信すら窺える。
きっとDV男とは別れて、いや、別れ話で殴られたのか。五月の連休辺りで新しい男と知り合い、暑さと共に恋になった。そんなことを勝手に想像してみた。まあ、何にしても、真奈美には幸福になって欲しいものだ。
ある日、またまた気味の悪い返信が返ってきた。
『真奈美さんはとっくにあなたのことを意識していますよ。いつまで経ってもあなたが声を掛けないから、わざと冷たくしているのです。まだ間に合いますよ、ひと声掛けてみてください。妄想列車に乗ろうって』
「いい加減なこと言いやがって」
俺は、真奈美に気づかれたのなら近づくのを止めようと決めていた。これは最初からの決め事だ。相手に不快感を与えてまで妄想を楽しむことは出来ない。であるのに、こいつは話し掛けろと言う。出来る訳がないやろ!
その日、俺は仕事帰りにどこへも寄らずに真直ぐ帰路を進んでいた。面白いことに、帰りの電車では真奈美のことは一切思い浮かばない。やはり妄想は朝の時間帯に限るのか。
俺は電車を降りてから階段を上り、いつものように改札に向かった。そして改札を抜けようとしたら俺の前の人がイコカのエラーを出してゲートが閉まってしまった。
(もう、ダサイなあ)
慌ててタッチをし直す前の女性。
(真奈美!真奈美やん!)
俺は右手にパスを持ったまま、タッチする寸前で固まってしまう。マージャンで勢い良くリーチを懸けようとしたら、初牌であることに気づいて一瞬躊躇したような姿勢だ。
こういう時、エラーを出した人は普通顔を上げない。真奈美も俺がいることなど気づく訳も無く、タッチし直してから恥ずかしそうに足早に帰ってゆく。
(ああ、後をつけてみたい。どこに住んでいるのか確かめたい)
俺の心で悪魔が囁く。つけろ、と。
でも、それをしたら本物のストーカーだ。悪魔の囁きに打ち勝った俺は、別れ道まで彼女の後に続いた。
そして岐路に立った俺は、彼女の後姿が見えなくなるまでそこに佇んだ。静かに暮れてゆく夏の夕暮れに、真奈美の小さな背中が消えていった。秋の夕暮れだったら泣いてるかもな。
その夜、また例の不快なメールが届いた。
『折角のチャンスを逃してしまいましたね。改札口で出会うなんて何万分の一の確率だと思っているのですか?たったひと言声を掛ければ良いのですよ。「妄想列車に乗りましょう」と。二人で妄想列車に乗れば、真奈美さんの過去を旅することが出来ます。どうせ、ラオウさんは現実の真奈美さんからは逃げてしまうのでしょう?だったら妄想を深めましょうよ。このままでは二度と真奈美さんに会えなくなってしまいますよ』
『十月○日。九月の三連休以降、真奈美は現れなくなっていた。やはり俺の存在が疎ましくなってきたのだろうか。そして俺が電車で会うことをこっそり楽しみにしていることにも気づかれてしまったのだろうか。と、そんな問答をしていたのも最初の一週間くらいで、その後は、思い出すことはあっても、あれこれ詮索することはなくなった。ただ、何となく切ない気持ちに浸されたまま、真奈美のことは考えないように努めて、自然に心から消えてゆくのを待った。
三週間以上彼女と会わない日が続いたある朝、二日酔いで寝過ごしてしまった俺は大慌てで駅に向かった。いつも乗る電車には間に合わず、一本後の電車に乗ることにした。
ホームに入ると、ちょうど人の列が電車に吸い込まれていくところだった。いつもの車両に飛び乗った俺は、習慣どおり車両の奥へ向かおうとした。
(真奈美!)
見覚えのあるボーダシャツにカーキ色のチノパン。可愛い手で吊輪をもった彼女の表情は、いつも俺の心を熱くさせてくれた、凛とした真奈美の表情そのものだ。
メイクも悲しいくらいに整っている。だが、俺はなぜか反射的に逃げてしまった。何も悪いことはしていないのに、いつも決して行かない車両の真中の方に移って身を隠した。
そして、人の盾に隠れてそっと彼女を垣間見る。気づかれてはならない気がして。気づかれたら彼女を驚かせるような気がして。そうしたら、この車両からもいなくなってしまうだろう。彼女の横顔を遠くに見つめながら、短かった夏の思い出を静かに振り返った。そして、そろそろ本気で忘れようと心に誓った。あのメールに書いてあったように、真奈美の姿を見るのもこれが最後になりそうな気がした』
俺は、もう真奈美と会わない決心をして、その夜、ひとり酒を飲みながら、妄想の中にいた真奈美に別れを告げた。と、そこへまたしても例の謎返信が届いた。
『ラオウさん。明日が最後のチャンスです。これを逃せば本当に真奈美さんとは会えなくなってしまいますよ。あなたが真奈美さんと妄想列車に乗るのは運命なんです。そうしないと彼女の運命にも悪影響があります。明日、必ず声を掛けてください。良いですね』
俺はもう取り合うのもバカバカしくなってきて、削除すらしなかった。もう心は決まったのだ。明日からはいつもの電車に遅れないようにする。もし、一本遅れて真奈美の乗る電車に乗り込む時には車両を変える。そして、妄想ツイートも終えると心に硬く誓った。
翌朝は疎ましい雨が降っていた。妄想とは言え心に芽生えてしまった恋を諦めた俺には、この雨は何とも憂鬱で悲しいものだ。
気の滅入る中、傘の雨水を払いながらホームを歩いていると、いつもの位置に小さな真奈美が立っていた。
俺は思わず時間を確認して、自分が遅れていないことに心が躍る。彼女は髪を切っている。俺は想定外の状況に判断がつかず少々躊躇しながらも、俯いて立っている彼女の横に並んだ。何となく、神様が最後に幸せを与えてくれたような気がした。そして、最後に合わせてやるから二度とこの車両に乗るなと言われているような気もした。
電車が到着して、車両に乗り込む時も割りと強引に彼女の横に並んだ。今日が最後だと決心した俺は、最後に彼女の横に並び、神様が与えてくれた幸福をありがたく味わうことにした。
その瞬間、昨夜のメールを思い出し、メールの主の仕業かと言った考えが過ったが、すぐに否定して真奈美と並ぶ幸福感に全身を浸していった。カットした彼女の髪は肩に届かないくらいで丁度良い。髪の色も若干明るくなっている。すべて俺好みに合わせてくれたのだろうか。
雨天で外が暗いために窓ガラスに人影が映りやすく、二人は何度か目を合わせた。と、彼女が咳払い。鼻声だ。
(大丈夫?)
心の中で優しく尋ねる。窓に映る二人の姿は、もう何年も付き合っているカップルのように自然だ。快速電車が追い抜く瞬間に、窓に浮んだ彼女が微かに微笑んだように見えた。
このままずっと真奈美といたい。仕事の渦に巻かれるのが億劫だ。大阪を超え、ずっと西へ向かって旅していたい。立ちっぱなしで疲れるけど。
そんな想像をしていると、真奈美の前の席が空いて彼女が腰を下ろした。更に次の駅で彼女の隣の席が空いた。誰も座ろうとしない。俺は思い切って彼女の隣に座った。初めての体験。今日が最後だと思うと何でも出来てしまう大胆な自分に驚いた。
小柄な彼女の温もりを微かに感じた俺は、益々幸福感に包まれてゆく。電車が揺れると肩が触れ合う。真奈美は音楽を聞いたまま俯いて目を閉じている。彼女がこのまま眠って俺にもたれてきたら良いのに。俺はそんな期待を寄せたまま目を閉じて、最後の幸福な時間を楽しんだ。
と、そんなほんわかとした感情の奥底から、ひと言で良いから言葉を交わしたいという欲望が湧き上がってきた。別に昨夜のメールが気になっている訳ではない。ただ、最後の日にふさわしい出来事が欲しかった。俺は、声を掛けるとしたらどんな言葉が良いのか想像してみる。
(結婚してるの?)
唐突過ぎる。
(彼氏は?)
失礼だ。
(おはよう)
今さらか。
(アイホンのジャックに刺さっている獅子舞のキャラが可愛いね)
観察が細か過ぎてドン引きされる。
良い言葉が出て来ずに焦り始める。時間はどんどん過ぎてゆく。最後の思い出にひと言くらい話してみたいと言う感情は、もう抑えきれなくなっている。
(どんな音楽が好きですか?)
これ位が丁度良いかも。俺は心を決めた。
「あのう、すみません」
俺は横を向いて小声で囁く。真奈美は少し驚いたように俺を見上げてから片方のイヤホンを外した。
「この電車、どこでも好きな所へ行けるんだけど、どこへ行きたいですか?」
(何を言ってるんだ!俺は?)
だが、俺の意に反して言葉が勝手に口から飛び出してゆく。
「どこへでも?」
真奈美が二重まぶたを丸くして驚いている。
「はい。でも、できれば国内にして欲しいです。俺の想像力がついていかないので」
「はあ……」
彼女は怪訝な表情でじっと俺を見つめてから、
「じゃあ故郷に行きたいです」
と、声を弾ませた。
「徳島?」
俺は予想をぶつけてみる。
「いいえ」
「じゃあ広島?」
「すごいすごい。広島のどこだと思いますか?」
真奈美は俺の方に身体を捩って身を乗り出してくる。彼女の膝が俺の脚に触れてドキリとした。
「尾道辺りかな?」
「当たり!すごいですね。どうしてわかるんですか?もしかして、私、尾道弁話しました?」
真奈美は眼尻に細いしわを浮かべて微笑んでいる。
(尾道弁て……。まだ三、四言しか話してないし、しかも尾道弁なんて聞いたことが無い)
俺は、やや天然気味な真奈美に驚きながらも、予想年齢よりも若く見える笑顔に吸い込まれそうになった。
「では、今から妄想列車に乗って尾道に向かいましょう」
俺の言葉に真奈美は静かに頷く。
(こんなことを言って、これからどうなるんだ?)
俺は何となく虚空を見上げ、誰かに助けを求めるかのように心で叫んだ。
ちょっとやばいくらいの妄想でした。次話からは妄想を抜け出して色んなハプニングが続きます。