1-3 私は澪には戻りません その2
眠いです
だけど、小説が私を呼んでいる
鮮やかな茜色に染まりゆく空。日が暮れて月がその姿を鮮明に見せ始める。
暮傘結音が連日に渡る友達との交流を終え、我が家に帰宅した。恐らく明日も、雑踏と商店街がひしめく中央区の方へ出掛けることだろう。
まさか、男────いや、結音に限ってそんな。だが、洸は楽観視していただけで、重要な何かを見過ごしていたかもしれない。
……何を言っているのだろう。妹の友好関係や恋愛観に口出しするのは、姉としてどうかと────
「違ーう! 姉じゃなくて兄でしょうが! ボクの馬鹿っ!」
「……お兄ちゃ──お姉ちゃん、大丈夫?」
「お兄ちゃんだよ! ボクはお兄ちゃんなのー!」
リビングに入った途端、ポカポカと自らを殴りつけている姉を見掛けたのだ。そんな呆然とする結音に、澪ははぐらかすように喚く。
しかし、結音は瞬時に意識を復帰させ、その目を見開いた。こちらを凝視する両目と目が合い、澪は自らの失態を悟る。
──あ、逃げるの忘れてた。
「わぁぁぁあ! お姉ちゃんカワイイカワイイッ!! もう、全力でハグさせて! ええい、やっちゃえッ!!」
「わっ! 結音、だ、駄目! 触らな──ひゃあ! うわー、助けてぇ!」
母親譲りの鋼色の銀髪に透き通った青い瞳。人形のような端正な顔立ちをしていた少女。
彼女はここ数日、洸の服装と感性を貫き通し、男物の衣類のみ着用していたのだ。だが、どうか。
その姿に似通った色合いをした薄手のTシャツ、パーカー。女物ながら、ここに辛うじて洸らしい衣類の選択が見られる。
しかし、その下に身に着けた雪の結晶がデザインされたスカート、そして黒いニーソックスのセンス。
それに結音には心当たりがあったらしい。澪にのし掛かり執拗に頭を撫でながら、後方に振り向く。
母親の涼は、満面の笑みでグッと親指を立てていた。頬を朱に染め、鼻に赤く染まったティッシュを詰めている。
結音は親指を立て返し、彼女の健闘を称えた。よくやった同志よ、とさり気なく呟いている。
母親にも妹にももみくちゃ、つまり揉まれに揉まれ、澪は半泣きで脱出した。髪の毛ぐしゃぐしゃ、折角セットしたのに──って、それは違う。断じて。
「いやぁ、やっぱりお姉ちゃん凄いね……! これなら中等部の男子が群がること間違いナシ! 妹として誇りに思うよ……!」
「そんな誇り馬と鹿にでも食わせてよ! ボク、男に言い寄られても嬉しくなんかないっ!」
「その割りには、若干にやけているわよ? 本当は嬉しくて恥ずかしくて混乱しているだけじゃないの?」
「そんなことあるもんか! ふんっ」
涼まで会話に参加されては圧倒的に不利だ。澪はそっぽを向き、家族会話への不参加を表明した。
次にこの場からどのようにして逃げ出すか、策を練る。──また強制的に捕獲されそうだ。
「ところで、よくお姉ちゃん服とかスカート着てくれたね。何したのお母さん?」
「身包みを剥いで無理矢理着せたの。見せたかったわ……、白くてスベスベの美肌……! それにその身体の隅々まで見れたのよ!」
「ぐはっ」
記憶の彼方に葬ろうとしていた黒歴史をあっさり口にされ、澪は胸に槍でも突き刺さったような錯覚を覚えた。
頬を押さえ、神に祈るように感嘆と状況を如実に語る涼。その度に、澪は羞恥と苦痛で床の上でのた打ち回った。
羨ましそうに涼を見上げる結音。妹よ、気づけ、今の会話が非常に歪んでいることを。
「もうお嫁にいけないよ…………」
「嫁? 婿じゃないのねっ」
「しまったぁぁぁあ……!」
「もう諦めなよ、“お兄ちゃん”、往生際が悪いよ」
多勢に無勢。仲裁や味方をしてくれる父親が出張のため、一方的に言われ放題である。澪は悔しさのあまりに、立ち上がった結音に言い寄る。
同じ高さにきた目線を捉え、澪は今更だが 結音との身長差が殆どないことを知った。
結音は澪の一歳年下の年子の妹。しかしながら、こちらの方があからさまに背が高かったのだ。洸だった頃は。
少し、ショック。
そんな理由で落ち込む澪を心配してか、涼が指を立てて、提案した。
「お風呂、そろそろ良いはずよ。早く入りましょう。一緒に」
あんなに触ったのにまだ足りないというのか。
澪は自分を守るよう抱いて後退する。だが、その妙にか弱い姿に妹まで反応し出すものだから困惑してしまう。
こんな時のもしもに備え、澪は予めスウェットの寝間着とバスタオルを手元に準備していた。まさか、ここまで予想通りに事がおこるとは。
「よし、じゃあ私も一緒に──って、あっ!? 逃げた!」
「澪っ! 待ちなさい!」
何か後ろから制止の声が聞こえるが、そんなもの関係ない。
澪は臆することなく、風呂場に向けて駆けていった。全力で。
☆★☆
脱衣場に入り、訪れた平穏から澪は脱力し、床に膝を付いた。腰の辺りまで伸びた銀髪が床や壁に力無く垂れる。
この脱衣場や浴室はこの家で唯一、“涼が魔法を使用する事ができない”場所。
洸も風呂場だけが完全に休める場所だと認識していた。覚えていて良かったと本気で思う。尤も、普段から騒動に巻き込んではいけない“聖域”でもあるため、滅多に飛び込むことはない。
ホッと二つの意味で溜め息をつき、澪は立ち上がる。安心しながら不安を抱いた。
重要なことを思い出す。
(……目隠し、忘れてた)
澪は自覚しながらも、自らが洸という少年であろうと必死に自己暗示を掛けている。
男であるならば、洸ならばそう無闇に変わり果てた自分の姿を見ることはない。それぐらい彼は弁えていた。
故に、澪は一度も自分の全貌を直視していない。母親に服を取られた際も、目を逸らし、または目蓋を閉じていた。
男たる者、せめて少しは紳士であれ。父親の格言らしき言葉だ。
この時──なんとなく、澪は知りたくなる。自分が“どちら”なのか。
ちょっとした好奇心が、ポウッと灯のように芽吹いた。走り出したら止まれない。
ハッと冷静になって気付けば、澪は着用していた衣服を余すことなく籠へ置いていた。律儀にも整理して折り畳んでいる。
ごく当たり前のように女性用の衣類を片付けることができた。
……ゴクリ。目蓋を閉じ、息を呑む。未だに健在する好奇心に負け、澪は静かにゆっくりと浴室へ入った。
ドアを開けるなり立ちこめていた暖かい湯気が吹き抜け、頬や素肌を優しく撫でる。意を決して澪はドアを閉じ、鏡があるであろう、浴室の奥を向いた。
まだ浴室に入ったばかりだというのに、身体を汗が伝う。
緊張に震える目蓋。それをそっと持ち上げた。
(……………………)
薄く白色に曇った鏡の中。湯気が立つ浴室に、一人の少女が立ち尽くしていた。
鋼色をした黒みのある銀髪。湯気の中で爛々と輝きを宿した青い瞳。
生まれたばかりの赤子のように、穢れない白い肌。それらは粉雪の印象を持たせ、触れれば壊れてしまいそうな儚さ。
紛れもなく、それは少女──澪の姿に他ならない。
そこにいたのは“洸ではなく”、“澪だった”。
☆★☆
ひとしきり身体を洗い終えたところで、澪は浴槽に座り込んだ。
今日の湯は疲労回復、肩凝り腰痛筋肉痛その他に効果的てきめん、血行促進、中々にリラックスできる薬用入浴剤。さり気なく父親のお気に入りが勝手に使用されている。
澪の父親は無類の風呂温泉好き。出張先では有名な温泉や銭湯を渡り歩き、暇があれば秘湯巡りをしているとか。
(ホント、息女が大変だっていうのに何やってんだろ…………)
ちゃっかり内心では無意識に自分を女性として扱っている。昨日までは注意を逸らさないことで即座に訂正することができていた。
しかし、今日に至っては訂正するという行為そのものを思い付かない。まるで、“今までそうしてきたように”、ごく“当たり前に”。
そのためか、ほぼ直感的に洸という“個性”が消えてしまうのではないかと危惧しているのだ。
我が家としてもお気に入りの湯に浸かろうと、心身の不安が抜けなかった。
自分が澪ならば、洸はどうなのだろうか。
洸という人格が変化した結果が今の澪だとするのならば、元の洸の心はどうなったのだろう。
何より、“洸の記憶を持った今の澪は何者だ”。自分は本来の澪だった幼少期を覚えていない。
ならば、自分という人格は────
「────…………っ!」
何か、恐ろしい思考が頭の中を廻った気がした。
いつの間にか俯いていた澪は顔を上げる。視界に入った鏡に、蒼白な顔色をした自分が映り込んでいた。湯船の中だというのに、何故か寒気がする。
余程怖かったのか、意識が明瞭になった今、先程自分に対し何を思ったか忘れてしまった。
「ごめん…………っ」
ポチャンと音を立て、一つの雫が湯に消えた。そんな、あっさりと湯水に同化した涙が、唐突に人格を塗り替えられた洸や嘗ての澪を体現しているように見える。
自分は、洸の個性が薄れ、澪の過去を持たない人格。
そんな存在が、何故こうしてこの場にいるのだろう。
「ごめんね…………っ」
父親、母親、妹の大事で大好きな家族。そして、洸と過去の澪。
彼らに、自分はただ謝るしかない。それ以外、今の自分には思いつかなかった。
「私……澪には戻れない」
☆★☆
「…………………………」
悲嘆にくれる少女の震える声。今にも壊れてしまいそうで、崩れてしまいそうで。
守らなくてはいけない。そう、どうしようもなく思ってしまう。
だが、────涼は拳を一度強く握ると、再び普段通りの笑顔に表情を戻した。
脱衣場の入口のドアに背中を預け、淡々と突き放す。声が聞こえないのを良いことに、そこに隠れた愛情を込めて。
「澪、頑張りなさい」
握っていた掌────その中に、貴金属で作られたアクセサリーがある。
とても精巧とまでいかなく、青い宝石を翳す銀色の指輪とチェーンは巷でも安売りされていそうな代物だ。
「────あと少し、だから」
お、おやすみ……なさい
(σω-)。о゜