表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

負け犬のオデュッセイア

作者: 余一


僕は懐中電灯を持って、駐車場でみんなを待っていた。時刻は午後九時。思い出したように、近くでセミが鳴いている。両親は僕が部屋で寝ていると思っていることだろう。ばれないように忍び出てくるのには骨を折った。

落ち合う約束をしていた友人は僕を入れて四人。ひとり集まり、ふたり集まり、残すところあとひとり。言い出しっぺのタカちゃんが来ていない。

「ばれちゃったんかな……」

真っ黒に日焼けした友人――モカが不安そうに呟く。両親に秘密で集まっているのはみな同じだ。悟られてしまっては、夜遅くに自分たちだけで外出することは許されない。少なくとも僕の両親は許してくれない。

「確かに。あいつ、こっそりとか超苦手そうだもんな」

てるくんが苦々しく空を仰ぐ。タカちゃんは、よく言えば元気のいい奴だ。

「あと五分待って来なかったら、先行っちゃうか?」

てるくんの提案に、僕はため息を吐く。冷たいようだけれど、約束の時間をもう二十分過ぎている。連絡手段もないし、あまり待ってもいられない。

「そうだね。最悪、三人で行こうか」

モカも頷き、腕時計を見る。走る足音に気が付いたのはちょうどその時だった。

「みんな!ごめん!待たせた!」

大声を出してタカちゃんが駆け寄ってくるので、慌てて止める。モカは必至で人差し指を口に当てて「シッ!」なんて言っているし、てるくんはタカちゃんの口を押えにかかる。僕は両手で「押さえて」のジェスチャーをした。ここで誰かに見つかるわけにはいかない。

「悪い……」

「まったく、勘弁しろよな。台無しになるとこだ」

謝るタカちゃんに、てるくんは口を尖らせている。

「じゃ、行くか」

にやにやと笑いながらタカちゃんが言う。

「「おう」」

僕らも同じようににやけて、小さく声をそろえて言った。目的地は海岸沿いの洞穴。少し前にタカちゃんが見つけて、僕らの秘密基地にしている。秘密基地とは言っても、洞穴のようになっている場所をそのまま使っていて、そこにいろいろと持ち込んでは遊んでいる。それだけのものだった。


「ねえ」

まだ車の多い国道を渡って、潮の匂いが漂ってきた頃、モカが呼びかけた。

「あそこにいるの、よしこじゃない?」

僕らの秘密基地の方向に、クラスメイトのよしこが仁王立ちしている。

「何やってんだ、あいつ」

呆れたような、半ば馬鹿にした調子でてるくんが呟く。

「学校で僕らの話を聞いてたのかも」

「だな!」

僕の言葉に、タカちゃんが大きくうなずいて、よしこに歩み寄った。僕らが止める暇もない。

「やっぱり来た!いけないんだよ!こんな遅くに!」

タカちゃんは、よしこが僕らの仲間に入りたがっていると踏んでいたらしい。面食らって間抜けに口を広げている。優等生を気取るよしこが、僕らの悪巧みを許すわけがないというのに。渋々と、後についてきたてるくんが言う。

「アホか。夜遅くにほっつき歩いてんのは、おまえも一緒のことじゃんか」

もっともなことだった。

「私は注意しに来たんだから違うの」

あくまでよしこは強気。本気でそう思っているみたいだった。

「早く行こうよ、みんな。よしこ、またね。親とかに言ってもいいから。多分よしこも怒られると思うけど」

僕はここで足止めを食って、せっかくの冒険がおしゃかになるのが嫌だった。僕らのやることなすこと、よしこはいつも否定する。話していて気分のいいやつじゃない。

「だな!」

僕の言葉をどうとったのか、タカちゃんは意気を取り戻す。

「じゃあな。悔しかったらママに言いつけるんだな」

優位と見るや、タカちゃんはおどけて高飛車に言い捨てて歩き出す。よしこは半泣きで僕らを睨みつけてうなっていた。

「まずいんじゃないかなあ」

モカが呟く。

「俺もモカと同じこと思ったわ。あんな風に言ったら、あいつ意地でも親に言うぞ」

「そうなんだよ……」

「う……」

まずかったかな、と後ろを振り返る。よしこの姿はもうなかった。

 この際、大目玉のひとつやふたつは覚悟はしておいた方がいいかもしれない。

 とにかく今は、秘密基地に行くことだけを考えるようにしよう。


「歌……?」

「モカ、どうかした?」

モカがあたりをきょろきょろと見回している。

「いや、なにか聞こえない?」

「寝てんのか?波の音しか聞こえねーよ」

てるくんが半身でモカの方を見ながら言って、先を歩いていたタカちゃんの背にぶつかる。

「タカちゃん……?」

てるくんが訝しげに声をかけるが、タカちゃんは立ち止まって海の方を見ている。

「女の声……?」

僕も耳を澄ます。波の音に混じって、微かに旋律のようなものが聞こえた。

「これ、基地の方からじゃない?」

僕の言葉に、三人は目を輝かせてこちらを見た。

「な、何……?」

六つの瞳に見据えられて、僕はたじろぐ。

「いいねいいね!早く行こうぜ!」

「盛り上がってきたね」

「みんな聞こえんのか?幽霊か?怨念か?」

タカちゃんを筆頭にみんな駆け出していく。出遅れて僕も後を追う。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

興奮を抑えきれないのは、僕も同じだった。

冒険の予感が胸をくすぐる。

この時の僕は、世界の主人公が自分だと信じて疑わなかった。



ガチャリ、と玄関の戸を開けて、僕はよろつきながら帰宅した。ワンルームの部屋に掲げられた時計は、もうすぐ日付が変わることを教えてくれる。服を乱雑に脱ぎ捨て、とにかくシャワーを浴びようとする。最近はようやく涼しくなってきたけれど、動けばやはり汗が滲んで、気持ちが悪かった。

頭からぬるめのお湯を流し、水と一緒に疲れが少し、流れていくのを感じた。水の音を聞いていると、今日一日のことが思い起こされる。

陰鬱な顔をして、自分の勤めるファーストフード店の看板を見上げたのが午前十一時。昼時手前で、客はまだまばらだった。

十二時過ぎから混雑し始め、忙殺される。そんな中で僕は間抜けなミスをした。

お客のところまで出向いて行って、謝ることになる。

「最初からモタモタして時間を取らせやがって」「仕事やっている自覚あるのか」などと文句を言われる。内心、ここまで言うか、と腹も立ったが、先に非を見せたのはこちらだ。ひたすらに頭を下げるしかなかった。

店に帰って、バイト仲間に「どうだった?」などと声を掛けられるのがたまらなく嫌だった。彼らが心配して言っていることはわかる。けれど、自分でもよくわからない、悔しさみたいなものが溢れ出て、みじめでならなかった。

そのあとはひどいものだった。失敗を引きずり続け、不機嫌なまま、落ち込んだまま仕事をこなしていく。長い時間だった。バイトから解放された今にして思えば、えらく店長や同僚たちの不興をかっただろうと思う。それもまた悔やまれた。

頭痛がする。こんな自分が嫌でたまらない。もうバイトを続けて長いというのに、失敗だって、人よりずっと多いのだ。


浴室から出て、ラフな格好で僕は読みかけの本を手に取った。本の中の英雄たちは、小さなころからずっと、未だに、僕の憧れであり続けている。今の僕には、この時間だけが僕の時間だった。ほかの日常など、無くなるのならば無くなってしまえばいいと思っている。

いつの間にか小説を読みふけっており、時計の針は二時過ぎを指していた。明日のバイトは早いが、もう少しならば大丈夫だろう。物語はクライマックスを迎えたところだ。


次の朝、目覚まし時計の音に無理やり起こされ、僕はやむなく洗面所に立った。寝不足のせいかどうかはわからないが、また頭痛がする。結局、昨日寝たのは四時近くになってからだった。自分でも馬鹿だったと思う。バイトに行くのが嫌で嫌で仕方なかった。

だが、迷惑をかけておいて昨日の今日で休むなど、店長が聞いたらどう思うだろうか。バイト仲間がどう思うだろうか。痛い頭を押さえて、眠気覚ましと気分転換のために、テレビをつけた。見るとはなしにぼんやりとテレビを見る。画面右上に表示される数字は、刻々と出発しなければいけない時間に迫っていたが、着替えに手をつける気にもなれなかった。

出発時間ぎりぎりになってようやく、慌てて準備をして家を出る。気持ちが急いて嫌な汗が出た。頭痛は、家にいた時よりひどくなっている。

なんとか間に合って制服で店に出る。ただただ、頭痛と闘いながら勤務時間が過ぎるのを待つばかりなのが辛かった。

そうやって長い時間をやりすごし、たまたま帰る時間が一緒になったバイト仲間に、夕飯に誘われる。断る理由もないので、一緒に近くの定食屋へ入った。

「先輩とも、そろそろ長いですよね」

ウーロン茶をすすって、彼は言う。歳も一つ上、バイト歴も半年ほど長い僕のことを、彼は先輩と呼ぶ。

「そうだね。考えてみれば相羽くんも、今年で大学卒業か」

「そうですね」

茶髪で軽薄そうな外見のわりに勤勉な相羽は、大学に行きながら僕と同じ店でバイトをしている。大学を中退してフリーターをやっている自分と、比べたくもない。

「そういえば、就職はもう決まったの?」

劣等感を隠しながら、僕は尋ねる。これは社交辞令の質問ではなく、興味があった。身近な社会しか知らない自分だからこそかもしれない。年下の彼がどういう道を歩むのか、知りたかった。

彼は彼の物語を紡いでいる。

「一応、決まってます。でなきゃ、こんな髪にしませんよ」

そういえば、一時期、彼は髪を黒く染めなおして短く切っていた。いつの間に元の茶髪に戻したのか、気付きもしなかったけれど。

「それもそうか。どんなところで働くの?」

「プログラミング関係です。名前言ってもわからないような会社ですけど」

彼はそう言ったが、謙遜しているようにも聞こえた。ふらふらしている自分の前でそんな話をするのは、どうにも居心地が悪いらしい。話題を切り替え、しばらく職場の話をして、料理を食べ終わると店を出た。会計は「俺から誘ったのに悪いですよ」と言う彼を制して「僕からの就職祝いだと思ってよ。しょぼいけど」と、自分が持った。心から祝っているわけではない。それほど仲の良い関係だとも思っていなかったし、彼の就職についても、喜ばしいことだとは思ったが、喜んでいるわけでもない。我ながら、体面にだけは少しは気が回るようになったらしいと、自嘲してしまった。


帰りに雑誌を買おうとコンビニに寄ると、白髪交じりの壮年の男性が、学生風のバイトと一緒に働いていた。よく利用する近所のコンビニなので、壮年男性とは別に、三十代くらいのオーナーがいることを知っている。なので、彼はおそらくバイトか準社員といったところだろう。壮年男性は、どんな人生を送って今ここで働いているのだろうか。

――僕は彼と同じ年齢になるまで、どんな人生を送るのだろうか。

毎日の生活が嫌だった。後輩は歩みを進めている。自分はどうだろうか。このままここで停滞し続け、本の中の英雄たちを夢想したまま、無意味に年を重ねていくのだろうか。「毎日が大嫌いだ」と言いながら。そんな人生はごめんだ。だからといって、何をしていいのかもわからない。

今までも何度か考えてきた不安が、また今の自分への失望が、目前に横たわっているような気がした。





やめてしまえば暮らしてなんかいけない。厭々ながらバイトに通いつつ、夜や休みは本を読み、昼寝をするだけ。そんな日々を、僕は未だに送っていた。頭痛は、強弱の周期はあるが、以前よりひどくなっている気がする。

退屈で窮屈な日常から抜け出したくて、求人雑誌を手に取ったりもしたが、それ以上の行動を起こすことができなかった。幼少から学生までの間、将来の不安などほとんど感じずにはしゃいでいた頃を、懐かしみ、また欲してもいた。あの頃に戻るのが不可能なのはわかっている。けれど、できることならやり直したい。そんな妄想に、囚われていた。

そんな折、大学中退以来、疎遠になっている実家から荷物が届いた。中身は僕が昔好きだった菓子や、二十歳の誕生日に父親が祝杯をあげてくれたのと同じ酒。それから、一通の手紙が入っていた。久しぶりに見る母親の字で、僕の近況を心配する言葉が短く書かれていた。

――今の僕を両親が見たら、どう思うだろうな。

そう考えると、胸が締めつけられるようだった。

後ろめたくてあまり気は進まなかったが、実家にお礼の電話を入れることにした。思えば長いこと、両親の声を聞いていない。

コール音が鳴り、しばらくすると母の声がした。

「あ、もしもし。洋介だけど」

「ああ、荷物送っといたけど、届いた?」

久しぶりに聞いた母親の声は変わらず、落ち着いていた。

「届いたよ。ありがとう」

「そりゃ、よかった。……元気にしてる?」

気遣うような話し方だった。

「病気はしてないよ」

元気だと言えば、嘘になる気がしてそう答えた。

「そう……ならいいけど」

「そっちはどう?」

「たまにあんたの友達の話を聞くよ。誰が今、何やってるか、とか」

「へえ、誰の話?」

「あんたが帰ってきたら話してあげる。たまには顔見せな」

これには僕も苦笑する。電話をするだけでもためらったというのに、合わせる顔なんてない。

「余裕があったらね」

はぐらかそうとしたが、

「こっちが呼ぶんだから今回は汽車賃出してあげる。時間、全然作れないわけじゃないんでしょ」

と、そうはさせてくれなかった。ここは、覚悟を決めた方がいいかもしれない。両親からいつまでも逃げているわけにはいかないのだから。

「参ったな……。わかった。近いうちに行くよ」

「約束したからね。汽車賃は振り込んどくから、日程が決まったら連絡頂戴ね」


半ば強引に約束させられて、僕は少しの間、帰省することにした。正直なところ、及び腰になっていて、やはり断ろうとも考えた。だが、汽車賃と言うには多すぎる金額が振り込まれていたし、店長に休みの相談をすると「たまには親孝行してこい」と言われ、一週間ほど休みがもらえた。逃げるための言い訳など、ひとつも湧いてこなかったのだった。

特急に揺られ、紅く色づいた木々を車窓から眺めながら、故郷へと戻る。片田舎の駅前は、変わらないようでいてほんの少しずつ変化していた。改札をくぐると、ロータリーに見覚えのある車が止まっていた。迎えに来てくれた父親は、少し白髪とシワが増えたようだった。

「おかえり」

父親のやさしい笑顔が、今の僕には少し酷に思えた。

自分の部屋は整理されていて、なんだか落ち着かなかった。においが変わった気がする。荷物をおろし、ベッドに腰掛ける。

ふと、高校の卒業アルバムが目にとまった。

ページを開くと、懐かしい顔がこちらに微笑みかけている。写真を見てはじめて思い出される顔もあったし、小学校から長い付き合いをしていた者もあった。

「久々に、会いたいな……」

今の彼らが何をしているのか、僕はあまり知らない。大学を中退して以来、まともにこちらに帰るのは、これがはじめてだ。


「この前よしこちゃんに会ったよ。赤ちゃん連れて、なんかもう、すっかりお母さんって感じだったわ。あんたと同い年には見えなかったよ」

酒が入って上機嫌になった母は微笑んでいる。「よしこちゃん」というのは、近所の友人で、小学校くらいまでは一緒に遊んでいた記憶がある。相槌を打ちながら、僕もちびちびと杯に口をつける。誰がどこに就職したとか、誰々が大学院に行っているらしいとか、そんな話だった。僕の交友関係をあまり知らない父親は、感心しながら母親の話を聞いている。僕はと言えば、真っ当に人生を歩んでいるらしい彼らに、嫉妬をしてしまう。けれど、嫉妬よりも友人を誇らしく思う気持ちが強かったのは救いかもしれない。

「なあ、洋介。お前、いつまでそうしているつもりだよ?」

一通り話を聞いて、父親が意を決したように尋ねる。もちろん、僕には明確な答えなどなかった。

「わからないよ……」

「今の生活、気に入っているのか?」

父親はなおも詰め寄る。大学を中退している以上、こういった話は覚悟してはいたが、やはりみじめなものだった。

「あんまり……好きじゃないかな……」

「なにか、考えはあるのか?今やっているっていうバイトの社員になるとか……」

「いや……」

押し黙ってしまうしかない。僕は目の前のグラスを一気にあけた。

「……戻ってくるか?」

「え?」

父親は空いたグラスにビールを注ぐ。慌てて僕は杯に手を添えた。父親はビール瓶を置くと煙草を取り出し、火をつけて煙を吐く。

「洋介、俺はお前が大学を辞めたと聞いたとき、何も言わなかった。お前が選んだことだからだ。ちゃんと卒業してほしかったというのが本音だったが、お前は十分に大きくなっていたし、あとは自分の人生だ。自分で責任を持ってやっていってくれればいいと思った。だけどな、今のお前は、苦しそうに見える」

父親は煙草に口をつける。先端が赤く光る。

「だからな、これは選択肢だ。今、お前が満足しているようには見えない。目標があるわけでもない。俺は、お前に、『人生なんてつまらない』なんて、絶対に言ってほしくないんだよ。これは俺の親としての意地だ。だからそのために、お前に選択肢をやる。戻ってこい。心機一転、ここで頑張ってみろ。小学校の卒業文集だったかな。お前は毎日寝て暮らしたいなんて、書いてたけどな、きっとそんな毎日、すぐにでも飽きちまうよ。わかるだろ?」

母親は何も言わない。ただ微笑んで、酒を飲み続けている。僕は、何を言えばいいのかわからなかった。

「今すぐとは言わない。考えてみろ。お前は、まだ若い。これから先は、きっと長い」

「わかった……。少し、時間をもらうよ」

父親は頷いて、グラスを掲げる。

「ま、込み入った話はここまでだ。飲もう。実はな、お前とこうやって飲む日が来るのを楽しみにしてたんだ」

家族三人で、グラスを合わせる。ありがとう。そう言った僕の声は小さくて、両親に聞こえたかどうか、わからなかった。





帰省してあくる日、両親は仕事に出た。僕はと言えば、頭が痛い。とは言ってもいつもの頭痛とは違う。二日酔いだ。あれだけ飲んで平気な顔で早起きする両親に、素直に感心してしまった。

昼過ぎにはなんとか頭痛が治まり、だるい体を引きずりながらベッドから這い出した。

本を何冊か持ってきていたが、目が冴えてくるとともに昨日の父親の話が思い出されて、読む気にはなれなかった。

戻って来いと、父は言った。自分にとって、大きな分岐点になるかもしれない選択をせまられている。椅子に座って、ぼうと考えていたが、時計の音が気になるばかりで、思考が前にすすまない。話し相手がほしかった。

携帯電話が机の上でブルブルと振動する。画面に表示されていたのは、久しく見ない名前だった。

『あ、洋介?久しぶりー』

陽気な男の声だった。

「うん。久しぶり。珍しいね、タカちゃん。どうした?」

『どうした?じゃねえよー。冷てえなー。今こっち戻ってきてんだろ?』

帰省のことは友人には話していない。僕はタカちゃんが自分の帰省を知っていることに、やや戸惑いながらも、頷いて返事をする。彼の近況は、昨日母親から聞かされている。市内の大学に通っていたが、留年して今現在四年生だということだった。彼の両親には迷惑な話だが、奔放でおおらかな彼らしいと言えないこともない。さらに言えば、親不孝というなら僕の方がそうだ。

『暇だったら出てこいよ。んーと、二時にいつものところで待ち合わせな』

「わかった。二時に、いつものところでね」

そう約束をして電話を切る。

知らないうちに僕の頬は緩んでいた。

「いつものところ、か」

そこは、目印も何もない、ただの駐車場だったはずだ。いつ、どうしてそこが「いつものところ」になったのかは、もう覚えていない。タカちゃんとは、もう二年以上も会っていないし、その待ち合わせ場所を使っていたのもせいぜい中学の頃までだ。なのに、タカちゃんはそこを「いつものところ」と言う。胸をくすぐられるような感情が湧く。きっと今、鏡を見れば、にやけた馬鹿が映ることだろう。


一時四十分。

そこに、駐車場はなかった。新しくマンションが建てられ、道路に影を落としている。中からは、小さな子供の騒ぐ声が聞こえる。

自分があちらで、毎日を意味もなくのうのうと過ごしている間にも、時間は進んでいるのだとあらためて思い知らされた。

「おー、早いな、洋介」

タカちゃんが大声で呼びかけながら、ぶらぶらと歩いてくる。そういえば、いつでも声の大きいやつだった。クラスの男子で猥談をしているときでも大声だから、恥をかいた覚えがある。少し太ったようだったが、彼は大きく変わってはいない。それが僕にはうれしく思えた。

彼の目から見て、自分はどのように映っているだろうか。どう映れば嬉しいのかもわからない。

「久しぶり」

なぜかしら照れくさい。

「久しぶりだなー。ここ、マンション建ったんだな。初めて知ったよ」

「僕も驚いたよ。なんだか違う場所みたいだ」

「だな」

短く言って、彼は周囲を見渡す。

「ま、立ち話もなんだ。洋介、昼飯食ったか?」

「いや」

そういえば今日は何も食べていない。というか、二日酔いで気持ちが悪くて、それどころではなかった。

「丁度いい。俺もだ。ファミレスにでも行こう。実は洋介が食ってても行く気だったんだけどな。今日はハンバーグだぜ!」

タカちゃんは白い歯を光らせながら親指を立てる。

「わーい」

嬉しくはない。胃と血に残る酒が、肉を拒否しているのを感じる。僕は抑揚のない声と、死んだ魚の目でそれに答えた。


ピークを過ぎたファミレスで、僕たちはのんびりと食事をする。僕の前には雑炊が、タカちゃんの前にはから揚げ定食が並べられている。

「ハンバーグはどこに行った……」

「んー。へへへ」

タカちゃんは何故か恥じらい笑う。

「そういえば何で知ってたんだよ。僕がこっちに居るの」

「ああ、今朝、美々ちゃんに会ったんだよ」

「人の母親を美々ちゃんとか呼ぶな」

僕たちは互いの近況を話し合った。とは言っても、僕の方は話題にするようなことはあまりない。この町に帰るかどうか、なんて話を聞いてほしくはあったが、言い出すこともできなかった。タカちゃんも、僕があまり話したがらないのを見て気を使ったのか、もっぱら彼の話になった。大学の単位はもう楽にとれそうで、今年の卒業は問題ないこと。旅行代理店に就職が決まったこと、長らく付き合っている彼女がいて、尻に敷かれているらしいことなどを話してくれた。

タカちゃんは変わっていない。けれど、時間は流れている。そう思った。

「そういえば、昔あの辺の岩場に秘密基地とかつくってたよな」

「ああ、そんなこともしたね。懐かしい」

いつのまにか思い出話に華が咲いている。彼は子供の頃のことをよく覚えていて、いろんな記憶が蘇った。馬鹿笑いをしながら話すのも、本当に久しぶりだった。今の話題は、小学生のころに何人かでつくった秘密基地のことだ。海辺にちょっとした洞穴を見つけて、そこに懐中電灯を持ち込んで漫画を読んだり、お菓子をもってきてだべったりしていただけなのだが、それがたまらなく懐かしく思えた。確か、あの基地は……

「夜にみんなで集まった時に、基地から変な歌が聞こえるって言ってさ」

「そうそう、結局入り口で引き返して、逃げ帰ったら抜け出したのがバレてて、親たちが集まってて、すげー怒られて、あそこに行くの禁止になったんだよな」

「ん、そうだったっけ……」

小学生の頃のことだ。さすがにあまり覚えていない。

「覚えてないのかよ。逆鱗に触れたように怒られたような気がしないでもないぜ」

「お前もうろ覚えじゃん」

タカちゃんはにやける。

「行ってみるか?」

「?」

「どうせ暇だろ?いつまでもファミレスでだべっとくのもいいけど、それも味のない話だと思わんか?どうなってるか、行って見てみようぜ。秘密基地」

僕に反対する理由はなかった。それどころか、心躍る提案に思えた。


秘密基地があった海辺まで行き、二人で探し回ったが、それらしい洞穴は見つからない。それでも、子供の頃に戻ったように話しながら歩き回るのは、それほど苦ではなかった。

「全然見つかんねえなー。来ればわかると思ってたんだけどなー」

日も落ちてきたころ、タカちゃんの携帯が鳴った。話し終わると「すまん、また今度。次はみんなで居酒屋でも行こうな」と言い残してそそくさと帰ってしまった。どうやら例の彼女からの電話だったらしい。本当に頭が上がらないようだ。

僕ももう帰ろうかとも思ったのだが、半ば意地になっているのか、もう少し粘ることに決めた。



「この辺だったと思うんだけどな」

ひとりごちながら、今日最初に来たあたりを歩き回る。ずいぶんと時間が経った。日はとうに沈んで、今は洋上に月が浮かんでいる。

――声が、聞こえた。

波の音にまざって、歌声が聞こえる。

「この歌は……」

幼少の記憶がフラッシュバックする。

「この声は……」

胸が熱くなる。一歩歩くごとに目眩がする。何も考えられない。意識が遠のくのを感じる。ただただ、熱に浮かされたように歌の聞こえる方へと歩いた。

そこに、洞穴があった。中へ踏み込むと歌が止まる。同時に、遠のいていた意識が戻ってくるように感じた。

「こんばんは」

奥から女の声がした。僕はあまり驚かなかった。

「久しぶりにお話がしたいの。いいかしら?」

洞穴の中だと、声はよく響く。僕は静かに「いいよ」と答えた。

「ありがとう」

僕は洞穴の淵の方に腰掛けた。

「どうだったかしら。わたしの歌。聞こえていたでしょう?」

「ああ」

顔も見えない相手と話している。不思議な気分だった。

「綺麗な声だったよ。それに……」

「それに?」

「やさしい歌だった」

僕の素直な感想だった。

「ありがとう」

声色はやや嬉しそうだ。

「褒めてくれる人は少ないの。私の歌を聴くとみんなおかしくなっちゃうから」

さきほど、歌を聞いていて意識が遠のきかけたことを思い出す。それでも、

「それだけすごいってことだろ。自慢していいさ」

楽しそうに彼女がくすくすと笑うのが聞こえる。

「あなたは素敵な人ね」

「そうでもないさ。あんたは僕を知らない」

視線を落とす。普段の自分の生活がふと思い起こされて、みじめな気分になった。

奥で彼女が動く気配がする。衣擦れの音とはまた違う音が聞こえた気がした。

「なぜ?」

彼女が問う。

「自分を責めているの?わたしでよければ聞かせてちょうだい。あなたが、そんな顔をしている理由」

彼女からは僕の顔が見えているのだろうか。洞穴の淵は緩やかな月明かりに照らされている。

「つまらない話だよ。聞いたってろくなことはないさ」

「どんな話?」

彼女は頑として譲る気はないようだ。僕は夜に酔ったような今の気分が、台無しになるのが嫌だった。

「つまらない人間が、つまらない人生を生きてる。これじゃ駄目だとわかっていながら、ただ生きながらえる。そんな話だよ」

「そう。でもきっとそれは、つまらないお話ではないわ」

鼻で笑う。自嘲がもれる。

「どこがさ」

「あなたが、つまらないお話だと思っているから、つまらなく感じるだけ。面白いところもいっぱいあるのに、あなたはつまらないと決めつける。それではお話は楽しめないわ」

「…………」

「わたしは、あなたとお話しできて楽しいわ。あなたは違うの?」

「……違わない。楽しいさ」

「そこに目を向けるの。それを大事にするの。そうすれば、あなたのお話は、オデュッセウスの冒険譚のように楽しくなるわ」

オデュッセウス。別の呼び方をするならばユリシーズ。波乱万丈を生きたギリシャ神話の英雄。僕が憧れないわけがない伝説。

「オデュッセウスか……」

「あなたが想えば、世界は変わる。だってそうでしょう?あなたのお話は、あなたがつくっているんでしょう?」

「そうは言うけどね。思うようにはいかないさ。どうすればいいのかもわからない」

「深く考えなくていいの。楽しいことをするの。楽しいお話を考えるの。人間は、そのために生きているのよ」

「そんなものかな……」

「そんなもんよ」

彼女はくだけた調子で言う。今まで難しく考えていた自分が急に馬鹿馬鹿しくなった。

「どうも、僕はつまらないことで足踏みしていたみたいだ」

「いいえ。それは楽しいこと。わたしは何かに立ち向かうお話は好き」

大学を辞めた後ろめたさもあって、家には帰れなかった。両親と顔を合わせるのが怖かった。そこで、僕の歩みは止まってしまっていた。帰ることもできた。あちらで意地を通して頑張ることもできた。そのどちらも選ばず、その場でうずくまって、ふてくされていた。

「しょぼい壁に阻まれちゃったもんだな。僕も」

「ふふふ。そのしょぼい壁、越えるのは楽しくない?」

「かもね。……ありがとう」

僕は自然と礼を言っていた。ここ数年ないくらいに肩と頭が軽い。考えすぎだったと言えば、それだけのことだったのかもしれない。

ゆっくりと立ち上がって、月を見る。目線の高さに浮かぶそれは、ことさら青く輝いているように見えた。

ふと、彼女のことが気になった。どんなひとなのだろうか。少し奥へ踏み込めば、顔を合わせることもできる。けれど、なんとなく、それは不粋なことのようにも思えた。

「いつもここで歌ってるの?」

「たまにね」

「また来てもいい?」

彼女が立ち上がる気配がする。

「今日のこと。きっと、あなたは忘れるわ」

「どうして?忘れるはずがない」

彼女の方から、羽音を立てて、こちらに歩いてくる。

地面を掴む大きな趾。羽毛に包まれた下半身。肩から大きく広がる美しい色合いの翼。

「忘れてもらわないと困るのよ。大丈夫。洋介、わたしは今日のこと、忘れたりしない。わたしの歌を褒めてくれてありがとう。とても嬉しいです」

唖然として言葉も出ない。上半身は肩から先の羽以外は人間のそれだった。

「あまり怖がらせるのはシュミじゃないわ」

「いや……」

片手で彼女の言葉を制して、辛うじて僕は言葉を紡ぐ。彼女は訝しげに首を傾ける。

「綺麗だ……」

薄明かりの中でも、彼女の頬が紅潮するのがわかった。

「ふふ。あなた、変人だわ」

彼女は羽を広げ、僕を包むように抱く。

「おやすみなさい」

彼女のやさしい子守歌で、僕は、堕ちるように意識を失った。





洞穴で、子供の頃の僕たち四人と彼女は、懐中電灯を囲んで笑い合っている。

モカが彼女に歌をせがんで、彼女は困ったように笑いながら歌い始める。

彼女が歌い始めると頭がぼうっとして、視界が歪んだ。

おぼろげにみんなの方を見ると、そろって蕩けたような顔をしている。

彼女はおもむろに僕を掴みよせ、羽で包むように抱きかかえる。

抵抗も何もしようがなかった。

彼女は僕の首筋をなぞり、そこに牙を突き立てる。痛みはない。血の溢れる首筋を舐める彼女に、僕はされるがままだった。彼女の髪からは、潮の香りがする。

彼女はひとしきり血を舐めて満足がいったのか、僕の肩を掴んでやさしく引きはがす。いつのまにか、僕は彼女の首に手を回し、必死でしがみついていたのだった。彼女は僕を座らせると、目を合わせたまま、口周りの血を拭った手の甲を美味しそうに舐める。

やがて、その様子を虚ろな瞳で見ていたてるくんに手を伸ばす。

――僕たち全員の、血を、飲む気なんだ。

そう思うと、身体が熱くなった。

――やめさせなきゃ。

頭と切り離されたように、思うように動かない身体を必死で意識と繋げて立ち上がり、僕は彼女に追いすがった。

――だめだ。だめなんだ。

喉に力が入らなくて声が出ない。肩に力が入らなくて腕が上がらない。あきらめるな。意識を繋げろ。彼女に、友達の血を吸わせるわけにはいかない。

腕が上がって彼女の羽を掴み、絞るようにして声が出る。

「だめ……やめ……ろ……」


自分の声で目が覚めた。

腕は天に向かって差し出されている。

「・・・・・・」

その腕を降ろしがてら、額をぺちりと叩く。

「なにこれ……」

変な夢だった。妙な自己嫌悪に襲われた。のそのそと起き上がる。実家の、自分の部屋だった。上着と靴下が床に散らかっている。

上着だけでもハンガーに掛けようとベッドから降りると、ひどい立ちくらみに襲われた。軽い貧血のようだ。

――どうやって帰ってきたんだっけ?

財布は、ある。携帯は、着信が残っているようだった。

 相手はタカちゃんだった。時間は昨日の夜だ。

 僕はタカちゃんに電話をかけてみる。すぐに繋がった。

 「おはよーさん。基地は見つかったか?」

 「基地……?」

 「秘密基地だよ。例の。あの後も探してたんだろ?」

 「・・・・・・!」

 「ん?どうした洋介?」

 「悪い、タカちゃん。後でかけなおす!」

 一方的に通話を切って、僕は上着をひっつかんで駆け出す。

 車の多い国道を越え、岸辺に降りてなお駆ける。息は上がりっぱなしだ。

 洞穴は、すぐに見つかった。

息を整えながら奥へ進む。何の気配もない。

「・・・・・・」

鼓動と呼吸を収めながら、辺りを見回す。

「羽……」

先が黒っぽく根元が白い、大きな羽が落ちている。彼女のものに間違いない。そう思えた。

あのとき、僕は彼女が友達の血をすすることを止めた。

――なぜ?

友達を、化物の手から守ろうとした。

――違う。

「独占欲……か」



住み慣れた部屋は段ボールが二つと旅行鞄が一つ置いてあるだけになった。カーテンのない窓から零れてくる陽の光が眩しい。

空が高い。今日は、雲ひとつない快晴だった。

「先輩、今の袋が最後でよかったですか?」

開け放してある玄関から相羽が顔を覗かせる。

「ああ、これで全部だよ。いろいろありがとう。すまんね」

「いいんですよ、先輩。水臭いです」

彼は照れくさそうに笑う。

バイト先の店長に実家に戻ると報告して、辞める間際に餞別のお菓子を置いてきた。嫌で仕方のなかったバイトだったが、よくしてくれた店長には申し訳なくもあったし、知らない間に愛着も湧いていたらしい。感謝の気持ちと、名残惜しむ気持ちを、それとなく手短に書いて脇に置いておいた。相羽はそれを見て連絡をくれ、僕が事情を話すと引越しの手伝いを申し出てくれたのだった。正直なところ人手は欲しかったので、彼の言葉に甘えさせてもらっている。

「それじゃ、段ボール宅急便で送っちゃって、遅くなったけど昼飯にしようか」

相羽の車に荷物を載せて、コンビニで宅急便を頼む。

このコンビニを利用するのも最後だろう。振り返って、店を目に焼き付けようとする。ここしばらく、何をするにつけてもこの調子だった。この町にも、愛着くらいは湧いていたらしい。

ふと、見慣れた壮年男性が視界に入った。店の裏手で煙草を吸いながら、学生らしき若者と大声で笑いながら話している。

「先輩、なに笑ってんですか?」

相羽は不思議そうに僕の視線の先を追う。

「ん、僕、笑ってた?」

「はい、なんかすげー嬉しそうに」

「そっか」

尚も笑う僕に、彼は首を傾げるばかりだった。


重いバッグを隣の座席に乗せて、僕は息をついた。

こちらで生活することを選んでも、きっと前よりは楽しめただろう。相羽とも、まだ見ぬ後輩とも、もっといい人間関係を築けたかもしれない。日常は、無意味でなんていられなくなっていたはずだ。

それでも僕は故郷を選んだ。

セイレーンの誘惑に、負けっぱなしのオデュッセウスがいてもいい。





読んでいただければ幸い。感想がいただければなお幸い。手厳しい批評が一番欲しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ