第8話:記憶喪失でも変わらなかった居場所
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美味しい手料理でお腹を満たした後は、二人で並んで食後の勉強会です。
窓の外の景色が、少しずつ鮮やかなオレンジ色に染まり始めていた。
「なるほど……そういうことか。ここの公式を先に当てはめるのか」
「うん、そう! 湊くん、やっぱり飲み込み早いね」
ノートを覗き込んでいた結愛が、パッと顔を輝かせて拍手をしてくれる。
彼女の教え方が丁寧で分かりやすかったこともあり、俺の頭と手は、驚くほどスムーズに高校の数学の感覚を取り戻し始めていた。
全く見覚えのない数式でも、理屈さえ分かればスルスルと解ける。
まるで、一度完全にマスターした自転車の乗り方を思い出すような感覚だった。
「神崎さん……じゃなかった。結愛の教え方、すごく上手だな。おかげで助かったよ」
「えへへ、よかった。……あ、もうこんな時間だね」
壁掛け時計が夕方の五時を回っているのを見て、彼女は少し名残惜しそうに立ち上がった。
俺も立ち上がり、一緒に一階の玄関へと向かう。
「今日は本当にありがとう。ご飯も作ってもらって、勉強まで教えてもらって」
「ううん、私がいっぱいお話ししたかっただけだから」
靴を履き終えた結愛は、ドアノブに手をかける前で少しだけ躊躇うように立ち止まった。
そして、上目遣いにこちらを見つめ、小さく口を開く。
「あのね。……もしよかったらなんだけど。明日の学校帰りにも、また寄ってもいいかな? 勉強の続き、やろうよ」
「えっ」
てっきり、明日からは俺が一人で勉強しなければならないと思っていたから、その提案は驚きだった。
同時に、胸の奥でパッと明かりが灯ったような嬉しさが込み上げてくる。
「いいの? 結愛さえよければ、俺はすごく助かるし……待ってる」
「っ……! うんっ。じゃあ、また明日来るね!」
俺が素直に答えると、彼女は今日一番の満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに小さく手を振って帰っていった。
バタン、と玄関のドアが閉まる。
一人になった途端、家の中が急に静まり返ったように感じられた。
自室に戻ると、部屋の中にはまだ、彼女の甘い香水と、お昼に作ってくれたご飯の匂いが微かに残っていた。
その温かい残り香に不思議な心地よさを感じながら、俺は大きく伸びをした。
すっかり日が落ちた、夜の自室。
ベッドに仰向けに寝転がった俺は、意を決してスマートフォンの画面を開いた。
連絡先の一覧から、中学時代からの親友である『柴田涼』の名前を探し出し、トーク画面を開く。
涼なら、俺の中学時代からの性格もよく知っているし、一番気兼ねなく連絡できる相手だ。
『夜分にごめん。実は金曜日に事故に遭って、記憶喪失になっちゃったんだ』
単刀直入にそうメッセージを送信する。
すると、数十秒も経たないうちに『既読』がつき、すぐに返信が飛んできた。
『マジで? ていうか記憶喪失なら、今俺にLINEできてるのおかしいよね。どこから忘れてるの?』
その的確で落ち着いたツッコミに、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
『高校に入学してからの記憶が全部ないんだ。だから、明日の学校のことも全然分からなくてさ』
『そっか……。それ、本当に湊本人だよな?』
『本当だよ。……なあ、涼。一つ聞きたいんだけど』
俺は、今日一日ずっと気になっていた、一番の核心に触れる質問を打ち込んだ。
『今日、うちに神崎結愛さんが来てくれたんだけど。俺とあの子って、学校でどういう関係だったか分かるかな?』
送信ボタンを押す。
すぐに既読はついたが、そこから数分間、返信の吹き出しは現れなかった。
――画面の向こう側。自分の部屋でスマホを見つめていた涼は、小さく息を吐き出していた。
(事故から二日経っても、本人が神崎さんとの関係を知らない? ……なるほどね)
涼は持ち前の頭の回転の速さで、瞬時に事態を察した。
湊の両親も、そして神崎結愛本人も、湊が混乱しないように、あえて付き合っていた事実を隠して接しているのだろう。
だったら、外野である自分がここで余計なことを言うべきではない。
数分の沈黙の後、涼から俺のスマホに返信が届いた。
『悪いけど、それは俺の口から言うべきことじゃないかな』
数分の沈黙の後、涼からそんな返信が届いた。
そして、すぐに次のメッセージが続く。
『それより、明日から学校には来れるのか?』
『明日はお休みして、火曜日から行くことになってるんだ。……変なこと聞いてごめんな』
『気にしないで。火曜日に学校に来れば、自然と色々分かると思うよ』
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
俺は続けて、今日結愛から聞いたばかりの明日の予定を打ち込んだ。
『うん。あ、そういえば明日は、先生がクラスのみんなに俺の事情を説明してくれるらしいんだ』
『そうなんだね、分かった。じゃあ俺もしっかり話を聞いておくよ。色々不安だろうけど、俺は味方だから安心してな』
その優しくて力強いメッセージを読んで、俺は深く、深く息を吐き出した。
張り詰めていた肩の力が、スッと抜けていく。
「……やっぱり、あいつは昔から頼りになるな」
親友から向けられる、昔から変わらない穏やかで真っ直ぐな友情。
それは今の俺にとって、確かな足場のような安心感だった。
でも――と、俺は自分の胸に手を当てて思う。
今日、結愛のご飯を食べた時に感じた、あの涙がこぼれるほどの安心感。
あれは、涼に対する友情の安心感とは、ベクトルが全く違っていた。
もっと深くて、甘くて、自分の心のずっと奥にある柔らかい部分を、直接撫でられるような感覚。
俺の舌と身体は、間違いなく彼女からの特別な愛情を知っていた。
中学時代には絶対に知らなかった、あの満たされるような感情の正体は、きっと火曜日に学校へ行けば分かるのだろう。
「……また明日も、結愛のご飯、食べたいな」
暗い天井に向かってポツリと呟き、俺は目を閉じた。
彼女の残り香に包まれた部屋で、俺は事故に遭ってから初めて、一度も目を覚ますことなく深い眠りについたのだった。
第8話をお読みいただき、ありがとうございました!
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