第9話『救済の欺瞞』
オーバーラップWEB小説賞、応募作です。よろしくお願いいたします
司祭の後を辿るように、大人たちも部屋を出ていく。
「気を確かに」「また来るから」とソニアの知人らしき人々は別れを告げた。
「君たちも、司祭様のところで祈らせてもらうといい」
町医者が部屋を出る間際に足を止めていた。
「祈って治るものなの? 結局は、ただの流行り病でしょう」
「少なくとも、薬草よりは期待できる。何人かはそれで死なずに済んだ」
「本当に?」
懐疑的だった。イザナは様々な国を渡り歩いてきている。宗教について一定の理解はあるが、法術と違って、祈祷で物理的な変化が起きないことも経験済みだ。
「あなたには悪いけど、もっと腕の良い医者なら手が施せるんじゃないのかしら」
イザナの現実的な意見に対して、町医者は唸った。
「あるいは、そうかもしれん。だが呪いさえ治せるとなりゃ、貴族や皇帝お付きの医者だろう。スラムの人間がいくら持ち寄っても、雇える金額には到底届かんよ」
町医者もそれを最後に部屋から去ってしまい、イザナたち三人とソニアだけが残された。
「お金があれば……」
床に膝をついたまま沈黙を保っていたリセルが、はっとしたように面を上げる。
「お金さえあれば……」
「リセル……?」
「今、先生はお金さえあれば治せるって言ってましたよね」
「え、ええ。でもあの口ぶりじゃ、厳しそうだったけど」
こちらの反応など構うこともなく、リセルは納得したように何度もうなずいている。
「少しでも助かる道があるなら……」
ソニアが咳き込む。
すると、我に返ったようにリセルが立ち上がった。
「待ってておばさま。位の高いお医者様を呼べるかもしれない」
言うが早いか、彼女は部屋を飛び出していってしまう。
「ちょっと、どこに行くのよ」
すぐに後を追おうとするものの、「ちょいとあんたたち」と、ソニアが初めて声をかけてきた。
振り返ると、近くに来るよう手招きしている。弱々しい動きだ。
イザナは不審がりながらも、ソニアの口元へ耳を寄せた。
「あんたたち、あの子の知り合いみたいだね」
「ええ。まあ、そうなるわ」
「こんな体たらくじゃ、礼なんて何もできないんだがね。どうか、あの子のことを頼めないかい」
息切れの合間に差し込むような話し方だった。
リセルを含め、知人たちの前では気を張って振る舞っていたのだろう。実際はかなり病状が悪化しているのではないだろうか。
「もう長くないような言い草ね。今のうちに遺言なんて……あなたは賢明だわ」
「イザナさん」
後ろにいたアンテルスに咎められたが、イザナは間違っているとは思わなかった。幾人も死に追いやったからこそ、彼らの無念さを誰より知っている。
苦しいだろうに、ソニアは笑った。
「あんたは変わってるねえ。こういうとき、普通は神妙に承諾だけするもんだよ」
「そう。でも残念ね、あたしはずっとこの街に居座るつもりはないの。別の人間に頼むことね」
するとごく自然に、ソニアは腕を伸ばしてきた。
イザナの後頭部にかさついた手が添えられる。
生きている人間の温もり。
なぜか懐かしさが溢れてくる。
感染のことなど全く気にしていないが、このままではいけないと、イザナの内側で警告を鳴らす角笛が鋭く鳴っていた。
「ちょ、やめなさい」
ソニアは手を緩めない。
「あんたは、スラムの子たちと同じ目をしてるね」
「……どういう意味よ」
拒むことを止め、ソニアに向き合う。何を言い出すのだ、この女は。
「ずっと飢えてきたんだろう」
「おあいにくさま。狩りは得意で、飢えたことなんてないわ」
ソニアはゆっくりと頭を振った。
「人の愛情に、飢えてるのさ」
鼻先がつんと刺激される。
「なっ……」
目頭に水気を感じた。死角から矢で射られたような唐突さ。ムキになって反論するのも肯定しているような気がして、イザナは暴れたい気持ちを抑えた。
「なによ」
隣から視線を感じた。
「いいえ。なんでもありません」
口を尖らせたが、ソニアとのやりとりを静観していたアンテルスは茶化すことはしなかった。なぜかそれが余計に気恥ずかしかった。
「あの子も同じでね。一人じゃいずれ潰れちまう。両親を早くに失くして、孤児の面倒を見て、無理やり姉をやっちゃいるが……ときおり、羽を休める相手が必要なんだ。あんたたちくらい歳の近い兄や姉がいたら、と何度も思ったもんさ」
「……そんな状態でよく喋るわね」
反撃も込めたイザナの皮肉に、ソニアは目を閉じた。満足げな表情をしている。
死を前にして、ここまで穏やかでいられる人間をイザナは知らない。
「あなた、死ぬのが怖くないの?」
自分の命が尽きることよりも、リセルを託せる相手を見つけて彼女は安堵さえしている。
胸元で手を組むだけで、ソニアから返答はなかった。
やがて寝息が聞こえ始め、イザナとアンテルスはそっと部屋を後にした。
二階に戻ると、入口の扉が勢いよく開いた。
飛び出してきたのはリセルだ。イザナの肩に額をぶつけ、半歩下がる。
「あ、ごめんなさい」
彼女はよろめくような足取りで身を引き、視線を逸らしたまま横切ろうとする。まるで他人を相手にしているようだった。
「待ちなさい。どこに行くつもり」
行く先を塞ぐように通路の真ん中に立つと、ようやくリセルは面を上げる。つつけば脆く崩れそうな、切羽詰まった表情だった。
「退いてください、急がないと手遅れに……!」
彼女の小さな唇は震えていた。
「何をされるのかだけでも、お教えいただけないですか」
アンテルスが後ろから口を挟む。
「今しがた、我々は頼まれたのです。ソニアさんはあなたのことを実の娘のように心配しておいでです」
「ソニアおばさまが……」
イザナはリセルがずっと左手を握り込んでいることに気づいた。
「何を持っているの?」
指摘すると、リセルは隠すようにその手を胸元に引き寄せる。
「中で窺いましょう」
有無を言わさず、アンテルスが強引にリセルとイザナの背中を押した。
二階に人の気配はなかった。フェリクスは煉瓦職人の下働き、残りのまだ幼い三人も手伝いのような仕事を行っているのだという。
万が一にも子供たちに聞かせたくないと言い、リセルは自室へイザナとアンテルスを招き入れた。
上擦ったリセルの呼吸だけが、三人の間に流れる。
イザナはベッドの縁に、リセルは書き物用の机に腰かけ、アンテルスは扉脇の壁に背中を預けた。
「さっそく、見せていただけますか」
アンテルスが切り出すと、リセルは観念したように手のひらを開いた。
光が鈍く跳ねる。
反射した物の正体は、指輪だった。リング中央に埋め込まれた宝石は、深い森をそのまま封入したような濃い緑だ。つるりとした表面に花のレリーフが刻まれている。凝った意匠だ。高価な物に違いない。
「それは……」
アンテルスが驚愕したように壁から背を浮かせる。出会ってからまだ日も浅いとはいえ、彼がうろたえるのは初めてだ。
「代々、引き継いできた指輪です。たぶん、これが無かったら自分が貴族の家系だなんて信じていなかったでしょう」
「そんな大事な物をどうする気だったの」
リセルは黙り込んだ。そんなつもりはなかったのに、彼女は叱責された子供のように俯いている。
窓から風がそよぎ、慰めるようにリセルの髪をそっと揺らした。ほんのひとときが、日の傾きほど長く感じられる。
やがて、ひくつくように喉を鳴らし、リセルは告げた。
「……売ろうと思います」
指輪を乗せた手が硬く握られる。何世代も受け継がれてきた歴史を、彼女は断ち切るつもりなのか。
「ソニアのため?」
うなずくリセル。前髪で陰っていて目元は窺えない。
イザナは痛々しく思った。リセルは、彼女自身も信じていない希望に縋っている。
たしかに『もし治せるなら最上級の医者』、『スラムの人間では雇えない』そういうやりとりを町医者と交わした。だがそれは金を理由にして貧しい者に諦めを呑ませる口実だ。
イザナでも分かるような答えを、リセルが分からぬはずがない。
なのに、その彼女は誰もが見放したソニアの病状を、『金さえあれば治る』と答えを転化している。
「リセル。さっきのあれは、諦めろってことよ」
彼女を半端に支えているものを、蹴飛ばすように断言した。
だが、リセルは怒りをぶつけるように自身のふとももに拳を叩きつけた。
「そうかもしれません、でも少しでも望みがあるなら、高位なお医者様に診ていただきたいんです……!」
感情が溢れ、一滴、二滴とリセルの膝元を音もなく濡らした。心に穿たれた穴のようにぽつぽつと、暗い斑点が布地に浮かぶ。
「司祭様も仰っていました、神様は見ていると」
リセルは唇を噛み締めてから言った。
「ソニアおばさまも聖人様を崇拝していて、わたしの家族も代々敬ってきました。でも、その結果がこれじゃ……」
とうとう両手で顔を覆ってしまう。
彼女からすれば、裏切られたような気持ちなのかもしれない。ずっと教えを信じて、貧しさや苦しさに耐えてきたのだろう。だが結果は、親しい人たちとの別ればかりだ。
「そんなの、ただの偶然でしょう」
「違うんです」
リセルは懺悔するように、「それだけじゃないんです」と真っ赤な目をこちらに向けた。
「わたしは、教会のお世話にもなっているんです。生きていくためには、必要だったから」
司祭に伏していたリセルの姿がまぶたにちらつく。彼女は聖人アンテルスを崇拝しながら、何らかの施しを教会から得ることで食いつないで来たのだろう。
「だから、悪いのはソニアさんじゃない。わたしのせいなんです、ぜんぶわたしへの罰なんです」
「罰……」
「わたしが……ずるい人間だから。見捨てられているんです」
涙まじりに、リセルは自嘲した。
胸が締め付けられる。その自分の心に、イザナは戸惑った。
「ですからお願いです。行かせてください。わたしに祈る資格なんてない。こんなわたしのせいでソニアさんが亡くなるなんて、考えたくないんです……!」
立ち上がるリセルの両肩を、掴む者がいた。アンテルスだ。
その物腰は、厭らしさも強引さもない、我が子の不安を見透かしたような鷹揚な手つきだった。
「なおのこと、行かせられません」
「どうして!」
「あなたが救おうとしているのは、本当にソニアさんですか?」
虚を突かれ、リセルが息を呑む。
「自分を、救おうとしていませんか?」
諭してくるアンテルスに、冗談の色は微塵もない。
その彼をリセルは黙って見上げている。悲哀と憎悪がない交ぜになった複雑な横顔だった。
自分を救おうとしている。
その一言は、イザナの古傷をも刺激していた。




