第8話『帝国の呪い「瘴気病」』
オーバーラップWEB小説賞、応募作です。よろしくお願いいたします
「もう、大丈夫です。自分で歩きますから」
リセルはイザナから離れ、入口の木製扉をノックした。
すぐに人の気配が近づいてくる。
「おお、リセルか。ソニア姉さんのことを聞いたんだね」
中から出てきたのは年配の男だった。ソニアの弟らしい。その男は歓迎するように頬を緩ませた。しかし、眉間の縦皺は深く刻まれている。
「おばさまの容態は……?」
男は首を振り、無言で扉を開け放つ。
……その沈黙が答えだった。
リセルは胸元に添えた手をきゅっと握りしめて、意を決するように足を踏み入れる。
内装は二階とよく似ていた。リビングに近い一室だけ部屋の扉が開いている。
覗き込むと、中央のベッドに痩せ型の女性が横になっていた。
彼女がソニアだろう。
だいたい五十歳くらいか。魔女のような鷲鼻が印象的だが、目尻には微笑みの年輪が刻まれていた。
「リセルか。来てくれたんだね……」
「おばさま!」
急に幼い子供に戻ったかのように、リセルが胸元にすがりつく。
その彼女の頭を、ソニアは優しく撫でる。穏やかな仕草に反して腕はむくみ、働き者の逞しさを残していた。
「どうしておばさまが……」
「死んだ旦那が急かしてるんだろうさ、まったく最後までろくでなしだよ」
自虐的にソニアは語るが、息が浅く、逆に痛々しさが漂う。
「そんなこと言わないで。またすぐによくなるから」
リセルに目線だけでうなずく。彼女は喋るのも辛いのかもしれない。
「もうその辺にしなさい。君まで感染ってしまう」
初老の男が部屋の奥から声をかけてきた。部屋の隅に五、六人の大人たちが陣取っている。その中の一人だ。
男の身なりは少し浮いていた。腰ベルトに液体の入った小瓶や複数の小袋を下げていて、近寄りがたい雰囲気がある。部屋に満ちる酸味のような匂いの元は、彼だろう。
「ソニアさんを診ていただいた、お医者様ですね?」
戸口の側、イザナの隣にいたアンテルスは風貌から相手の素性を察したらしい。
身なりの割に丁寧な言葉遣いだったからか、相手の男は面食らったような表情になる。リセルが評したように、彼が畏まると気品が滲む。
「医者、なんて大層なもんじゃない。ただこの辺の患者は薬売るついでに診とるだけよ」
スラム周辺だけの面倒を見ている町医者といったところか。
「ソニアさんのご病気について、お教えいただけますか?」
「……病状からして、おそらく瘴気病だ。これからさらに悪化する」
イザナの知らない病だ。
世情に詳しげだったアンテルスも訝しんでいる。
「瘴気病というのは聞いたことがありませんね。どんな病気なのですか?」
町医者はため息を返した。こちらの無知に対してというより、やるせなさを紛らわしているようだった。
「瘴気病にかかると、元気だった人でもいきなり高熱で倒れるんだ。特徴的な発疹の予兆があってな。おれの薬やハーブじゃ、あまり効果が期待できん」
「本人の体力次第、ということですか」
「……わからん」
「わからないって、あなた医者じゃないの」
思わずイザナは口を挟んだ。
「言っただろう、おれはただの薬売りだ。それにこいつは、もはや病気じゃないんだ」
「病気じゃない……?」
「帝国の呪いだよ」
大槌が振り下ろされたように、静寂が広がる。
町医者の後ろに控えていた大人たちはばつが悪そうに視線を逸らしていた。
「……呪い?」
「あぁ、言い方が悪かった。あくまで病気だ。だが、呪いとしか思えない病なんだ」
つまり、それは不治の病であることを示唆しているのだろう。
「ですが、原因不明というだけではなさそうですね」
アンテルスが見透かしたような口調で問うと、町医者は観念したようにまたため息をついた。
「呪いの原因は、マルクス皇帝が神の怒りを買ってるっていうのがもっぱらの通説さ。おれもそう思う。皇帝は神に近い存在でありながら、民衆をないがしろにしているからな。その不道徳ゆえにフォルトゥナ様に見放され、亡くなった者たちの怨念が、国を死へ追いやってるんだ」
誰も意義は唱えなかった。彼が述べたことは帝国では普通のことなのかもしれない。
ただ、その物言いはいわゆる不敬に当たるのではないか、とイザナは訝しんだ。
「おばさまは何の罪もないのに……」
恨みに近い呟きが大勢の間にすっと差し込まれた。
「どうして呪われなくちゃいけないの……?」
ベッドの縁に、リセルは顔を伏せた。その言葉は屋根に染み出す雨水のように、彼女の鬱積した悲哀がこぼれ落ちた音だった。
イザナは目を丸くした。この場にいる大人たちにも動揺を与えていた。
――この娘も怒ることがあるのね。
清貧の体現者のように感じていた彼女にも、人並みの暗い感情があるのだ。
つい先刻まで怖いとさえ感じていたのに、イザナは子犬が虚勢を張っているような印象を抱いた。健気なまでに献身的な彼女は、精一杯背伸びしたものではないのかと。
町医者は取りなすようにぼやく。
「そればかりは神のみぞ知るところ。誰もが明日は我が身というわけだ」
「つまり、今回はたまたまソニアさんが選ばれてしまった、ということですね」
アンテルスが鋭く指摘しても、誰も何も言わなかった。
イザナはただ沈痛そうな表情をしている大人たちに、穿った見方をしてしまう。ソニアを心配しながら、自分たちでなくて良かったと安堵しているのではないか。
「ソニアさんは聖人様を崇拝されておられましたからね」
背後から老人の声が割り込んでくる。
振り返ると、イザナでも神職と分かる格好の男がいた。
白い法衣に、十字架の刺繍の入った金縁のストール。額から上は白布で覆っている。みすぼらしい格好ばかりの人々の中で、そこだけ浮いたように明るい。
おそらく司祭だろう。
戸口付近に並んでいたイザナとアンテルスが道を譲ると、その老いた司祭はゆったりとした動作で頭を下げた。
「失礼いたします」
彼は静かにソニアの足元で跪いた。首から下げた十字架を指先でつまみ、額に掲げる。
たっぷりと祈りを捧げている傍ら、アンテルスは「変ですね……」と隣のイザナさえ聞きこぼしそうな小さな呟きを漏らしていた。
司祭は祈りを終えて立ち上がると、ソニアを見下ろした。
「瘴気病に、私の祈祷がどこまで通用するかはわかりません。ですが完治するまで、ソニアさんのために精一杯祈らせていただきます」
「……いらないよ。あたしゃ聖人様しか信じちゃいないからね」
「不安になられるのも致し方ありません。ですが呪いを断つには我が父の祝福を受け入れていただくほうが良いでしょう。さすればあなたのように別の神を信じておられる方のことも、快く救っていただけるはずです」
ソニアの憎まれ口に対しても、老いた司祭は柔和な表情を崩さない。
イザナは自分を棚に上げて、この老人に人間らしからぬ違和感を持った。
もう少し気遣う素振りがあるものではないか?
この司祭は案じるような言葉を発しながらも、重病のソニアを前に、あまりに淡々としている。
「昨日は、何やら大変なことが起きたそうですね。ネクロスの祠に現れた死神が、兵士を七人も殺したとか」
司祭はその場にいた全員に語りかけてくる。イザナもリセルもアンテルスも、無反応を貫いた。だが、イザナとアンテルスがよそ者であることは隠しようがない。
司祭はイザナに目を止めた。糸のようだったまぶたが開かれ、含みのある笑みを浮かべる。
「なんでもその下手人は、見たこともない美しい女だったとか。捕まれば、それなりの仕打ちを受けることでしょう。我らが父の名のもとに」
探るような視線。いや、当事者だからこそそう感じてしまうのか。
心を凍てつかせてイザナが平然と見返すと、司祭はごく自然な動きで顔を背けた。
外見は聖職者そのものだが、この男の本質には煤けた匂いがする。
大人たちはソニアの手前か、落ち着かない様子だ。聖人アンテルスを信奉していたことはこの場の誰もが知るところなのだろう。そして外で聞いた噂話と同じ見解を抱えているのだ。
「兵士たちは確かに横暴だったのでしょう。その報いを彼らは受けたと言えます。では亡くなった信者たちは? これも同じでしょう。私は彼らの信仰を否定するわけではありませんが、誤った道を歩む者には罰が下るものです」
ぴくり、とリセルの肩が動く。だがそれだけだ。反論したい気持ちに蓋をしたのかもしれない。
「ですから、私はソニアさんに降り掛かった呪いも、神の御手によるものかもしれないと考えています。彼女の潔白を訴えれば、慈悲深き父はきっと呪いから解放してくださるでしょう」
司祭の演説に、イザナたち三人を除く面々が神妙にうなずいていた。どこか救われた顔だ。
そうか、とイザナは思い当たる。
司祭は彼らの不安を払拭したのだ。ソニアが病に罹ったのは誤った信仰にある、と断じて。
「彼女のため、亡くなった方々の冥福のため、礼拝を希望される方はいつでもお待ちしていますよ」
司祭は深々と頭を下げた。大人たちは顎を引いて礼を示す。
意外にも、リセルまで床に深々と頭を垂れていた。てっきり聖人崇拝側のリセルは反発するかと思っていたのだが。
「では、私はこれにて失礼いたします。ソニアさんの御身に幸あらん事を」
すれ違いざま、司祭と視線が交錯する。口端には笑み。値踏みされているような不快感が湧いた。




