第17話『鋼鉄の足音』
朝食を終えたあと、イザナとリセル、ソニアは後片付けを始めた。アンテルスは子供たちに捕まり、好き放題にもみくちゃにされている。
「あとの心配事は、パルコダモス様だけだね」
イザナが甕から水を掬っていると、ソニアが独り言のようにぼやいた。彼女は鍋に洗浄用の灰をまぶしているところだった。
「パルコダモス?」
「わたしたちの庇護者みたいな方です。すごく権力のある貴族様なんですけど」
隣で食器の汚れと水気を布で拭き取っていたリセルが説明した。
帝国には選挙という制度がある。国の役人を投票で決めるそうだ。貴族は市民の世話を買って出る代わりに、庇護された市民はその貴族を支持する。そういう持ちつ持たれつの関係らしい。ちなみにフェリクスがパンを配給所でもらえるのは、リセルが市民権を得ているからだ。
「お祈りのあとは、パルコダモス様に表敬訪問するのが日課だったんだけどねえ。少し前からずっと伏せっておられて、しばらく誰の前にも現れてないんだよ」
瘴気病ではないかという疑いがよぎるが、イザナはすぐに否定した。ソニアの経過を鑑みると、あの病は患ってから死に至るまでの期間はあまりに短い。
「この一帯で、みんなが協力できるのもパルコダモス様のおかげだと思います」
「……そう」
彼女たちにとっては大きな悩みなのかもしれないが、イザナにとってはあまり興味が湧かない話だ。
ただ治安という面に関しては、一理あるようには思う。帝国は村落と違い、平等に収穫物や富が分配されるわけではない。不平等な生活を強いられる層がいる。貧しさは争いを生む。だが、食べ物の取り合いや諍いに遭遇していないのは、権力者の存在が理由というわけだ。
「面白い話をしていますね」
子供たちと戯れていたはずのアンテルスが、口を挟んでくる。彼はミリエルを肩車したまま台所に入ってきた。
「しかし、スラムの方々は投票権をお持ちではないですよね」
「そこがあの方の良いところさ」
ソニアが応じる。
「何の得もないはずなんだけどね、ご自身の財産から施しを与えてくださるんだよ」
「素行が悪いと、その施しも受けられなくなりますから」
イザナは水洗いを終えた最後の器をリセルに手渡した。
「じゃあ、そのなんとかっていう貴族だけが損をしているわけね」
率直に感想を漏らすと、こちらに振り返ったアンテルスが渋い顔をする。リセルも困ったような苦笑いだ。
「イザナさん……」
彼らの反応の意味が分からない。だが、非難されていることだけは理解できる。
「あんたは本当に面白いね。まあ、そういうことだよ。パルコダモス様だけが損をしてるのさ。その尊さこそが、多くの支持者を集めているんだけどね」
ソニアだけが笑っていた。美徳に感心を示すところだったということか。やはりまだ彼らとは価値観の差異がある。
イザナがため息を吐き出したところで、大声が外で響いた。
「ソニアさん! いるんだろ!」
大勢の気配。ざわつきから、階下に人が集まっていることは察せられた。
ソニアは洗い物を終え、怪訝そうに窓辺に移動した。彼女の後ろから、イザナもそれとなく外を窺う。
全部で、五十人はいるだろう。それも、半数近くが咳き込んだり、身体のどこかに布を巻いていたり、顔色の優れない者ばかりだ。
「なんだい、あんたたち」
ソニアがつっけんどんに声をかけると、比較的体調の良さそうな男がこちらを指さした。
「あ、そっちにいたのか! なあソニアさん、こいつらも助けてくれよ」
「何の話だい」
「すっかり噂だよ、あんたが瘴気病から治ったって! 聖人様のおかげだって聞いたよ。あんたの知り合いなんだろ?」
男の目は、浅ましく何かを期待する光に染まっていた。
他の者たちも二階を見上げている。言葉を発しているわけでもないのに、全身から、ソニアのおこぼれにあやかろうとする意思を漂わせていた。
「帰りな、あの人は旅の流れ者さ。もういない」
「嘘を言うな!!」
突如、怒気をはらんだ声が辺りにこだました。
「自分だけが助かって満足か? おれたちだって、ずっと辛いんだ!」
ソニアは唇を噛んでいた。彼女の無念さが伝わってくる。治癒された本人が何を諭したところで、相手は納得しないだろう。
「まだ隠すってんなら、別にいい。勝手に探させてもらう」
男は右足を引きずっていた。その手には、薪割り斧が握られている。
「え、やめっ……」
ソニアの隣から顔を出したリセルが思わず叫ぶが、遅かった。
鈍く木材の裂ける振動が、二階の部屋にまで伝わってくる。
「あんの馬鹿たれが」
毒づくソニアが急いで部屋を出ようとしたが、アンテルスがそれを制した。彼は窓から顔を出して呼びかけた。
「私ならここにいます。ですが、危険な行為をされる方には、きっとフォルトゥナ様の恵みは訪れませんよ」
寛容なようでいて、その実、鋭く楔を打つ物言いだった。
現に、傷病者たちはアンテルスの言葉に少なからずたじろいでいる。フォルトゥナがいかにこの土地に根付いているのか、イザナは改めて実感した。
ソニアと口論になった男も二階から見える位置まで戻って来た。得意げに鼻をこすっている。
「やっぱりいるじゃねえか」
まだ嘯く男。虚勢だとは分かっていても、イザナは殺してやりたい気持ちになった。
騒ぎを聞きつけてか、建物の角から野次馬が現れ始める。不安そうな者もいれば、この状況の察しがついて好奇心たっぷりに眺めている者もいた。
「みなさん、とりあえず並んでいただけますか。他の方々の迷惑にならないように」
アンテルスは階下の人々に呼びかけ、自ら一階へと赴こうとする。
イザナはその彼の肩を慌てて掴んだ。
「ちょっと、本当に行く気?」
振り返ったアンテルスはあっけらかんと「ええ、そうですが」と答える。至極当然と言わんばかりの態度だ。昨晩の言い合いも、覚えていないのではないか。
「お気遣いありがとうございます。ですが、もう良いのです。覚悟はしていましたから」
「覚悟って……」
「こうなることは分かっていました。私が一度この力を使えば、どこからでも人々は助けを求めてくる。過去に経験したことです」
過去。二百年前にも、同じことがあったというのか。
アンテルスは会話を打ち切るように、踵を返した。
「アントニウスのことは任せておきな。あの馬鹿も次はないからね」
腕まくりしてソニアはアンテルスの後を追う。
イザナも向かおうとしたが、リセルに止められた。
「イザナさんはここで子供たちをお願いします。あんなにたくさんの人がいれば、イザナさんのことを覚えている人もいるかもしれません」
リセルの後ろ姿が扉の外へ消える。
一方的に言い渡され、イザナは子供たちとともに部屋に残された。
ミリエル、プルクラ、キケルの三人を窺うが、彼らは好き勝手に遊んでいる。しばらくは問題ないだろう。長兄のフェリクスに任せられれば安心だが、残念ながら彼は朝食が終わるとすぐに働きに出ていた。
仕方なく、再び二階から地上を見下ろす。窓の脇に身を寄せ、外から見えない位置に身体を隠した。
ほどなくして、アンテルスが斧を持った男に歩み寄っていく。リセルとソニアは少し離れて後ろに控えていた。
二、三の言葉を交わしてから、アンテルスは地面に跪く。彼が祈りを捧げると、あの斧を持っていた男の右足が、淡い光に覆われ始めた。
『お、おおぉ……』
彼らの周囲にいた人々から、驚きとも感動とも取れるどよめきが起きる。ソニアのときとは違い、全身を包むほどの光ではなかった。
おそらく、治癒の光は患部周辺にのみ作用するのだろう。キケルの傷はごく小さいものだったために、光の範囲も狭かったのだ。
光が収束して消えてしまうと、男は右膝を揺らし、恐る恐る地面に足をつけた。
二度、三度と靴底を浮かしては押し付けたあと、男は歩いた。
最初はゆっくりと、次に少しずつ速度をあげ、やがて小走りに辺りを回る。
「ほんとうに、おれは治ったのか……」
アンテルスの前まで戻ってくると、男は斧を取り落とし、膝をついた。俯いて、肩を震わせている。すすり泣きがイザナの耳にまで届くほどだった。
「ありがとう……ほんとうに、ありがとう……あんた、本物の聖人様だ……」
さきほどまで殺してやりたいと思っていたのに、イザナはすっかり毒気を抜かれていた。
生きていく上でまともに歩けないほどの怪我は、致命的だ。上半身だけで行える仕事もあるだろうが、全員がその職に就けるわけではない。あの凶行も、不安による人間の弱さなのだろう。
『おれも治してくれ!』
『私は火傷が……』
『ずっと咳が止まらないんです』
傷病人たちがアンテルスに殺到しようとしたそのとき、ソニアが大声で牽制した。
「待ちな! そんな一斉に治せるわけないだろ」
アンテルスと人々との間に割って入り、ソニアとリセルが壁となる。
「皆さん、私はいなくなりません。どうか落ち着いて、順番をお待ち下さい」
アンテルス本人は穏やかに彼らに呼びかけている。
そして彼は宣言通り、手近な者から順番に癒やしの力を行使し始めた。
集まってきたのはあの男のような、働き盛りの世代だけではない。
貧しさによって不健康な身体になった女性や老人たちもいる。病気だが満足に治療を受けさせることのできなかった我が子を連れてきた母親、父親の姿もある。
アンテルスは皆、平等に治癒を施していった。
自身が健康な身体になると、揃って彼らはアンテルスに傅くように頭を垂れた。皇帝に対して行われた儀礼的な動作ではない。心から、そうしなければ気が済まないのだろうと伝わってくる。
「聖人アンテルス……か」
イザナは静かに呟いた。
この光景を見れば、誰もが彼に対して畏敬の念を抱くだろう。回復した人々は必ず、笑みを浮かべる。彼が与えているのは治癒だけではない。
それは、幸福を授けているに等しい行為だ。
なのに、アンテルスはこの力を使うことに強い抵抗を示していた。イザナの力とは違う、大勢の役に立つ能力のはずなのに。
覚悟はしていましたから。
彼の言葉が引っかかっていたが、いまさら何かできるわけでもなかった。
アンテルスが解放されたのは、日が真上から少し傾く頃だった。
最初は五十人ほどだったはずだが、騒ぎを聞きつけた人間が一人、また一人と便乗してきたせいだ。
治療を終えてからもアンテルスは握手を求められ、感謝を長々と聞かされている。
「どうしたのかしら」
リセルやソニアが何かに気づいた様子で、アンテルスを心配そうに気遣っていた。
何かあったのだろうか。
かたや室内は静かなものだ。遊び回っていた子供たちは、飽きたせいか、久々の満腹による作用か、床で丸くなって眠っている。
少しばかりアンテルスが気の毒に思えた。彼が戻ってくれば、子供たちは目を覚まして、元気いっぱいに遊びをせがむだろう。
それを横で眺めるのも悪くない。そう考えていた矢先――
規則正しい乾いた足音が聞こえた。
それも、かなりの大所帯だ。
石敷きに当たる鋲の音が混じっている。金属の触れ合う独特のリズムは、甲冑が生み出す単調なメロディだった。
イザナが階下に目を戻すと、建物と建物の間、道幅一杯に兵士たちが列をなしてやってくる。
総勢百人といったところか。
その様子に集まっていた人々も気づき、散らされた粉のように四方へ逃げていく。だが、兵士たちは彼らを呼び止めるようなことはしなかった。目的は別にあるのだ。
その目的が何かは、すぐに判明した。彼らはアンテルスの前までやってきて、一斉に立ち止まった。
「おや、皆さん。怖がらなくて良いのですよ。用があるのは彼らだけですから」
兵士たちの先頭には、ソニアの病床に現れたあの司祭がいた。彼は建物の影に隠れている人間に向けて、おおらかに語りかけている。
「何しに来たんだい」
ソニアが横柄に一歩踏み出すと、その横っ面を近くにいた兵士が張り飛ばした。
「おばさま!」
倒れそうになるところを隣にいたリセルが咄嗟に支える。
「いきなり何をするんですか!」
リセルの訴えにも、司祭は眉一つ動かさない。微笑を維持したままだ。
「これは失礼しました。忠告していませんでしたね。動かないでいただきたい」
余裕ぶったその顔に拳をめり込ませたい衝動が湧き上がる。
やはりあの司祭はろくでもない類だった。




