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第14話『禁忌の奇跡』

オーバーラップWEB小説賞、応募作です。よろしくお願いいたします

「フェリクス! 水を汲んできて」


 部屋にリセルの声が響いた。彼女の高いはずのトーンはかさつき始めている。


 窓の外から様子を(うかが)っていたフェリクスはうなずき、すぐに夜の闇へ駆けていった。


 室内には()えた匂いが漂う。ソニアが嘔吐(おうと)を繰り返し、彼女の弟が吐瀉物(としゃぶつ)を受け止めた(おけ)の始末を何度もこなしていた。


 鼻が曲がりそうな臭気の中で、リセルはベッドに横たわるソニアの汗を懸命に拭っている。


 二人を含め、ソニアの元へ駆けつけた人間は一様に布を口元に押し当てていた。町医者の指示だ。彼によれば病人から発される悪しき空気を吸うことによって、病は感染するのだという。


「ソニアさん、気を確かに。ここが踏ん張りどころだ」


 励ますように語りかける町医者は、ベッドの傍らの椅子に腰かけていた。小壺から薄褐色の液体を(さじ)に垂らし、それをソニアに飲ませる。


 見舞いにきたほとんどの人間は室外から見守っていたが、誰も言葉を発しなかった。


 恐怖していたのかもしれない。


 昼間には笑みさえ浮かべていたソニアの顔は、いまや別人といって差し支えなかった。


 顔はむくみ、まぶたは腫れ上がり、発疹(ほっしん)は全身をめぐって暗く濁りきっている。声が聞こえているのかも怪しいほど、彼女の反応も鈍い。


 ランプが揺らす影の中に、ソニアのものはない。気づいているのはイザナだけだろう。だが死の兆候を嗅ぎ取る力など必要なかった。


 ソニアは助からない。


 誰もがそう確信を持って見守っている。


 唯一の希望である町医者も、ソニアの首や手、胸元に触れながら経過を確認するが、痛ましげな表情のままだ。


 懸命にソニアの周りで立ち回っているリセルの瞳も、すでに赤く染まっていた。


「すぐ……元気になるから。おばさま、そのときはわたしの料理、たくさん食べてね」


 語りかける声に水気が混じる。


 ソニアの指先がぴくりと反応したが、それだけだ。聞こえている。だが病に侵された身体ではそれが限界らしかった。


 そのことを誰もが察し、静かだった部屋に鼻をすする音が染みた。


「ねえ、ソニアはやっぱり苦しいのよね」


 イザナは町医者の背中へ小声で話しかけた。


「当たり前だろう」


 静かだが、(いきどお)った返答だった。場にそぐわない問いかけだったらしい。


「彼女はもう、助からないのでしょう? 楽にさせてあげてないの」


 町医者は目を見開いた。意味を察したのだろう。


「なんて馬鹿なことを……」


「馬鹿ではないわ。あんなに苦しそうに喘いで、それこそ見ていられない」


 町医者は唸っている。彼にしてみれば、いや人間からしてみれば生きること以上に大切なことなどないと考えているのかもしれない。


 イザナも、脳裏に浮かんだのはアンテルスを殺した死神の存在だ。


 彼は、殺されることで救われた。


 それと同じことが、自分にでもできるかもしれない。


 水を汲みに行ったフェリクスが戻ってくると、町医者は立ち上がった。


「馬鹿なことを考えるくらいなら、ソニアさんを励ましてやれ。私は追加の薬を(せん)じてくる」


 彼は小壺を手に部屋を出ていく。ソニアの生存を請う者たちが、台所へと向かう彼にすがりついていた。


「ソニア」


 イザナはソニアの耳元に唇が触れそうなほど近付いた。彼女にだけ届くよう囁く。


「苦しい?」


 指がわずかに揺れる。その反応をイザナは肯定と捉えた。


「あたしなら、あなたを楽にできる。苦しまずに、そっと息を引き取れるわ」


 今度は反応がない。


 代わりにソニアの額を拭っていたリセルがぴたりと固まった。だがそれも瞬きほどの間だけだ。彼女は一言も漏らさず、ソニアの看病を続けた。


 躊躇(ためら)いを覚えたが、イザナはソニアのために素性を明かすことにした。


「あたしは、痛みなしに人を死に導ける。信じて。あなたをこれ以上、苦しませたくないわ」


 やはり反応はなかったが、やがて木の葉がこすれあうような音がした。ソニアが何か話そうとしているのだ。


 イザナはソニアの口元へ耳を寄せた。


「……まで」


「なに?」


「さい……ご……まで……見て……いたい」


 まぶたに押しつぶされた隙間から、ソニアの瞳に穏やかな光が煌めく。


「馬鹿、辛いくせに……どうして」


 次に告げる言葉が出ない。息遣いこそ苦しげだが、ソニアはその痛みさえ愛でているように落ち着いていた。


 彼女自身、もう朝が来ないことは分かっているはずだ。ならば、いっそ苦痛から逃れる道を選択したほうが良いのではないのか。こちらの提案を呑まないことに苛立ちさえ感じる。


「悪いが、どけてくれ」


 戻ってきた町医者はイザナに離れるよう指示してくる。彼はソニアを再び触診し始めた。


 その後ろで、イザナは熱を帯びる右手を握り込んだ。黒い靄が一筋たなびく。拳が寒気を覚えたように小さく震えた。


 ――あたしなら、楽にしてあげられる。


 ほんのわずかなやりとりだけだが、ソニアと話すのは嫌いではなかった。彼女からは、何かを与えてもらった気さえする。


 何かをほどこしてやりたい。だがここに来て出来ることと言えば、安らかな死を贈ってやることくらいだ。


「……」


 イザナは逡巡(しゅんじゅん)の末、決意を固めた。


 そっと触れるだけだ。

 病で逝ったのだと誰もが解釈するだろう。


 それで彼女は苦痛から解放される。


 イザナは一歩踏み出そうとしたが、動けなかった。足の甲を杭で打ち付けられたように、床から靴底が離れない。


 ソニアの命をこの手で終わらせる。


「……っ」


 そう考えただけで、体中の筋肉がぞっとするほど固くなっていた。冷や汗が背中にまとわりついて、気持ちが悪い。


 頭ではソニアをすぐに()かせてやることが合理的な優しさだと判断している。なのに、身体がそれを許さない。


 命に違いなどないはずなのに。


 疑問が首をもたげる。襲ってきた兵士たちにも彼らなりの人生があった。それを分かった上で、イザナは(ほふ)った。殺す理由があったからだ。


 そしてソニアに対しても理由は十分だ。むしろ、彼女にとって有益な動機だ。


 どれくらい経っただろうか。


 周囲の空気が動き、イザナはずっと考え込んでいたことに気づかされた。


 町医者が力なく席を立つ。


 離れて見守っていた十人ほどの面々を振り返り、彼は含むようにうなずくと、部屋の隅に移動した。


 それが何を意味するか、ソニアの知人たちは悟った。


「ソニアさん!」


 彼らはソニアのベッド周辺に殺到する。「あんたには本当に感謝している」「後のことは任せておくれ」「仕事のことはあたしらでなんとかするから」「向こうで旦那さんにあったらよろしく伝えてくれよ」と口々にソニアに声をかけていく。


 今生の後悔を持たせないようにしているのだろう。

 悲しいだろうに、誰もが精一杯、笑みを作っている。


 ソニアはやはり指先をほんの少し動かし、反応を返すだけだ。


「おばさま!」


 それまで看病を続けていたリセルもたまらずソニアに抱きついた。じっとしがみついている。


 彼らがずっと遠くに感じられた。


 近いはずなのに、決して自分には触れられない。湖に反射する空のように。


 いままで殺してきた相手のことは覚えている。彼らの家族や仲間も、本来ならこんな風に別れの儀式を行いたかったのだろうか。


 やむなしとはいえ、それをすべて奪ってきたのだ。


 死にゆく本人の感情や記憶は誰よりも理解していた。だが、その周辺にいる人間の気持ちは、初めて体験する。


 右手に宿っていた熱が冷めていく。ソニアが安楽死を望まなかった理由も、おぼろげながら分かる気がした。


「聖人様……まだおばさまも連れて行かないで」


 それまで黙っていたリセルが紡いだ言葉は、この場に静かに響いた。だが、当然答える神などいない。


 目頭に熱い何かが込み上げてくる。理由は分からない。ソニアとの惜別か、自分の行いへの後悔なのか。


 ふいにイザナの肩に手が置かれた。


「……仕方ありませんね」


 アンテルスが苦い顔でため息をついている。


「ソニアさんは楽に死ぬ道を選ばなかったのですね」


「聞こえていたの?」


 思いのほか、はっきりと答えられた。頬に火照りを感じたが、涙を落としたわけではなかった。


「いいえ。ただイザナさんが何を告げたのか、ソニアさんが何と答えたのか、察しがつくだけです」


 アンテルスはイザナを横切り、集団の輪の中へ入る。リセルとは逆側のベッドの縁からソニアを覗き込む。まるで我が子のようにその額を優しく撫でた。


「フォルトゥナ様に感謝を」


 アンテルスはその場で跪き、両手を組んで俯いた。神へ祈りを捧げるような姿勢だ。


「フォルトゥナよ。この敬虔なる者に祝福を賜らん」


 イザナにはっきり聞き取れたのはその一言のみだった。


 アンテルスはぶつぶつと祝詞を唱えている。


 急に祈りを始める彼を不審そうに見やる者が大半だったが、その反応が驚きに変わるのは早かった。


「お、おい。急に光が」


 誰かが漏らすと、それに呼応するように淡い光が膜のように広がり、ソニアを覆っていく。初めは薄ぼんやりとしていたが、だんだんとその輝きは濃くなっていった。


「あのときと同じ光……」


 イザナは直感した。ネクロスの祠で浮かんでいた光。昨夜、キケルの腕に現れた光。そのどれもが同質のものだ。そして全てにアンテルスが絡んでいる。


「何をする気……?」


 光はやがて痛いほどの眩しさで室内を満たす。どよめきと悲鳴が上がる中で、イザナだけは落ち着いて目を細めた。


 ゆっくりと呼吸するほどの時間が音もなく経過する。


 やがて光は散り散りになり、ランプだけが頼りの薄暗い部屋に戻っていた。


 異変を最初に感じ取ったのは、リセルだった。


「おばさま?」


 彼女は身を起こすと、ソニアの全身を見回している。


 ソニアを(むしば)んでいた発疹は綺麗さっぱり消え、土気色だった肌も健康的な血色を取り戻している。無論、腫れ上がっていたまぶたも元通りだ。


「これは……どうしたことだ」


 町医者もすぐにソニアの身体を改める。額に触れているが、熱など出ていないに違いない。現に、彼は放心状態のソニアの背中を抱え、半身を起こしてやっていた。


「ソニアさん、身体の調子はどうだ?」


 町医者が恐る恐る質問するも、ソニアは放心状態だ。自身の身に降り掛かったことが未だに理解できない様子だった。


 彼女は喉を鳴らし、慎重に息を吸い込んだ。両の手のひらをゆっくりと回したり、開いたり閉じたりしている。


 黙ったままだった彼女だが、やがて鼻をすする音を立てた。


「……まだ旦那に会うのは先みたいだね」


「おばさま!」


 見守っていた一同が歓声を上げる。それぞれがソニアと抱き合い、手を握り、病魔を退けたことに歓喜した。


「イザナさん、ひとまず我々は出ましょう」


「ちょっと、急になによ」


 アンテルスはイザナの手を引き部屋の戸口へ歩いていく。


 だが向かいから出てきた人影と鉢合わせ、二人の足が止まる。


「おや、何かありましたかな」


 やってきたのは昼間、祈りを捧げていた司祭だった。使い古された本を片手に持っている。


 司祭はイザナたちの奥、ソニアと、看取ろうとやってきた人々を眺め、柔和だった表情に一筋の影を差した。


「これは……?」


「ああ、司祭様」


 喜び合っていた大人たちの中から、数名が司祭に駆け寄った。「たったいま、ソニアさんが呪いから解放されたのです」「やはり祈りは通じるのですね」などと持て囃している。


 面食らっているのは司祭の方だ。


「祈りで、呪いが……?」


 皺のように細かった目元が、火にくべた貝のように開かれる。


「司祭様」


 町医者が深刻そうな面持ちで司祭に近寄り耳打ちする。状況を説明したのだろう。町医者が離れると、司祭はすぐ側に立っていたアンテルスに向き直った。それに倣うように室内にいた人々も静かになり、アンテルスに注目が集まる。


「君が何かしたのかね?」


「あなたと同じです。神に祈っただけですよ。ソニアさんの気持ちと、彼女を思う気持ちがフォルトゥナ様に通じたのでしょう」


 肩をすくめ、アンテルスは飄々と答える。


「そんな馬鹿なことが……」


「おや。祈祷によって呪いを治すと仰ってませんでしたか?」


 失言と気づいたのか、司祭は口を閉じる。


「なあ、あんた法術使いなのか」


 今度は町医者が尋ねてくる。


「いいえ。本当にただ心から祈っただけです。それに、法術に人を癒やす力などありませんよ」


「それはそうなんだが……」


 町医者は不服そうにうなずく。


「だが法術でもないとなれば、これは本当に」


「奇跡だ!」


 興奮した誰かが叫んだ。


「まるで聖人様の再来じゃないか!」


 一人がそう主張し、周りがざわめき出す。ソニアの回復という衝撃から落ち着き、その理由に興味が切り替わり始めている。こちらに向けられる視線に強い好奇が滲んでいた。


「行きましょう」


 今度はイザナも抵抗しなかった。彼らが追ってくる隙を与えず、アンテルスとともに部屋を出てていく。


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