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第10話『皇帝マルクスの巡幸』

オーバーラップWEB小説賞、応募作です。よろしくお願いいたします

「あなたはまだ神に(すが)っている。善行で罰は消えませんよ」


 彼が放った言葉の意味。それはイザナも感じていた微妙な違和感の正体だ。リセルがなぜ()き人間であろうとしたのか。


 救われたかったのだ。


 リセルはぺたん、と全身の力が抜けたように腰を落とした。


「じゃあ、どうしたらよかったんですか……? もうどうしていいかわからない。わたしのせいで、みんないなくなっちゃう……お父さんもお母さんも、おばさまも、(ほこら)の前でだって、みんな……」


 小刻みに肩を震わせるリセルを前にして、イザナは初めて他者に強い共感を抱いた。


 ――あたしと、同じ。


 遠い過去の自分が、泣いているリセルと重なる。


 村中から迫害(はくがい)され、自分を恨み続けたあの日々。()み嫌っている記憶のはずなのに、核となっていまなお誰からも触れられたくない身体の深奥に収まっている。


 その繊細な領域を土足で踏み荒らされて、黙っていられるだろうか。風化したはずの傷口が、鈍い熱を帯びていくようだ。アンテルスの無神経な物言いに、だんだんと腹が立ってくる。


 気づけば彼の胸ぐらを掴んでいた。


「聖人(づら)しないで。あなたに何がわかるの……?」


 リセルの気持ちが分かってしまう。彼女は『自分の存在が周りの不幸を呼ぶ』ことに怯えている。


 それがどれほど恐ろしいか。


 リセルは不徳を善行で(あが)えると信じていた。イザナを(かくま)ったのもその一つだろう。必死に『善人』であろうと形を保ってきたのだ。罰を受けぬために。


 人はそれを偽善と呼ぶかもしれない。


 だが、彼女の行いを誰が責められる?


 聖人として敬われ続けたアンテルスに、この苦しみが分かるというのか。


 彼は抵抗することもなく、冷静に説明した。


「いま指輪を売ってしまえば、本当に医術に頼らねばならないとき、後悔することになります。今度はキケルやプルクラに何かが起きるかもしれない。そのとき、リセルさんはまた自分を責めるでしょう。なぜ治らないと分かっていながら指輪を売ってしまったのか、と」


「……っ」


 アンテルスの理屈は正しい。イザナも頭では分かっている。ついさきほどまでは同じ考えだった。


 反論できないでいると、アンテルスはやんわりとこちらの手を解いた。


「私たちはどんな辛いことも、受け入れて生きていくしかありません。そこに逃げ道などないのです」


「逃げ道って――」


 まるで、イザナの「死にたい」という望みまで否定された気がする。


 反射的に異論を唱えようとしたが、イザナは開きかけた口を静かに結んだ。


 彼の表情にも、深く、暗い影が差している。


 アンテルスにも吐露(とろ)できない過去があるのだ。夢で見た光景と、語りかけてきた女の声。あれらが無関係とは思えない。


 アンテルスの鎮痛そうな横顔を見てか、リセルは()らしたまぶたをじっとこちらに向けていた。


「……ごめんなさい、わたし。自分だけが辛いつもりで……」


「いいえ、いま一番辛いのはあなたでしょう。ですが、どうか自ら不幸に身を投じるようなことはしないでください」


 リセルは静かに耳を傾けていたが、ぽそりと呟いた。


「アントニウス様は、まるで神官様のようですね」


「はっは、実は神官だったこともあるのです」


 アンテルスが軽口を飛ばす。いつもの変わり身の早さで彼は飄々(ひょうひょう)とした調子に戻るものの、三人の間に横たわる空気は依然として湿っぽかった。


「……少しだけ考えさせてください。大丈夫です。もし指輪を売ることになっても、そのときは必ずお二人にもお話しします」


 リセルは静かに書き物用の机に向き直った。


 アンテルスはそっと扉を空けて部屋を出ていく。


 イザナは何かひと声かけるべきか迷った。彼女の抱える葛藤(かっとう)は、自分と似ていた。理解できる者は他にいない気さえする。


「イザナさん」


 アンテルスに呼ばれ、イザナも後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。






「んん〜この匂い! やっぱりワインはアルバ産に限る」


 アンテルスが恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべ、小壺に頬擦(ほおず)りした。


 その彼を、イザナは隣から睨む。


「買いたい物があるって、それのこと?」


 アンテルスが愛おしそうに抱く小壺からは、かすかに水音が聞こえる。中身はワイン。その跳ねるような音は、持ち主から逃げたがる悲鳴のようだった。


「そうだけど?」


 臆面(おくめん)もなくへらへらと笑みを浮かべるアンテルス。


「そうだけどって……あなたがソニアたちのためだって言うから立て替えたのでしょう?」


「そうだっけ?」


 かちんと来て右手をかざすと、さすがにアンテルスも軽薄な顔を引っ込めて、咳払いをした。


「このワインは蜂蜜入りでね。味も良いが、身体にも良い。薬用としても悪くない」


「薬が役に立たないほどの病なのに?」


「体力次第、とも言っていたからな。滋養強壮(じようきょうそう)を促すにはちょうどいい」


 そういうものだろうか。医学についてイザナは門外漢(もんがいかん)だ。ソニアの病床で、町医者の職業を看破(かんぱ)したところからも、何やらアンテルスには心得がありそうなので、言い切られてしまうと意見はできなかった。


「でも随分高かったわ」


 腰の貨幣袋(かへいぶくろ)を軽く持ち上げる。銀貨が飛んでいったのは痛かった。基本は野山で自活しているが、イザナは器用な方ではない。衣服を始め、生活必需品のいくつかは人里で購入するため、貨幣は貴重なのだ。


「まあ宿代と思えば、安いもんだろ」


 一銭も出していない男のこの物言い。イザナはこめかみをひくつかせてから、相手のみぞおちに拳をめりこませた。


「だいたい、あんまり出歩かないほうがいいんじゃないの?」


 悶絶(もんぜつ)するアンテルスを捨て置いて、周囲を見渡す。


 辺りは騒がしい。商談の声があちこちで飛び交い、馬の闊歩(かっぽ)する音や馬車の軋み、指向性のない雑多な人の会話が入り乱れている。


 二人がいるのはワインを購入した大衆食堂の前だ。ここら一帯は市場のある区画で、露店がずらりと並んでいる。あらゆる人種が商いを行い、活気が満ちていた。整地が行き届いていないせいか、うっすらと砂埃が舞う。


「誰も気にしてないさ」


 アンテルスの感想通り、賑わっているからこそ、他人に関心を持つような場所でもない。


 とはいえ、楽観はできなかった。

 

 あの司祭は女が下手人であるとはっきり知っていた。


 事情は様々だろうが、逃げた信者の誰かがイザナの特徴を伝えている。早晩、市井の人々にも広まることだろう。


 イザナは粗い布でくるんだネクロスの鎌を担ぎ直した。布で覆っているので形も分からない。傍からすると、商人が抱える荷袋と大差ないはずだった。


「それに、あの子をひとりにしてきてよかったの?」


 右腕を隠すための羽織り衣が目に入る。リセルの母親の遺品だ。そのせいなのか、彼女を放置することには抵抗があった。


「あとは彼女がどうするかさ。一人で考えたいだろう」


 アンテルスは平然としていた。その達観したような振る舞いが、気に食わない。


 正直、まだ彼に対する怒りは(くすぶ)っている。


「君こそ、なんでついてきた?」


「なんでって……」ふいに()かれ、戸惑(とまど)う。


 リセルを放っておきたくはなかった。だが彼女と同じ空間にいることも居たたまれなかったのだ。


「……訊きたいことがあったからよ」


 自分の未熟さを露呈(ろてい)するような気がして、イザナはそう濁した。


「まだ他にもあるのか?」


 彼はこちらの微妙な葛藤など気づいていない。気づかれるのも癪だが、察しないことにもなぜか苛立ちが湧く。


「何よその態度。言っておくけど、あなたのこと許したわけじゃないわ」


「へいへい。ま、なんでも聞いてくれ。暴力はこりごりなんでね」


 今朝訊けなかったあの夢のことを尋ねようか、と思った矢先、急にざわめきが薄まる。


 人波が割れ、道が出来ていく。


 その奥を覗くと、鎧を着込んだ兵士たちが闊歩してくるが見えた。兵士たちの後方からは、さらに白い法衣を着込んだ司祭の集団もいる。


 その中央に、ひときわ目立つ男がいた。


 老司祭ばかりの中で、まだ初老にも満たない中年の男だ。


 格好は他の司祭と同じ白い法衣ではあるが、紫の縁取りが唯一の異彩を放つ。頭にはローリエで組まれた月桂冠(げっけいかん)を戴いていた。


「イザナさん」と、アンテルスに腕を取られ、強引に道の端に並ばされる。


「何よ」と反発しようとした直後、アンテルスがイザナの口元に人差し指を添えてきた。


「皇帝です」


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