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公爵令嬢は知らない。婚約破棄が完成形だったことを~忠誠を履き違えた護衛騎士は、すべてを整えていた~

作者: 白昼夢
掲載日:2026/01/28



公爵令嬢は知らない。

自分の婚約破棄が、すでに完成していたことを。

それが、誰の手によるものかも。




私の名は、エレオノーラ・フォン・アルヴェーン。

アルヴェーン公爵家の長女として生まれ、この国の貴族社会の中心で育った。


幼い頃から教えられてきたのは、ただ一つ。

「公爵令嬢は、完璧でなければならない」


感情を乱さず、言葉を選び、常に一歩先を読む。

淑女教育は厳しく、学問も政治も魔法理論も、妥協は許されなかった。

それでも疑問に思ったことはない。

それが私の役目であり、存在価値だと理解していたから。


婚約者は、第二王子レオンハルト・アスヴァルド殿下。

王命によって結ばれた、政治的に正しい婚約だった。


殿下は優秀で、温和で、臣下からの信頼も厚い。

少なくとも、私以外の前では。


私の隣に立つときの殿下は、どこか硬かった。

会話は形式的で、視線は必要以上に逸らされる。

だが、それを不満に思うのは、私の立場では許されない。


王命による婚約に、個人の感情は不要。

そう理解していたから、違和感には目を向けなかった。


王宮に、男爵令嬢マリア・エルシュタインが出入りするようになったのは、その頃からだ。


明るく、無邪気で、感情を隠すことを知らない少女。

殿下を真っ直ぐに称え、尊敬の言葉を惜しみなく口にする。


彼女の前で、殿下が笑う回数が増えた。

それに気づいても、私は何も言わなかった。


私は公爵令嬢だ。

王子の感情に口を挟む権利など、最初から持っていない。


それでもマリア嬢は、何度も私の前に現れた。

「エレオノーラ様を尊敬しています」

「いろいろ教えていただきたいんです」


そう言って距離を詰め、無邪気に微笑む。

拒む理由はなかった。

私は彼女に、何一つ意地悪をした覚えはない。


ただ、小さな違和感だけが、胸の奥に積もっていった。


殿下の態度は、少しずつ変わった。

私への言葉は減り、会話の中にマリア嬢の名が混じるようになる。

それでも私は、何も言わなかった。


王命で結ばれた婚約を、感情で揺らすことは許されない。

そう、自分に言い聞かせていた。


その間も、私は公務をこなした。

書類に目を通し、提案をまとめ、貴族たちの調整役を務める。

私の評価が揺らぐことはなかった。


常に一歩後ろには、護衛騎士のルーカス・ヴァルハルトがいた。

幼い頃から、当たり前のようにそこにいる存在。


多くを語らず、私の命令を正確にこなす騎士。

視線は静かで、感情を表に出さない。


不安な夜、ふと顔を上げると、必ず彼がいた。

それだけで、心が落ち着いた。


――それが、当然だと思っていた。


彼が、私よりもずっと前から、すべてを見ていたことに。

そして、この違和感の行き着く先を、すでに理解していたことに。


私はまだ、何も知らなかった。




その日は、王宮の大広間に多くの貴族が集められていた。


事前の通達は、「第二王子殿下より重要な発表がある」という、それだけだった。

この場に呼ばれた顔ぶれを見れば、政治的な意味を持つことは明らかだった。


私もまた、公爵令嬢としてそこに立っていた。

第二王子レオンハルト・アスヴァルド殿下の、婚約者として。


殿下は玉座の前に進み出ると、一度だけ私を見た。

その視線に、かつて向けられていた温度はなかった。


「本日、この場を借りて、アルヴェーン公爵家令嬢エレオノーラとの婚約を破棄する」


ざわめきが、広間を満たす。

予想していなかった者など、いなかっただろう。

それでも、この場で宣言されることの重さは、別だ。


殿下は、淡々と、まるで準備してきた文章を読み上げるように言葉を続けた。


「彼女は冷酷で、傲慢である」

「自らの立場を笠に着て権力を振るい、不正を行ってきた」


ひとつ、またひとつ。

私に向けられる罪状は、どれも身に覚えのないものだった。


視線が集まる。

好奇、同情、疑念。

その中に、確かな安堵の色も混じっていることを、私は見逃さなかった。


父の表情が、わずかに歪む。

母が、静かに息を呑む。


その瞬間だけ、胸が痛んだ。

それでも、私は顔を上げていた。


反論は、できた。

証拠を示し、論理で否定することも可能だった。


だが、それをすれば、この場は争いになる。

王家と公爵家の対立は、国を揺らす。


私は公爵令嬢だ。

感情よりも、秩序を優先すべき立場にある。


殿下の隣で、マリア・エルシュタイン男爵令嬢が小さく震えていた。

涙を浮かべ、殿下の袖を掴む。


「……殿下、どうか、そんな言い方は……」


庇うように殿下は彼女を抱き寄せた。

その仕草は、この場に集められた全員に、十分すぎるほどの意味を与える。


私は、すべてを理解した。


これは説明ではない。

宣告だ。


だから私は、言うべき言葉だけを口にした。


「謹んで、婚約破棄をお受けいたします」


広間が、静まり返る。

反論も、涙も、怒りもないその返答は、想定外だったのだろう。


殿下は一瞬、言葉を失ったように見えた。

だがすぐに、満足したように視線を逸らす。


それで、終わりだった。


形式的な手続きが進められ、貴族たちはそれぞれの思惑を胸に、大広間を去っていく。

私は誰にも呼び止められず、誰とも言葉を交わさず、その場を後にした。


廊下は、驚くほど静かだった。


夜風に触れ、ようやく胸の奥に溜まっていたものが、わずかに揺れる。

泣くほどではない。

怒るほどでもない。


ただ、少しだけ、痛い。


背後で、靴音が止まった。


「……お嬢様」


低く、控えめな声。

振り返らなくても、誰かわかる。


「大丈夫です、ルーカス」


自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。

彼はそれ以上、何も言わなかった。


それでよかった。

今は、誰の言葉も必要なかった。


私は前を向いて歩き出す。

この先の道が、どこへ続いているのかはわからない。

それでも。

今日も、私は前を向いて歩いている。


彼はいつも通り、一歩後ろに立っていた。


それでも私は知っている。

この静かな世界が、誰かの手によって守られていることを。





——-ルーカス視点——-



エレオノーラ様が泣かなかった夜のことを、

俺は一生、誇りに思っている。


廊下を歩くその背中は、いつもと何一つ変わらなかった。

姿勢も、歩幅も、呼吸の速ささえも。


それが、どれほどの強さの上に成り立っているのかを知っているのは、たぶん俺だけだ。


俺が初めて彼女に会ったのは、まだ幼い頃。

公爵家の庭園で、転んでも泣かずに立ち上がった少女だった。


そのとき、世界の優先順位が決まった。


王でもない。

国でもない。

エレオノーラ様だけだ。


守る、では足りなかった。

彼女が笑っていられる環境を、最初から最後まで整える。

それが、俺の役目だと理解した。


だから、騎士としての才能を磨いた。

剣だけではない。

人の感情、力関係、噂の流れ。


忠誠の先は、公爵家ではない。

彼女個人だ。


第二王子レオンハルトを見たとき、すぐにわかった。

優秀だが、器が足りない。


努力して積み上げた才では、エレオノーラ様に及ばない。

それを理解していながら、認められない男だ。


劣等感は、扱いやすい。

特に、善良であろうとする人間ほど脆い。


敵視はしなかった。

使える素材だと思っただけだ。


マリア・エルシュタイン男爵令嬢も、同じだ。

承認欲求が強く、善意と自己顕示欲の境界が曖昧。


少し導線を引けば、自分から進んで役を演じる。

「悪意のない加害者」という立場に、彼女はよく馴染んだ。


噂は、風のように流れる。

誰が流したかなど、重要ではない。

届くべき耳に、届けばいい。


王子の自尊心は、比較で簡単に削れる。

そして、比較対象として完璧すぎる存在が、常に隣にいた。


婚約破棄の場。

殿下が彼女を断罪し始めた瞬間、俺は冷静だった。


だが――

エレオノーラ様が一切、取り乱さなかったとき。


安堵と同時に、怒りが湧いた。


強い。

それでも、傷つかないはずがない。


王家の信用は、内部から静かに削った。

帳簿、派閥、人事。

表に出ないところで、少しずつ。


男爵家は支援を失い、自然に沈む。

マリア嬢は、自分が何をしたのか理解する前に、居場所を失った。


レオンハルト殿下は、自分の選択を「正しかった」と信じ続けた。

だからこそ、すべてを失った理由にも気づけなかった。


それでいい。

彼女に触れなければ、それでいい。


達成感はなかった。

欲しかったのは勝利ではない。


彼女が、泣かない未来だ。


計画外だったのは、エレオノーラ様自身の選択だった。


婚約破棄からしばらくして、彼女は静かに告げた。

王家に戻る気はない。

自分の人生を、自分で選ぶのだと。


その隣に立つ俺を、当たり前のように受け入れながら。


ああ、そうか。


最後まで、俺は彼女を操れなかった。


それでいい。

いや、それがいい。


彼女は、誰のものでもない。

だからこそ、守る価値がある。


今日も、俺は一歩後ろに立つ。

彼女の背中を、静かに見つめながら。


世界は、きちんと整っている。

彼女が笑っていられる限り、それでいい。


俺はただ、お嬢様が前を向いて歩けるよう、道を整えるだけだ。

その先に、俺が立てない場所があるとしても。

それでも——構わないと思っている。


追加:1月29日 表現を少しだけ整えました。

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