公爵令嬢は知らない。婚約破棄が完成形だったことを~忠誠を履き違えた護衛騎士は、すべてを整えていた~
公爵令嬢は知らない。
自分の婚約破棄が、すでに完成していたことを。
それが、誰の手によるものかも。
私の名は、エレオノーラ・フォン・アルヴェーン。
アルヴェーン公爵家の長女として生まれ、この国の貴族社会の中心で育った。
幼い頃から教えられてきたのは、ただ一つ。
「公爵令嬢は、完璧でなければならない」
感情を乱さず、言葉を選び、常に一歩先を読む。
淑女教育は厳しく、学問も政治も魔法理論も、妥協は許されなかった。
それでも疑問に思ったことはない。
それが私の役目であり、存在価値だと理解していたから。
婚約者は、第二王子レオンハルト・アスヴァルド殿下。
王命によって結ばれた、政治的に正しい婚約だった。
殿下は優秀で、温和で、臣下からの信頼も厚い。
少なくとも、私以外の前では。
私の隣に立つときの殿下は、どこか硬かった。
会話は形式的で、視線は必要以上に逸らされる。
だが、それを不満に思うのは、私の立場では許されない。
王命による婚約に、個人の感情は不要。
そう理解していたから、違和感には目を向けなかった。
王宮に、男爵令嬢マリア・エルシュタインが出入りするようになったのは、その頃からだ。
明るく、無邪気で、感情を隠すことを知らない少女。
殿下を真っ直ぐに称え、尊敬の言葉を惜しみなく口にする。
彼女の前で、殿下が笑う回数が増えた。
それに気づいても、私は何も言わなかった。
私は公爵令嬢だ。
王子の感情に口を挟む権利など、最初から持っていない。
それでもマリア嬢は、何度も私の前に現れた。
「エレオノーラ様を尊敬しています」
「いろいろ教えていただきたいんです」
そう言って距離を詰め、無邪気に微笑む。
拒む理由はなかった。
私は彼女に、何一つ意地悪をした覚えはない。
ただ、小さな違和感だけが、胸の奥に積もっていった。
殿下の態度は、少しずつ変わった。
私への言葉は減り、会話の中にマリア嬢の名が混じるようになる。
それでも私は、何も言わなかった。
王命で結ばれた婚約を、感情で揺らすことは許されない。
そう、自分に言い聞かせていた。
その間も、私は公務をこなした。
書類に目を通し、提案をまとめ、貴族たちの調整役を務める。
私の評価が揺らぐことはなかった。
常に一歩後ろには、護衛騎士のルーカス・ヴァルハルトがいた。
幼い頃から、当たり前のようにそこにいる存在。
多くを語らず、私の命令を正確にこなす騎士。
視線は静かで、感情を表に出さない。
不安な夜、ふと顔を上げると、必ず彼がいた。
それだけで、心が落ち着いた。
――それが、当然だと思っていた。
彼が、私よりもずっと前から、すべてを見ていたことに。
そして、この違和感の行き着く先を、すでに理解していたことに。
私はまだ、何も知らなかった。
その日は、王宮の大広間に多くの貴族が集められていた。
事前の通達は、「第二王子殿下より重要な発表がある」という、それだけだった。
この場に呼ばれた顔ぶれを見れば、政治的な意味を持つことは明らかだった。
私もまた、公爵令嬢としてそこに立っていた。
第二王子レオンハルト・アスヴァルド殿下の、婚約者として。
殿下は玉座の前に進み出ると、一度だけ私を見た。
その視線に、かつて向けられていた温度はなかった。
「本日、この場を借りて、アルヴェーン公爵家令嬢エレオノーラとの婚約を破棄する」
ざわめきが、広間を満たす。
予想していなかった者など、いなかっただろう。
それでも、この場で宣言されることの重さは、別だ。
殿下は、淡々と、まるで準備してきた文章を読み上げるように言葉を続けた。
「彼女は冷酷で、傲慢である」
「自らの立場を笠に着て権力を振るい、不正を行ってきた」
ひとつ、またひとつ。
私に向けられる罪状は、どれも身に覚えのないものだった。
視線が集まる。
好奇、同情、疑念。
その中に、確かな安堵の色も混じっていることを、私は見逃さなかった。
父の表情が、わずかに歪む。
母が、静かに息を呑む。
その瞬間だけ、胸が痛んだ。
それでも、私は顔を上げていた。
反論は、できた。
証拠を示し、論理で否定することも可能だった。
だが、それをすれば、この場は争いになる。
王家と公爵家の対立は、国を揺らす。
私は公爵令嬢だ。
感情よりも、秩序を優先すべき立場にある。
殿下の隣で、マリア・エルシュタイン男爵令嬢が小さく震えていた。
涙を浮かべ、殿下の袖を掴む。
「……殿下、どうか、そんな言い方は……」
庇うように殿下は彼女を抱き寄せた。
その仕草は、この場に集められた全員に、十分すぎるほどの意味を与える。
私は、すべてを理解した。
これは説明ではない。
宣告だ。
だから私は、言うべき言葉だけを口にした。
「謹んで、婚約破棄をお受けいたします」
広間が、静まり返る。
反論も、涙も、怒りもないその返答は、想定外だったのだろう。
殿下は一瞬、言葉を失ったように見えた。
だがすぐに、満足したように視線を逸らす。
それで、終わりだった。
形式的な手続きが進められ、貴族たちはそれぞれの思惑を胸に、大広間を去っていく。
私は誰にも呼び止められず、誰とも言葉を交わさず、その場を後にした。
廊下は、驚くほど静かだった。
夜風に触れ、ようやく胸の奥に溜まっていたものが、わずかに揺れる。
泣くほどではない。
怒るほどでもない。
ただ、少しだけ、痛い。
背後で、靴音が止まった。
「……お嬢様」
低く、控えめな声。
振り返らなくても、誰かわかる。
「大丈夫です、ルーカス」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
彼はそれ以上、何も言わなかった。
それでよかった。
今は、誰の言葉も必要なかった。
私は前を向いて歩き出す。
この先の道が、どこへ続いているのかはわからない。
それでも。
今日も、私は前を向いて歩いている。
彼はいつも通り、一歩後ろに立っていた。
それでも私は知っている。
この静かな世界が、誰かの手によって守られていることを。
——-ルーカス視点——-
エレオノーラ様が泣かなかった夜のことを、
俺は一生、誇りに思っている。
廊下を歩くその背中は、いつもと何一つ変わらなかった。
姿勢も、歩幅も、呼吸の速ささえも。
それが、どれほどの強さの上に成り立っているのかを知っているのは、たぶん俺だけだ。
俺が初めて彼女に会ったのは、まだ幼い頃。
公爵家の庭園で、転んでも泣かずに立ち上がった少女だった。
そのとき、世界の優先順位が決まった。
王でもない。
国でもない。
エレオノーラ様だけだ。
守る、では足りなかった。
彼女が笑っていられる環境を、最初から最後まで整える。
それが、俺の役目だと理解した。
だから、騎士としての才能を磨いた。
剣だけではない。
人の感情、力関係、噂の流れ。
忠誠の先は、公爵家ではない。
彼女個人だ。
第二王子レオンハルトを見たとき、すぐにわかった。
優秀だが、器が足りない。
努力して積み上げた才では、エレオノーラ様に及ばない。
それを理解していながら、認められない男だ。
劣等感は、扱いやすい。
特に、善良であろうとする人間ほど脆い。
敵視はしなかった。
使える素材だと思っただけだ。
マリア・エルシュタイン男爵令嬢も、同じだ。
承認欲求が強く、善意と自己顕示欲の境界が曖昧。
少し導線を引けば、自分から進んで役を演じる。
「悪意のない加害者」という立場に、彼女はよく馴染んだ。
噂は、風のように流れる。
誰が流したかなど、重要ではない。
届くべき耳に、届けばいい。
王子の自尊心は、比較で簡単に削れる。
そして、比較対象として完璧すぎる存在が、常に隣にいた。
婚約破棄の場。
殿下が彼女を断罪し始めた瞬間、俺は冷静だった。
だが――
エレオノーラ様が一切、取り乱さなかったとき。
安堵と同時に、怒りが湧いた。
強い。
それでも、傷つかないはずがない。
王家の信用は、内部から静かに削った。
帳簿、派閥、人事。
表に出ないところで、少しずつ。
男爵家は支援を失い、自然に沈む。
マリア嬢は、自分が何をしたのか理解する前に、居場所を失った。
レオンハルト殿下は、自分の選択を「正しかった」と信じ続けた。
だからこそ、すべてを失った理由にも気づけなかった。
それでいい。
彼女に触れなければ、それでいい。
達成感はなかった。
欲しかったのは勝利ではない。
彼女が、泣かない未来だ。
計画外だったのは、エレオノーラ様自身の選択だった。
婚約破棄からしばらくして、彼女は静かに告げた。
王家に戻る気はない。
自分の人生を、自分で選ぶのだと。
その隣に立つ俺を、当たり前のように受け入れながら。
ああ、そうか。
最後まで、俺は彼女を操れなかった。
それでいい。
いや、それがいい。
彼女は、誰のものでもない。
だからこそ、守る価値がある。
今日も、俺は一歩後ろに立つ。
彼女の背中を、静かに見つめながら。
世界は、きちんと整っている。
彼女が笑っていられる限り、それでいい。
俺はただ、お嬢様が前を向いて歩けるよう、道を整えるだけだ。
その先に、俺が立てない場所があるとしても。
それでも——構わないと思っている。
追加:1月29日 表現を少しだけ整えました。




