9.隠された想い
一
「こんにちは。から揚げ弁当二つください」
静かな透明感のあるその声に、片倉冬香は、プラスチックケースによそっていたご飯を脇のステンレステーブルへ置き、ぱたぱたと厨房から店の窓口へと顔を見せた。
「はーい。あ、一昨日の。ありがとうございます」
冬香は、ショートカットとその大きな目が印象的な瞳を細め、にっこりと笑って答えた。
四十歳程に見えるこの女性の名を、野口佳枝といった。クセ毛にパーマをかけたようなくるっとした毛先は肩につかない短さで、標準よりも細く見えるその体には、Tシャツと綿の素材のスカートを身につけており、涼しげな装いは、どことなく上品な雰囲気を醸し出していた。
聞くところによると、つい二週間ほど前にこの町に越してきたという。この弁当屋の向かいの路地を、左手に入ったところに建てられているマンションに住んでいるらしい。一昨日、初めて店へ来たとき、佳枝自身がそう言っていた。
「病院の帰りに寄ったら、こんな時間」
呟くように言った佳枝の言葉は、冬香の耳には届かず、不思議そうな表情をした冬香に、佳枝は慌てたように笑い、額から流れ落ちる汗をハンカチでぬぐった。ハンカチはすでに汗で湿っている。
「お待ちくださいね」
元気よく応えて、冬香は厨房へ戻り、「から揚げ二つ入りまーす」と大きく声をかけ、父と母のその手伝いをはじめた。父はから揚げを時間を見つつ、鮮やかな手つきで揚げてゆき、母は今日の特売のおにぎりを握っている。
厨房の勝手口は開け放たれてはいるものの、時折吹く気まぐれな風だけで、厨房の中は蒸し風呂のように暑かった。
七月下旬、殺人的な日光は女の大敵だ。日光と、雨を避けるために作られているひさしも、もはや意味がない。陽は、昼を過ぎて余計高く昇り、照りつける陽光の強さは増すばかりだ。
はたはたと、ハンカチで顔をあおぎながら、佳枝はじっと、奥の厨房を気にかけているようだった。
十分ほど経過した一時半、大きな声と共に冬香が姿を現せた。
「お待たせしましたー。から揚げ弁当二つで、七百六十円になります」
手提げのビニール袋に入れながらにっこりと微笑みかけ、熱いですから気をつけて、と付け加える。
「いい香り。おいしそう」
佳枝の表情が和らいだ。どこか思いつめていたような、切なさを感じさせる表情をしていたのだが。
「ええ、おいしいですよ。だから、きれいに食べてくださいね。……なんちゃって」
二十五歳という年齢にも関わらず、幼さを感じさせる話し方だった。
「それ食べて、私、この体形になっちゃって……。嘘ですけど」
自分の腕のぷよんとした肉を、軽くつまみながら、楽しそうにふふっと笑う。彼女の体格は、確かに同世代の人から比べると大柄だった。しかし、本人は気にしている様子は無い。目鼻立ちも普通で特徴が無く、特別目立つところは無い。
けれど冬香の話し方や笑い方は、人を惹き付けるものがあった。いつも明るく気さくに誰にでも話しかけ、おどけてみせる。ここまで、自分をさらけだし、人に好かれる人も珍しい。そうしたのを見た相手が、自然と自分の心のガードを解き、親近感を持つことが出来る。それは一つの特技のようですらあった。
その明るさが、佳枝には眩しく、そして涙が出るほど、胸にこみあげてくるものがあった。
「あの、片倉さん……」
「冬香でいいですよ。皆さんそう呼んでるので。なんでしょう?」
「お時間、いつあきます?」
唐突に言われた言葉に、冬香は目を見開いて驚く。
「ええっと、そうですね。三時頃なら確実ですけど。なにか?」
「ちょっとお願いしたいことがあって……。三時に角の公園で待ってます。いいかしら?」
「ええ。それはいいですけど……」
一方的に言われ、まだ、何がどうなっているのか理解していない冬香に、佳枝はペコリと頭を下げて、もう一度、待っています、と言った。
三時になる少し前に公園に着いた冬香だったが、桜の木陰の木製のベンチには、もう既に佳枝の姿があり、冬香は慌てて彼女の元へと走った。もともとそれほど大きな公園ではないため、人を探すのには苦労はしない。
「すみません。お待たせして」
呼びかけた声に、ややうつむいていた佳枝はビクンと肩を震わせた。
「こちらこそ。お忙しい中、呼んでしまって……」
腰をあげかけた佳枝に、手でベンチへ座るように冬香は促し、自分も腰掛ける。ジーパンの上から、木の硬い感触が肌に伝わった。蝉の鳴き声が、やけにうるさい。
「実は……、冬香さんにお願いしたいことがあって……」
「私に?」
少し訝しげに、でも興味津々に、冬香は話の先を急いた。
「ええ。……私には十四になる中学二年の娘がいるのだけど、ここ半年、ろくに食事をしようとしなくて。ダイエットするほどでもないのに……。私がそれに気付いたのも、三、四ヶ月前で。周りの環境を変えれば、少しは良くなるかと思って、ここへ越してきたんです。でもあの子一人で……」
佳枝はそこで一度言葉を区切り、思い切ったように口を開いた。
「冬香さん、希美のお友達になってあげてくれませんか?」
真っ直ぐな瞳で、笑うこともなく話を聞いていた冬香は、一度ゆっくりと頷いた。
「私で役に立つのであれば。友達が増えるのは嬉しいです。ぜひ、希美さんに会わせてください」
ええ、と佳枝は何度も何度も頷き、申し訳なさそうに言いづらそうに言葉を紡ぐ。
「ありがとう。それからもう一つ、できれば、食べる楽しさも教えてあげてほしいのだけれど」
どうやら私じゃ無理みたいで、と、佳枝は悲しそうに言った。
「それは……そうですよね、心配ですよね。できるだけ頑張ります。でも、なぜ私になんですか?」
明るい口調で、思っていた疑問をそのまま口にする。佳枝はふっと、微笑した。
「二回お弁当買いに行って、その度に明るく接してくれたので。食べることも楽しんでいるようだし、親しみが沸いちゃって。迷惑かしら……?」
心配そうに不安の色を隠しきれない佳枝に、冬香は強くかぶりを振り、満面の笑みを浮かべた。
「とんでもない! 十四歳の女の子の会話についていけるか自信ないけど、気分は若返っちゃうかも」
にっこりと楽しそうに含み笑う冬香を、佳枝は安堵の表情で見つめた。この人の、この明るさが少しでも娘に伝わりますように。娘の心に新しい風が吹きますように、と。
二
翌日の水曜日、冬香は店が二時閉めというのを利用して、佳枝のマンションを訪れた。その胸はまだ知らぬ少女との出会いを想像し、ときめいていた。
カタカナの【ロ】の字のように、真ん中があいている造りのマンションで、冬香は昔、ここに同級生が住んでいたのを、ふと思い出した。あのときは、このマンションが果てしなく空に続いているように思えて、足がすくんだこともあった。
身体を動かすためにとエレベーターを使わずに、階段で五階まで上がった冬香は、息を切らせ、五〇三号室の前で、ゆっくりと深呼吸をして、息を整える。
インターホンを鳴らし、冬香は手作りのクッキーの袋を持ち直す。夕べ、店を閉めたあとに作ったものだ。冬香は、弁当屋の娘のせいか、食べるだけでなく、料理やお菓子を作るのも好きだった。
もう一度インターホンを押そうかと、腕をのばしかけたとき、玄関が重い音をたてて開いた。光が、その僅かな隙間に差し込む。髪の長い、無気力そうな少女が顔を見せた。
(この子が希美ちゃんだわ)
確信を得て、冬香は元気に挨拶する。
「はじめまして、こんにちは。私、あの角にある弁当屋の片倉っていいます。──希美ちゃんかしら? お母さんいる?」
「いますけど……」
訝しそうに、けれど冬香の明るい挨拶に圧倒されて、希美──と呼ばれた少女──は、奥を見やった。
「お母さーん。お客さん。片倉さんだって」
母親似の甲高い声に呼ばれ、奥からエプロンをつけた佳枝が走りこんできた。
「まあ。暑い中。どうぞ上がって」
冬香はクッキーを差し出しながら、はいと返事をする。
「じゃ、失礼して。お邪魔します」
事態をのみこめていない希美は、目をぱちくりとしているばかりだ。
「野口さんには、お店でご贔屓にしてもらっているから、そのお礼に来たの。会社でいう営業ってやつ?」
サンダルを脱ぎながら言う。
初め、眉をひそませていた希美が、目を見開き、ぷっと吹き出した。
「弁当屋さんに営業?」
あるわけないじゃん、と笑う。
「あら、バレちゃった?」
冬香も勢いにのって答え、佳枝はただただ目をみはるばかりだった。久しぶりに聞く、娘の明るい声に笑い声。例えそれがバカにしたような口調でも。
けれど、手渡したクッキーには、一つも手をつけなかった。出された冷たい麦茶を飲んで、喉を潤しながら、冬香は希美を観察した。
背中まである髪の毛は、ところどころ茶色くなっているものの、染めておらず、束ねてもいない。ただ、肩から流れ落ちるだけ。百五十の真ん中ほどの身体は、華奢というよりは、病的なまでに細く、ちょっと触れただけでも折れてしまいそうで、骨は浮き出ていた。外にもあまり出ないのか、肌の白さは余計身体の細さを強調し、見ていて、痛々しさを感じるほどだった。恐らく四十キロもないだろう。
一時間ほど、野口親子と世間話をした後、冬香はマンションを後にした。
くせのある性格ではあるものの、思ったことを素直に口にするいい子だと、冬香は感じた。そして、毎週水曜日、店が終わったあと、寄るようにしようと、心に決め、ゆっくりと空を仰いだ。
見上げた空は、気持ち良いほどに青く、澄みきっていた。
そうしてマンションを訪ねるようになって、三週目のことだった。珍しく雨の日だった。部屋は、いつもより湿気が多く、余計暑く感じられた。外も灰色の雲に覆われ、急に暗く思える。
いつものように麦茶を飲んで、希美はダボダボのカーキ色のワークパンツをはいて、あぐらをかき、テレビに見入っていた。何気なく見ていたその番組は、ドキュメンタリーで、終戦日に合わせ、戦争を繰り返すな、と呼びかけているものだった。どことなく真剣な眼差しで、くいいるようにテレビを見ている希美を、冬香は視界の隅に留めていた。
リビングのテーブルの上に置かれているお菓子には、全く手を触れていなかった。
冬香の知る限り、希美は水分は取っているものの、食べることは極端に少なかった。朝昼兼の食事は、ヨーグルト一つだけで、夕食もご飯を取らず、おかずに数回手をつけるだけ。──あの日、冬香がきれいに食べてくださいね、と言ったとき、佳枝がどんな気持ちでいたのか、考えれば考えるほど、冬香の胸の痛みはひどくなるばかりだった。
その言葉を懺悔するかのように、冬香は希美に対して、諦めたことは一度たりともなかった。
けれど、希美の心の傷も易しいものではなかった。夜中近くに帰ってくる希美の父親と、冬香が顔を合わすことはもちろんなかった。買い物から帰った佳枝と、皆で夕食をしようと、冬香が声をかけたとき、希美の逆鱗にふれた。時計の針は、七時を指していた。
「私はいいから」
「希美ちゃん、食べようよ。おいしいよ」
「いいってば! 食べたくないもん」
「どうして?」
「太るから。放っておいてよ」
「希美ちゃん、全然太ってないじゃない。どうしてそう思うの?」
「これくらい普通よ。冬香さん、そう言って私のこと太らす気なんでしょ? 私の方が痩せているから嫉妬してるんでしょ?」
「希美!」
佳枝が声を荒げた。表情はめちゃくちゃに崩れ、泣いて怒っているようにすら見えた。こんな佳枝の声を聞いたのは初めてだった。そのことに冬香は驚く。希美は大きく肩を震わせて、わあっと泣き出す。
「あなた何てこと言うの! 冬香さんがどれだけ心配してくれているか……。どうして分からないの! お母さんの気持ちも冬香さんの気持ちも、どうして分からないのっ!」
最後は、悲鳴に近かった。声を震わせ、厳しい言葉とは裏腹に、希美の細い肩を抱きしめる。冬香は呆然と、その光景を見ていた。傷つくことを言われたのは自分なのに、どうしてこの胸はこんなにも希美のことを思うのだろう。冬香はぼんやりとそう思った。
その夜遅く、冬香の携帯に佳枝から電話がきた。涙をこらえた声で、彼女は何度も何度も謝り、娘が昔、太っていたことであだ名をつけられ、いじめられていたことを希美から聞いた、と話した。そうして中学に入って食べなくなり、担任の先生によって給食を残していることも聞いた、と告げた。一時は身体の心配をし、病院にも行ったという。
冬香はあまり驚かず、冷静に話を聞いていた。希美の性格と思春期の少女の悩みなら、冬香もある程度想像がついていたからだ。
一番辛いのは希美ちゃんだと、冬香は幾度も言い、電話を切った。なんだか、どっちが母親か分からないわね、泣き笑いのようにそう言った佳枝の言葉が、冬香の耳にいつまでも残っていた。
窓の外の雨は、もう止んでいた。
三
希美から一言「ごめんなさい」とメールが来たのは、その三日後のことだった。メールアドレスを交換したものの、一度も希美の方からメールが来たことはなかったのに。希美の小さな変化のように、冬香には思えてならなかった。こんなに嬉しいごめんなさいを聞いたのは、初めてのように思える。すぐさま返事を送り、水曜日を楽しみにしていると告げた。
あの雨の日から、希美は言いたいことを言ったせいか、どことなくすっきりした顔つきをしていた。まだ言葉数は少ないものの、冬香にも自然体で接している。時折見せる笑顔の回数も、増えたように思えた。それは佳枝も感じていたのだろう、二人の会話に交じりながら、嬉しそうに顔をほころばせる。
テーブルの上の新聞に目がいったのは、実に幸運のことだった。冬香だけでなく、希美と佳枝にも。記事のタイトルは《あの夏から》というもので、戦争に関するものだった。頭の隅で、似たような趣旨のテレビを見ていたことを、はっと思い出した。一瞬顔に緊張が走り、腕には鳥肌が立つ。
(これだ)
冬香は、明かりの下で枝毛を探す希美に、優しく声をかける。
「ねぇ、希美ちゃん。前、テレビで戦争のドキュメンタリーを見てたの覚えてる? そういうの、興味あるの?」
えっ? という声を漏らし、希美はきょとんとする。
「急にどしたの? 興味あるっていうか……。あの戦争の時代の人って、大変だったんだな~って思う。言いたいこととかも言えないし、自分のことより、国のために動いて。……結局、負けちゃったのに。そういうの、私たち忘れちゃいけないかなって、思う」
佳枝の表情が変わった。娘が、そんなことを感じていたなんて。と同時に、冬香も多少感心する。十四にしては、よく考えている。冬香は、そう、と呟いて、静かに語りはじめた。
自分の祖母の話を。
あの時代、何も食べるものがなく飢え死にした者は少なくなかった。可愛い我が子が、お腹をすかせけれど親はなす術もなく、ただ祈るだけしか出来なかった。その辛さ。栄養失調のため、体に不調を訴える者もいた。ある者は視力が低下し、ある者は耳が遠くなり。そんな話を、ゆっくり丁寧に冬香は伝える。本当に伝えたいこと、それは、心を込めて丁寧に話せば伝わると、冬香はずっと信じて生きてきた。
「希美ちゃん、食べ物があるって幸せだよね。食べ物があるけど食べないことと、食べ物がなくて食べないことは、全然違うんじゃないかな? 食べすぎも良くないだろうけど。『感謝の心を忘れるな』、おばあちゃんの口癖だったなあ」
不思議と説得力があった。それなのに、説教じみているわけでもない。それはやはり、冬香の性格ゆえだろう。
希美は冬香から目をそらし、新聞の方へと視線をやり、指で記事をなぞる。
(何を言うだろう)
冬香は冷たい麦茶を一口飲んで、口の中の渇きを癒し、緊張の面持ちで反応を待つ。コップの中の氷が小さく溶け、カランと涼しげな音をたてた。
希美は顔を上げず、その小さな唇から言葉を発することもなかった。
「なんか、真面目なこと言っちゃった」
恥ずかしそうに、冬香は声をたてて笑い、佳枝の方を見た。彼女はただ心配そうに、静かに娘を見守っているだけだった。
その夜、お風呂後に携帯をチェックすると、留守電が入っていた。佳枝の慌てた声が、吹き込まれている。
「冬香さん! 食べたの。希美がご飯を一口食べたわ! ありがとう」
一瞬ぼうっとし、その言葉を理解するのに数秒を有した。そして「ええっ!」と叫ぶ。六畳もない狭さの自分の部屋に、その声は大きく反響した。すぐさま電話をかけ直す。
「冬香さんっ?」
「おばさん。希美ちゃん食べたって……。本当に?」
「そうなの! 本当! 本当なの! 今希美に代わるわ」
希美、電話よ。あのよく通る声で佳枝が言うのが聞こえた。興奮して、弾んでいるその声は、どこまでも明るく、冬香はまたしても佳枝の声に驚く。
(あの時の悲鳴みたいな声とは、正反対)
思いながらも、冬香自身も頬がゆるむ。
「お母さん、大げさ」
ぶっきらぼうに、電話の向こうで声がした。
「いいじゃない。当然よ」
冬香はそう答え、本当に嬉しい、と付け加える。何度も何度も繰り返す冬香に、電話の先の相手の鼻をすするような音が、一度、聴こえたような気がした。
四
八月も終わり、九月に入った。希美の食事の量が安定してきたらしい。見た目はあまり変わらないように見えるものの、何より希美自身が、食べようとわずかな努力を見せるようになった。佳枝は人が変わったように喜び、冬香には会うたびにお礼を言う。母親である自分が、あまり役に立たなかったようにも思えたが、そんなことはどうでもよかった。
けれど、そんな佳枝に一つだけ気になることがあった。今日、買い物帰りに主婦が三人ほど集まり、噂話をしていた。そのまま通り過ぎようとしたとき、一つの会話が耳に入った。
「冬香ちゃん、しっかりしてるわよね」
「ホントに。私、あの子見るたびに、昔亡くなったおばあさん思い出すの」
「あら、おばあさんなんていた?」
「だから亡くなったんだってば。そうねえ、かれこれもう二十年は経つわねえ。小さくて、冬香ちゃん。何も分からない顔をしていて、それが余計悲しくてねえ」
佳枝の足が止まった。
──今、なんと言った? おばあさんが亡くなって二十年は経つ? それなら前、娘に話してくれた、戦争の話は? 二十年前というと、冬香は小学校に上がる前のはず。そんなに幼い子が、戦争の話を理解して、口癖まで覚えてる?
そこまで考えて、佳枝は身震いし、その足で冬香の元へと走った。
四時を回ったところで、冬香は厨房の椅子に座り、テレビを眺め、一息ついていた。父も椅子にまたがるように腰掛け、一服し、母はお米を研いでいる。この弁当屋は、父母、冬香の家族三人で経営している。
「冬香さん」
力強い声で、店の奥に声をかけられ、冬香は窓口から顔を覗かせた。
「あ、おばさん。……なに? どうしたの? そんなに慌てて」
いつもの笑顔で問いかけたものの、ただならぬ雰囲気を感じ取り、冬香は店の外へ出た。
「冬香さん。前に希美に話してくれたおばあさんの話、嘘だったのね」
静かな声だった。けれど責める口調ではない。ただ淡々と事実を確かめるように。
冬香は何も答えなかった。
時が止まったかのように、音もなく、時間だけが流れる。
風が、さぁっと吹いた。
「おばあさん亡くなったのって、最近じゃないもの。二十年は経つって……。そんなに昔のこと、憶えてるはずがないわ。戦争の話も、おばあさんの口癖も」
そこで一つ、息を吐く。
「希美が、戦争に興味を持っていることに気付いて、言ってくれたのね。もうずっと前に亡くなったおばあさんから聞いたと偽り、親近感を持たせて。……そうなんでしょう?」
冬香は無言のまま、微笑むばかりだった。それは、佳枝の推測が当たっていることを示していた。
佳枝はもう一度、息を吐いた。冬香の祖母の話は、母親の口から聞いたものだったのだ。ありがとう、とかすれる声で、佳枝は頭を下げた。
「本当に……ありがとう。……私、あの子にはいつも希望をもって生きてほしくて、私が希美と名づけたの。だけど、何も食べなくなってから、すべての希望を失くしてた。あの子も、そして母親の私さえも。……だけど」
その後の言葉は声にならず、瞳で語っていた。話さなくても、その柔らかな視線と、穏やかな表情で。
──やっと希望が見えてきたような気がする……。あの子を幸せにしたいという希みが、もう一度持てる……。
その強い希望を胸に、真っ直ぐに前を見て。希望に満ち溢れた前だけを見て。余計な荷物は、今、この道に置いて行こう。苦しみを、いつまでも背負う必要はないのだ。
「その話……」
ずっと口を閉じていた冬香が言った。
「その話、してあげてください。希美ちゃんに。おばさんの想い、伝わるから。──おばさん。言葉って、伝えないと伝わらないんですよ。どんなに深く想っていても。そのすべては伝わらない。うち、今はそうでもないんだけど、昔は両親喧嘩が多くて。言葉の足りなさって、いつも感じてた。なんでちゃんと言わないのかなって、子供心に思ってた。だからおばさんは、きちんと伝えてあげて」
いつも明るく陽気な冬香の過去の思いを、垣間見たような気がした。そんな思いをしていたとは、まったく感じさせなかった。表面の明るさにとらわれて。
そうね、と佳枝は頷き、もう一度お辞儀をした後、冬香の前から去って行く。
冬香は空を見上げた。ゆっくりと流れ行く白い雲が、希美のように思えた。少しずつ変化していく希美のように。気がつけば、空はもう秋のものだ。
(私の希みも、彼女の幸せな姿を見ること。だから、嘘に気付く必要もない。隠し続けた方がいいことも、あるに決まっている)
いつか、大きな声で笑い、たくさんの友達に囲まれ、ショッピングをしたり、淡い恋心を抱いて、胸をときめかせる、希美の姿を見てみたい。
(そう遠くない未来だわ)
冬香は、未来の希美の姿を想像し、一人、想いを馳せた。希美の光溢れる未来に。そして嬉しそうに、口元に笑みを浮かべた。
【終】
《収録一覧》
2004年12月30日「隠された想い」(初出)
2012年 8月12日「宝箱」(再録)




