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4.母の味


 十月に結婚式を控えた兄が、その彼女、未央さんを連れてきたのは、六月の中旬だった。

 とはいっても、私が一方的に彼女を見かけたことはあったから、初めてという気はほとんどしなかったけれど。

 梅雨の時期、空は夕方前からうす曇りで、灰色に覆われ、大粒の雫が天から落ちる。お陰で、部屋の中はなんとなく、湿気を感じた。

 狭い玄関先で、ぽたぽたと服に落ちた雨の雫を手で払い、ハンカチで軽く拭いて、ふっと微笑む。そんな彼女を見て、一番最初に、キレイだなあ、と素直に思った。通った鼻筋、形の良い唇、とがった顎に、細い眉。黒々とした瞳。華奢な体をカバーするように、ゆるやかなウェーブは胸まで隠していた。けれど、それほどの美人なのに、決しておごることなく、丁寧に話す。好感をもたれやすい人だろう。

 婚約してから未央さんは、母の味を教わるために週に二回ほどうちに来る。

「私、料理が苦手なので…」と、彼女が自ら希望したのだ。

「政信さんの好みの味を覚えたいので」と言った彼女の言葉は、母の心に火をつけたらしい。言うまでもなく、政信とは、兄の名前である。

 母は、迫り来る式までの日に、なんとか一つでも多くの料理とその味を教えようと意気込み、やる気に溢れ、心なしかいつもより、生き生きとした表情を見せるようになった。

 息子の嫁になる人に、自分の味を残すのだ、という妙な使命感もあったのだろう。

 彼女は彼女で、二十七歳という歳のわりには、料理の経験が豊富でないように見え(初め、母に言った言葉は謙遜だと思っていたら、どうやら本当に苦手らしい)、毎回、母のアドバイスを受けながら手伝う。

 私はといえば、そんな二人の様子を窺うようにして一緒にキッチンに立つ。私にも、いつかは役に立つ日が来るかもしれないから。

 女三人で立つキッチンは、それだけで身動きが取りにくく、しかもこの時期の暑さといったら、すさまじいものがあった。肌と肌が触れ合えば、汗もべたつき、仕方なく居間から持ってきた扇風機で暑さをまぎらわす。扇風機は、一定の速度で、柔らかな風を送り込んでいた。

 それでも、二人にしないのは、なにか自分だけのけ者にされているような、淋しさを感じてしまうからだった。

 もともと私は、姉という存在を知らなかったため、今この歳になって、義理とはいえ四つ年上の姉ができるのが嬉しかった。会って間もないのに、そんな風に感じるのはおかしいだろうか。でも、小さい頃、姉がいる友達に憧れたその思いを、今やっと叶えたような気もして、姉になるけど、あの日憧れていた友達のような関係になれたら、という願望も抱いてしまうのだ。

 そして彼女には、才能があった。教えられたことを瞬時に理解し、記憶する才能が。母のアドバイスを、笑顔で素直に受け答えできるのも才能だろうか。そのため、母が教えてる間の時間は、静かにゆっくりと流れていた。

 笑顔を絶やさず、いつも明るくはきはきと答え、そしてよく気がつく未央さんは、色白の華奢な身体つきと、その容姿とは反対によく笑い、笑うと口角が上がるその表情は、とてもチャーミングで、なるほど、兄が好きになったわけがほんの少し、分かったような気がしていた。

 几帳面な人らしく、料理で大まかに分量を量ることは一切なかった。母に言われた分量を、必ず細かく量り、水が増えればその分だけどうしたらいいのかなど、一つ一つ母に訊き、母はその几帳面さに苦笑することもあった。

 そんな風にして三人でキッチンに立ち、料理を作った日は、大抵父母、兄、私、未央さんの五人でテーブルを囲い食事をした。

 そして、最近の出来事やこれからの夢などを話す。まるで昔からこの家族だったように、自然に和やかに。食事後は、後片付けも率先して行い、その様子を兄は、嬉しそうに、そしてどこか安心したように見ていた。

 その賑やかな食事会を、誰より何より楽しみに、そして喜んでいたのは、母であったように思う。

 兄の仕事の話や、だんだん腕を上げる未央さんの料理について、嬉しそうに繰り返す。

 母は、特に難しい料理を教えているわけでもなく、家で作る料理の分量が、母の味として教えられた。ただ母は、結婚前、料理教室に通っていたこともあったせいか、味に関してはなかなかうるさい所もあったが。


 そして、二ヶ月が経過した、八月の夏真っ盛りだったあの日──。

 肉じゃがをつくろうと何気なく決め、足りなかった玉ねぎを母に頼まれ、彼女が買いに行った。

 照り付ける太陽の日差しは、容赦なく人の体温を奪う。

 ついでに醤油もお願いしようと、彼女を追いかけ、その姿を認めた。手には既に、スーパーの袋が握られていた。声をかけようとした時、彼女は倒れた。足元から力が抜け、崩れ落ちるようにして。

 私は絶叫のような声をあげて、横断歩道の手前で倒れた彼女に駆け寄り、太陽の日光によって熱くなったその体を抱きしめ、救急車を呼ぶように懇願した。飛び交う叫び声。車の騒音。散らばる玉ねぎ。

 次第に増える周囲の野次馬の中に母の姿はなく、心を落ち着かせながら、携帯で母に連絡した。何をどう説明したのか、全く憶えていない。

 病院に着き、彼女を医師に預けた時、やっと冷静さを取り戻した。

 未央さんは、倒れたときに少し頭を打ったらしく、意識はなく、ベッドに横になるその表情は青白く、ろう人形のようにキレイだった。そのあまりのキレイさが、私はちょっと怖かった。

 医者の話によると、激しい気温差に身体がついていかなかったのでは、ということだった。

 母は、深く後悔していた。自分が買いに行けばよかったのだ、と。あんな華奢な身体なのだから、体力がないことなど、考えれば分かることだったのに、と。私は何も言えなかった。

 静まり返った病院の周りは、もう暗くなっていた。土曜だったのに会社に行っていた兄は、連絡を受けて慌てて早退した。それから、ずっと手を握っている。

 周囲の暗さの中で、病室の電気だけが煌々と光り、病院特有の匂いが部屋に残る。けれど、手をつないでいるその空間だけが、温かい空気に包まれていた。

 こんなに優しく、いとおしむような兄の表情を見たのは初めてだった。

 こんな顔もするんだ、となんだか嫉妬にも似た感情が小さく顔を覗かせた。

 布団の上の指が、ピクリと僅かに動いた。

 未央さんっ、と母が言い、同時に飛びつく勢いで兄が、さらに手を強く握り締め、顔を覗き込む。

「大丈夫か? わかるか?」

 彼女はうっすらと両目を開け、口元をゆがめて微苦笑した。笑うような泣きたいような、そんな風に見えた。

「あれ……」

 空中に指を伸ばしたものの、宙をきり、布団の上に落ちる。

「なんだ?」

「……玉ねぎ、つぶれてないかなあ……」

 傍にいた私たち三人は、思わず顔を見合わせた。

 そしてたっぷり三秒経った頃、声を出して笑った。

 罪悪感を感じていた母の目じりには、うっすらと涙が浮かぶ。

 自分のことよりも、料理のことを考えていたなんて、私には出来そうもないと思う。

 ──でも。何にしろ。これからの母の教え方は、今までよりきっとソフトになるだろうな。抱いていた罪悪感が消えないうちは。




   【終】




※ 次の「5.玉ねぎの理由」はこの話のオマケ話です


《収録一覧》

 2004年5月 4日発行「母の味」(初出)

 2012年8月12日発行「宝箱」(再録)

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