31.夏の日のキス
その日は朝から雨だった。灰色の厚い雲に覆われ、雨がやむこともなく降り続けている。
私はだるい気分で部屋の片隅の野球中継を観ていた。コマーシャルに入ったとき、彼──孝志──がテレビを消し、静かな口調で言った。
「涼子、別れないか」
いつもと変わらないその口調に、私の胸はきゅっと締め付けられる。
*
大学3年の夏、それは暑い日のことだった。
蝉がミーンミーンと鳴き続け、太陽は容赦なく体に照りつけている。私はまた化粧が落ちるな、なんて女の子だったら誰でも心配しそうなことを考えていた。
肩までのふわふわしたパーマの髪の毛が、首にまとわりついて余計暑さを増す。
広いキャンパスを歩いている時に、同じゼミの子に声をかけられた。かん高くてよく通る声。
「高瀬さん」
モデルみたいな華奢なその子は、昨年文化祭でミスコン準優勝に選ばれた子だ。私はあまり親しくはしていなかったけれど。
「何?」
「今度ゼミで合宿があるの、海に行くんだけど。あ、でも教授とかは来ないで学生たちでする集まり。来ない? 今私、人集めてて」
幹事みたいなこともするのかあ。ゼミの中でもちやほやされていたから、大体人任せだと思っていたけど、活動的な所もあるんだ。そんなことを思いつつ、私は少し考え込む。
海ってことは、水着も必要なのかな? 泳ぐのはちょっと苦手だな。
その疑問を正直に投げかけてみたら、
「あら、そんなことはないわよ」
と、あっけなく返って来たから気分転換に行ってみようと思った。
あ、そうだ。
「あ、あと、亜美も来るか分かる?」
友達の名前を出してみた。一人じゃちょっと心細い。彼女は大きく笑って言った。
「あの子が来ないと思う?」
……はい、そうですね。イベント事には必ず付いてまわる子だ。
私は軽く手を上げて「ありがとう」と言った。
当日も天気が良かった。
大学で待ち合わせして、車二台で合計十二人が集まった。
私はずっと亜美の隣にいた。その方が何事も安心に思えたからだった。
亜美はショートカットの活動的な子で誰からも受けがいい。明るく、そのうえとてもしっかりしてる。恋愛経験も豊富で、私はよく話を聞いたりしていた。私がアドバイスできる点なんてなかったけど。いわゆるノロケというやつだ。私と同い年というのが信じられないくらいだった。
夏休み真っただ中の土日、道は渋滞で海に着いたのはお昼を回っていた。
ゼミの合宿と言いながら、自由時間なんだから気楽でいい。
私はTシャツにショートパンツという格好で、パラソルの下に佇み、近くでビーチバレーをしている皆を見ていた。他の観光客もきゃあきゃあと楽しそうに波と戯れている。
照りつける太陽はだんだんと力を増し、私は何度も日焼け止めを塗った。
片手で白い砂をすくい上げると、指の隙間からこぼれていく。
さらさらさら……、と耳に心地よく響いてくる。私はその音に耳を澄ませていた。
その時、後ろから声をかけられた。
「君はビーチバレーしないの?」
私は声の主を見た。知ってる人だった。三年生の間ですごく人気がある人だったから。私は話したことはなかったけど確か、孝志先輩と呼ばれていた。
「私、運動音痴なんです」
苦笑を交えて言うと、先輩は顔を歪めて笑った。
「えっと、……名前は?」
「あ、高瀬、高瀬涼子です」
そう挨拶してペコリと頭を下げたら、その先輩はああ、と言って手を叩いた。
「君が高瀬さんかあ。有名だよ、僕らの間で。真面目すぎて」
ええっ?
「そんなことないですけど……、ところで先輩はどうしてカメラ持っているんですか?」
「不釣り合いかな?」
「いえ、そんなことないですけど」
慌てて首を横に振る。コマーシャルとかで見るデジカメではなく、本格的な一眼レフだ。大きいし、重そうだ。
「好きなんだ。ほら僕、今就職活動中なんだけど、それも出来ればカメラ関係の仕事に就きたくてね」
「大変ですね」
「うん。もう二〇社は回った。全部落ちたけど。でも今はこれくらい皆してるからね。普通の就職でも大変なんだ。条件絞った僕みたいなのはもっとかかるよ。覚悟してる」
将来のことについて、語る先輩はとてもきらきら輝いて見えた。私はそんな先輩に尊敬の気持ちと眩しさで、目が合わせられないでいた。
聞きながら相槌を打つ。
どうして私の周りの人は、みんなしっかりしているんだろう。この合宿を企画してるあの可愛い子も、亜美も先輩も。
先輩をよく見たら実に端正な顔立ちをしている。人気があるわけだ。私は正面からまっすぐ見たのは、今日が初めてだ。通った鼻、Tシャツ一枚でもわかるある程度ついた筋肉、穏やかに微笑む顔、大人のハスキーな声。
「先輩って映画とか観ます?」
私はもっと先輩と話をしていたくて、唐突だったけれど会話を続けた。
「うん、好きだよ。ちょっと前の『猟奇的な彼女』とか面白かったし」
「あ、私もそれ見ました。ラスト良かったですよね。……でも意外。韓国のとかも観るんですね」
「面白そうだったら何でも観るよ。アクションも好きだから『ミッション』シリーズなんて何回も観たし、『トランスポーター』っていうのも観たし」
「私もアクション観ますよー。『トランスポーター』は車の仕掛けも大胆で面白いですよね」
「そうそう、あんなの良く作ったよね」
話が弾んできたとき、もう陽が沈み夕食にバーベキューをしようと友達に声をかけられた。足についた砂を軽くに叩いて落としながら立ち上がる。
その時先輩に、耳元でふっと囁かれた。風でかすれてたけど、ちゃんと聞こえた。
「途中で抜け出そう?」
えっ?
見上げた時、先輩はもう、後ろ姿だった。
私はドキドキしながら、頬が火照るのを感じた。すごくすごく嬉しかった。
水着から着替えた亜美が私に近づいてきた。
「水沢先輩となに話してたの?」
「水沢先輩?」
「水沢孝志先輩のこと。パラソルでずっと話してたでしょ」
鋭いな、相変わらず。
そうか、水沢っていうんだ、先輩の苗字。訊かなかったな。
「大したことじゃないよ」
「そんなことないって顔してる。顔、赤くなってる」
亜美が冗談ぽく言った。思わず、顔に手を当てる。
「まあ、あの先輩なら安心だし、いいんじゃない?」
「なんの話よ?」
「付き合うとすればって話。あ、皆呼んでる。行かなきゃ、夕食だよ」
砂の中を走って行く。わざわざ網をはってバーベキュー。見ると、砂浜の人影はまばらになっていた。
風が夕方で爽やかなものに変えていく。私は大きく深呼吸した。
緊張するかと思いきや、皆片手にビールで大騒ぎだった。肉とか野菜の香りだけでお腹がすいてきたほど、美味しそうな匂いが漂ってきた。
それにしても羽目外し過ぎじゃないかな。
近隣の人たちから文句とか出ないかな。
……あ、こういうとこが真面目って言われるのか。
同時に先輩の言葉を思い出す。
『途中で抜け出そう?』
その言葉通りに意外に簡単に抜け出せた。
彼に手を引っ張られながら、岩場の陰に隠れて素早くキスされた。
訳が分からなかった。
私は驚き過ぎて目を見開いたままだった。
「先輩? よくこんなことしてるんですか?」
こわごわとそう訊いたら、先輩は片手で顔を覆いながら困ったような顔をした。
「……初めてだよ。……そんなに慣れてるように見えた?」
「……少し」
「まいったなあ。大人の振りしてたんだけどな」
私はそれを聞いてくすっと笑った。
それから私たちは付き合うようになった。
話が合って、お互い真面目なところが良かったみたいで。
付き合うようになって孝志の性格がより見えてきた。後輩思いのとこ。聞き上手なとこ。分かりやすく説明するとこ。
亜美には散々からかわれた。
「ほら、言ったとおりじゃない」
「まぁ、結果そうなっただけだけど」
「言い訳、言い訳」
彼の就職活動は、思ったよりずっと難航した。
そんな彼を支えるため、私は明るく元気づけた。毎日メールと電話を欠かさずに。亜美にもアドバイスをもらった。私には、初めての恋人だったから、彼女のアドバイスはとても心強かった。
亜美の彼氏は昨年就活して、今年社会人になった人だったからそれも参考になった。
好きで好きで一か月しないうちに一緒に暮らすため、ルームメイトの部屋を出た。
年が明けて一月の後半、念願の内定が取れた。
カメラのアシスタントにもなれず、雑用からの扱いのようだったけれど、孝志にとっては嬉しかったみたいで、思い切ってホールのケーキを買ってお祝いした。
「おめでとう」
「ありがとう」
彼はにっこりと微笑んだ。私はその笑顔がたまらなく好きだった。
季節は巡り、また夏になる。
今度は私が就職活動に奮闘したけど、自分でも思ったより早く内定が取れた。
雑誌の編集の仕事だった。いつか出世したら、孝志の写真を入れたいなと思っていたから嬉しかった。
孝志も自分のことのように喜んでくれた。でも何となく、この頃の彼の気持ちはよく分からない。無理してないかなって不安になった。あまり、自分の話をしなかったから。
その代わり、私の話を聞きたがった。大学のゼミのこと、仲間のこと、今の気持ち。
そして頻繁に体を求めてきた。もちろん嫌なことじゃなく、むしろ嬉しいんだけど、なぜ孝志が急にそうなったのかが分からなくて不安になってきた。私が卒業する間近のことだ。
社会人になった私は、熱心に仕事に打ち込んだ。新人だから覚えることがたくさんあって、毎日があっという間に過ぎた。
彼はアシスタントの仕事も少しもらえるようになってか、笑顔が増えた。
だけど時間というものは怖い。
1LDKのアパートで、
「コーヒー飲みたいな」
と呟く。
呟いただけなのに、五分後には孝志がコーヒーを差し出してくれる。
「ありがと」
四文字の中に甘えが入った。
彼は彼で、私に尽くすことで愛情表現が出来ていたと思っていたはずだ。実際、私たちは喧嘩という喧嘩をしたことがなかった。
テレビのリモコンは私優先、時間が合えばいつも一緒、残業で遅い私のためにご飯も彼が作る。そんな彼に私は完全に依存していた。
違和感を先に感じていたのは、頭のいい彼の方だったはずだ。
だんだん会話も途絶えてきて、そこでようやく私と彼の心のすれ違いが出始めた気がした。
それはまるで、夏のスコールのような感じだった。
今まで晴れていたのに、急に雨が降るあの感じ。
お互いに甘えすぎてないかな?
ふと、そんな疑問が日常で頭をよぎった。
お風呂後、コーヒーを片手に顔を覗き込むようにして訊いてみる。
「ねえ孝志、最近カメラの話しないね」
孝志は読んでいたカメラ雑誌から顔を上げた。
「あ、聞きたかった?」
「そりゃそうよ」
私は唇を尖らせて言う。
「んー、つまんないかなあと思って。まだアシスタントだし。涼子の編集の方はどうなの?」
「私のだって、言って分かるかなあ」
「分かる、分からないじゃなくて、話してくれるのが嬉しいんだよ」
「それを言ったら私だって同じだよ?」
「そっかあ」
心と心のズレが見えてきた。
いつか、孝志との別れ話が出るのだろうか。
心の中に、そんな爆弾を抱え始める。その不安という爆弾は日に日に大きくなっていく。
*
そして出た。
「涼子、僕はね今でも君のことが好きだ。嫌いになったわけじゃない。好きな気持ちは変わっていない。でも、このままだとお互いがお互いを気遣い過ぎてる気がする。それじゃこの関係はいつか自然に消えてしまう。そんなのは僕は嫌だ」
私も嫌よ。喉まで出かかった言葉。やり切れない気持ちだけが残る。
テレビを消した部屋に、雨が音を立てて響かせる。
ねえ、どうしてそんなに苦しそうに言うの? 悪いのは私だって同じなのに。
「だから、一回きちんと別れよう」
不思議と驚きはなかった。爆弾が姿を現しただけだ。
分かってる。お互いに甘えて、依存して、悪い意味で尊重して。だから。
「……そうだね、うん」
「でもずっとじゃない。また会いたい。来年の夏、初めてキスした場所憶えてる?」
「忘れるわけがないわ」
声が震える。
あれがすべての始まりだったのだから。
「お互いが、今よりもっと大人になれたのなら、もう一度あの場所からやり直そう」
「うん、……なんか『猟奇的な彼女』みたいだね」
泣き笑いの顔でそう言ったら、孝志は微苦笑した。初めて会話したことを、その内容をお互い憶えていた。
もう一度、あの夏に戻りたかった。
私の気持ちは変わらないよ、きっと。
だからあの場所に行く。今よりもっと大人になって。
愛しいこの人を、もっと愛せるように。甘えすぎない関係に成長して、もう一度やり直すために。
来年の夏に期待して。私たちはもう一度、あの岩場でキスをしよう。
【終】
《初出》
2010年11月14日発行「夏の日のキス」




