3.夢
僕は今でも夢を見る。
誰もいない真っ暗い闇の中で、君の顔だけが浮び、口許をゆがめて自嘲気味に笑う、あの時の君の表情を。
あれからもう、三年になるというのに。
夜が怖い。
夢を見るのが無性に怖い。
君に責められる。
唇を僅かに動かし、君は何て言っている?
「嘘つき」?
それとも「裏切り者」?
出逢いは三年前の春。薄紅色の桜の花びらが、すべて舞い散った頃。大学の合コンだった。
異性に興味はありつつも、自らセッティングするほど積極的でない僕と、派手に着飾って、自分という存在を誇示する女性の中で、異質なものを放っていた君。服もラフなピンクのカットソーに、黒のミニスカート。そして、ジャケットを羽織るだけ。
「真実」と書いて、まみ、と読むと自己紹介で言っていた時、僕は妙に納得したんだ。嘘や言い訳を許さない厳しさを感じさせる雰囲気と、どんなに辛いことでも、それが真実なら受け入れてみせる、という瞳をしていたから。
何回かの席替えで、やっと君の隣の席に座り、必死で話しかけているのに、君はつまらなそうに片肘をついて、食べ物をつつくだけだった。
そんな君が、まともに僕の方を向いてくれたのが、憶えているかい? あの時だよ。
薄暗い店の中で、顔を真っ赤にしながら、三杯目のカンパリオレンジを注文しようとしていたから、「ジュースにしておきなよ」そう言った時。
じっと僕を見つめて、吸い込まれそうな大きな目を更に大きく見開き、形の良い、小さな唇を開いた。
「そう言われたの初めて」
本当に驚いた表情でそう言うから、逆に僕も問い返したんだ。
「どうして?」
そしたら君は、笑って、そんなの分かるじゃない、って言った。
「お酒を呑ませて、お持ち帰りにするためよ」
大学二年で、やっと二十歳になったはずなのに。こういう場所に慣れていないように思えていた僕に、そのセリフはかなり強い、インパクトがあった。
特別キレイ、と言えないまでも、細い華奢な体のどこにそんなに入るのか、彼女の食べっぷりは、見ていて気持ちが良かった。エビサラダにチャーハン、春巻きに、デザートのクリームブリュレ。君は、美味しそうに口に運ぶ。
僕は彼女の、明るい大学生らしくない落ち着いた雰囲気と、その食欲に惹かれたのだろうか。
どちらにしても、どうでもいいことだ。
なぜなら、もうすでに好きになってしまっていたから。
彼女は僕のアドバイス通りに、グレープフルーツジュースをオーダーし、やっと二人で会話が出来るようになった。
それからの二人の付き合いは深くなった。
お酒を勧めなかった僕を、誠実と受け止めたのか、電話もメールアドレスも、難なく交換した。合コン、というもの自体に慣れていなかった僕は、あまりのスムーズさに狂喜乱舞した。
今だと、もし計画的に、僕があのセリフを言っていたら、どうなっていたのだろうと、そう思ってしまうが。
付き合い始めた彼女は、大人びた冷たい印象のあった最初からとは、明らかに変わり、温かな雰囲気を漂わすようになった。もちろん、時たま、にだが。そして僕は、そんな彼女に癒される。
映画鑑賞や音楽の趣味も、とてもよく合い、週に三日は必ず会っていた。
彼女はラブストーリーの映画が好きで、しっとりとするものは、悲しげな表情で画面を眺め、コメディは、声を立てずにクスクスと笑った。
僕も、男のくせにそういう映画が好みだった。昔付き合っていた彼女に笑われたことがあるのを、苦く思い出す。
映画の帰りは決まってファミレスで、それについて熱く語り(クールな彼女も、映画に関しては饒舌になった)、食事をしながら、コーヒーをおかわりし、彼女の細い指を見つめていた。
真実は、腕というか、手のキレイな人だった。
動物を飼ったことが無いのか、そういう類の傷も一切無く、すらりとのびた指は白く長く、爪の形もキレイで、いつもマニキュアを塗っていた。
初めてのキスは、初夏の公園の夕暮れだった。
西へ傾く太陽を背に、人気の無いベンチに寄り添って座り、肩を抱きしめ、手を伸ばし、茜色に染まりかかった君の頬に触れた。夏の熱気で、頬は少し、熱かった。そのまま、唇を重ねる。柔らかな感触が温かく、いつまでも僕の唇に残った。君は恥ずかしそうに俯き、その姿が、たまらなく愛しかった。
そうこうしているうちに月日は流れ、十二月に入り、寒さが、薄着の彼女を震わせる。女の人は、どうしてこう薄い格好をするのだろう、と僕は思う。街はイルミネーションに彩られ、華やかな世界へと変わる。
クリスマスはどこで過ごそう、思い切ってホテルで食事でもしようか、そんな会話も幾度となくした。
僕のプレゼントは、もうすでに決まっていた。
あの細く長い指にあう、誕生石のトパーズをあしらった、ブルートパーズ入りのプラチナの指輪を買おう、と。
そのために会う日を減らし、家庭教師のアルバイトをかけもちした。淋しくなったら、電話の回数を増やして。
ただ一つ困ったことは、真実の指のサイズが分からないことだった。
本人に聞くのが一番手っ取り早く、何の問題も無かっただろう。けれど僕は、驚かせたくて仕方が無かった。箱を開けて喜ぶ彼女の顔を、想像するだけで幸せだった。楽しみだった。
迷いに迷った挙句、僕は一番してはならないことをしてしまった。
元カノの由梨に連絡をとってしまったのだ。
いや、弁解をするならば、僕が取ったわけではない。
友人の涼に相談したところ、涼から由梨の方へ連絡がいってしまったらしい。
クリスマスの三日前のことだった。
由梨と一緒に指輪のサイズを見るだけ。由梨と真実の指は、同じくらいの細さのように感じていたから。
けれど、何だ、この罪悪感は。不安な気持ちは、どうして。
由梨に指輪をプレゼントしたことはなかった。そこまで付き合う前に僕が振られてしまったのだ。
歩きながら、どこか楽しげに由梨は僕に話しかける。一つ年下で、明るく積極的で、大胆なところがある子だ。遊び慣れている雰囲気も持っている。
「ね、どんな子?」
「普通の子だよ。ただ、大人びてて。でも食事は美味しそうに食べる。そのギャップが可愛い」
言いながら、すごいノロケだな、と思った。案の定、由梨は自分以外の女性が褒められたことに、少しふてくされ、それから思いついたように言った。
「ね、腕組まない?」
「何で。由梨とはもう終わってるんだ。余計な誤解はされたくない」
「彼女は、ここにいないのに?」
「ああ。いなくても」
そして、そんな会話をしながらたどり着いた某有名宝石店に緊張の面持ちで入り、デザインや、値段と相談しつつ、一つのリングを買った。
キレイにラッピングしてもらい、店から出た時、外はすっかり夕方から夜へと姿を変えていた。吹く風は冷たく、人の温もりが恋しいほどに。
プレゼントの袋を強く握り締め、照りつける月を仰ぎながら歩いていたら、横断歩道で、肩がぶつかった。
すみま、せん、と言おうとした時、相手の顔を認めた。
真実だった。
真実も謝ろうとしつつ、こちらを見て、そして凝視した。やがて、何も言わずに頬を歪めて笑った。口許を少し上げて、何か呟いたような気がした。
「誰?」
なぜ、訊くのが由梨なのか。
「今の彼女」
僕は、不機嫌に由梨に言った。なんだって、こんな所を見られてしまうんだろう。
「紹介するよ、こちら……、」
続けて言おうとした時、真実の声に遮られた。
「違います」
その声は、呟くような小さな声だった。真実は、じっと、由梨の方を見ていた。由梨も目をそらさずに、真実の次の言葉を待つ。真実は白い息を吐き、今度は大きな声で言う。
「違います。私、彼女じゃありません」
ぎょっとするような声だった。由梨は、驚いて僕を見る。僕は、呆然とするばかりだ。
それは、どういう意味なのだろう? 突然の予期していないセリフに、僕は戸惑い、困惑する。
クリスマス前に、元カノと歩くような男とは、付き合っていない、ということか? 真実のプライド?
それとも、今僕は、振られたのだろうか?
居心地悪そうに去った由梨を、複雑な気分で見送り、僕は、何度も何度も真実に連絡を取った。メールも、電話も。数え切れないほどに。
けれど、すべて無視された。
一言の弁解すら、させてもらえなかった。
彼女の、真実の極端な潔癖症について、どうして忘れていたのだろう。一番初めに出逢った時に感じた、嘘や、言い訳を許さない厳しさも、なぜ、今、思い出すのだろう。
今、思う。どうしてピアスにしなかったのか。考えなかったわけではなかったのに。長い髪が、耳元を隠すような気がしたのも確かだった。
そして、決定的なのがこれ。どうして、涼に相談し、由梨と再会するのを許してしまったのか。自分の中では、確かに終わっていたことだったのに。いや、終わっていたから、逢えたのだろうか。
あの時の真実の表情が、頭から離れない。
君はきっと、こう思っている。
「誠実そうに見えたのに、結局浮気するのね」
……違う…! すべて、君のためだったのに、と僕は言おうとする。
けれど君は、自嘲気味に笑う。
その声が次第に大きくなって、僕は目を覚ます。
夜が怖い。
夢を見たくない。
君は夢を見るのだろうか。
見るとしたら、あの由梨と一緒の、たまたま一緒だった時のことを夢見てしまうのだろうか。
僕が、現実だと認めたくないあの時の……。
夢を見たいんだ、もう一度。
君と一緒にいる夢を。
映画を観て、ファミレスで、君は美味しそうにグラタンを食べ、食後にデザートを口に運ぶ。生クリームがついたフォークを舐めて、最後にとっておいたイチゴを半分に割って、僕にくれる。
指には、プラチナのブルートパーズ入りのリングをして、器用な手つきで、コーヒーカップを口にする。
そして二人で、微笑みを交わす。
そんな夢を見たいんだ。
そういうことすら、僕はもう、許されないのだろうか。
【終】
《初出》
2004年3月発行「愛のかけら」(合同本寄稿)
※個人誌再録なし




