19.右手に妹、左手に愛情
その日、ぼくの世界に光が入った。
ぼくは自分でも割といい子だと思う。気も付くし、三つ下の妹にはいつも親に言われたとおりにお菓子をあげていた。小学六年のこのぼくがだ。自分が食べたいのもガマンして。
妹はまだ幼い。ぼくもと言われればそれまでだけど、ぼくは同世代の子よりは大人びていた。ちょっとすかして見るところがあった。
お手伝いも母子家庭のうちでは、なんでもぼくが先にやった。お茶碗洗いも洗濯物のとり込みも。妹の加奈はいつもいつも後ろにくっついているばかりだった。
かわいいとは思う。
でもお母さんまでが加奈の方ばかり見ていることに、ぼくは多少なりとも不満があった。ぼくも子供だよ、お母さん。先に産まれただけで子供なんだよ。なんでも「お兄ちゃんだから」と片付けないで。そう言いたかった。ちょっとした嫉妬が心の中でぐるぐるして、自分でも情けなかった。
学校の先生が言うみたいに、ぼくは素直になんかなれやしなかった。
「勇、これ加奈の給食費。忘れたの持って行ってあげて」
「うん、分かった」
母子家庭は大変らしい、という話は聞いたことがある。だからお母さんが六本木のスナックで働いてるんだ。歳の割に派手な化粧をして。ほっぺなんかピンクだぞ。でもそれが、商売だということもぼくはまた知っていた。現実がぼくを大人にした。
教室に行く。長い廊下を歩きながらペタペタという上履きの音がする。
3年2組、加奈の教室だ。引き戸を引いて名前を呼ぶ。
「加奈―」
呼ばれた妹は高い位置でポニーテールをしていた。振り向いた途端、ぱさっと揺れる。かわいいとは思うけれど……。
何で何でもぼくがしなくちゃいけないんだ?
何で加奈は何もしないんだ?
どうして助けるのはいつもぼくなんだ?
お母さんはどう思っているのだろう。ぼくのこと。心の中にもやもやがつもってきた。それをどう消していいのか分からない。
そろそろガマンがパンクしそうだった。それを抑えてるのはいい子の自分。
飛んできた加奈に渡したあと、そんな気分におちいった。
それでも、家に帰ると洗濯物をとり込まないといけない。
事件は三日後に起きた。
学校の帰り道、加奈がクラスの男子数人にからかわれているところを見たのだ。ううん、違う。髪の毛もつかんでたから暴力だ。加奈はきゃーと言って泣いている。
ぼくのしたことといったら──何もしなかった。ただ見ていた。
いけない。これじゃいじめっ子と同じだ。早く助けなきゃ。妹を。ぼくの妹なんだから。
一瞬見ない振りをしようとしたぼくは、慌てて木の陰から体制を立て直した。
「何してるんだー! ぼくの加奈だぞ。髪の毛ひっぱるな!」
人間って、ホントにやる気になれば何でも出来るとこの時思った。ケンカなんて嫌いなのに、苦手なのに。
いろんな感情が混じって半ベソをかきながら、ぼくは相手の男子を殴った。ぐーで思いっきり。足でも蹴った。
「加奈、先に帰れ! 早く逃げるんだ!」
「でも、でもお兄ちゃん……」
「いいから!」
それからは殴って蹴られて大変だった。痛かった。転んで石に頭をぶつけた。
でも生まれてきてからかわいいと思えるのは久々だった。
「お兄ちゃん」って響きが今、胸にきた。
夜、八時くらいだったと思う。加奈をいじめてた子が母親を連れてやって来た。加奈の話によるとすごい怖いおばさんらしい。
腫れたほっぺたを指さして、
「うちの子になんてことするんですか! 見て、これ。こんなに腫れちゃって、まあかわいそう」
大げさに言う。
「でも、お先に手を出したのはそちらでしょう」
話を聞いて店を早退したお母さんが一生懸命話している。顔の表情はどこか切なく、複雑な顔つきだけど。
「あらあら、これだからいやね。母子家庭は。ちゃんと躾できてないんじゃなくて?」
「でも、うちの子は自分からそんな人様に手を出したりはしません!」
「どうだか」
「本当にいい子なんです! よく気の付くできた子なんです」
「そんないい子が、ここまで腫れるまで殴るかしらね!」
「妹を守って殴ったのよ!」
震える声でお母さんが怒鳴ったのを聞いてぼくはもうダメだった。お母さんは、ちゃんとぼくのことを見ててくれた。それだけがすごく嬉しかった。ぼくはお母さんに突進していってその体にしがみついた。
「お母さんっ」
お母さんはぼくを抱きしめ、静かな口調で言った。
「勇、あなたムリしてたのね。お母さん、加奈の方ばかり見てると思ったのね。ツライ思いさせてごめんね」
こらえきれずにぼくは泣いた。わあわあと。いい子をずっと頑張ってきたぼくは、泣くことがこんなに楽になることも知らずにいた。
おばさんは呆れたように帰って行った。
ぼくは頭をなでられながら「でも殴るのはいけないのよ」というお母さんの言葉に、何度も何度もうなづいた。
これからもこの生活は続いていく。
妹の加奈を守りながら、母親の愛情を感じながら。
せめて今日は。
お母さんの布団の中で一緒に寝たい。
【終】
《初出》
2008年12月30日発行「右手にて妹、左手に愛情」




