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14.音のない偶然の奇跡

 それは、江西夏希(えにしなつき)の日課になりつつあった。

 大学を卒業して、一年間勤めていた会社を人間関係のゴタゴタと、そのために壊した体調のせいで辞め、今のスーパーでアルバイトとして朝の九時からお昼の一時まで働いて、もう二年が過ぎようとしていた。

 その日もいつもと同じように一時で仕事から上がり、これまたいつものように一度家へ帰って親より遅い昼食をとって、近くの、といっても徒歩十分のところにある喫茶店に入る。駅の近くではあるが、正面の通りではなく、一本それたわき道のはずれにある店だ。店の名は《ドレミ》という。なぜ《ドレミ》というのだろう?と店員に訊いても「さあ? 覚えやすいからじゃないでしょうか?」と返された。

 店の常連となり月・水・金に通う日課になって、半年になった。

 風が強く、冷たく吹く外から店内に入ると、もやっとした、生暖かい空気が一瞬夏希を包んだ。

 素早く空いている席を探す。お気に入りは禁煙席のソファの背もたれ。空いているのを確認して、夏希は安堵のため息をついた。何しろ時間は午後三時。おやつ時として、最もお客が入る時間帯ではないだろうか。それなのに席が空いてることを嬉しく思う。ひっそりとした店で、席数もそんなに多くはないが、客足は多い。それはやはり、コーヒーの美味しさゆえだろう。

 真っ先に席に、黒のファーつきコートを脱いで椅子にかける。店内はほどよい暖かさと、人の熱気に溢れていた。流れる音楽は、人の声にかき消される。

 店員の元気な声にも癒された。

 初めてこの喫茶店ドレミに入ったのは、半年ほど前の夏の終わりだった。蝉の声も少なくなり、空もいくらか秋のものに変わり始めた頃。

 駅から帰るとき、無性に甘いコーヒーが飲みたくなり、何気なく入ったわき道の匂いにつられて入ったのが最初だった。一見、何の変哲もない目立たない喫茶店。コーヒーの香りがなければ、通り過ぎてしまいそうな。看板も、木製のものに《ドレミ》と彫ってあるものに白インクをのせてあるだけだ。ドアも自動ではなく、ノブで回すとカラン、と音が鳴る。

 チェーン店ではないけれど、このお店の特徴として、頼めばコーヒーに生クリームをのせてくれる。そのことに気付いたのは、入ってからだったけれど、甘いコーヒー(カフェ・モカのような)がなければ、ココアを頼むつもりでいた。だからこそ余計、この甘いコーヒーが夏希には嬉しくありがたく、お気に入りの店の一つとして、追加されたのだった。

 そして、週三日の気分転換の他にもう一つ、この店を訪れる理由があった。

 ガラス戸で仕切られた喫煙席、右三つ斜め向かいに座る三十代前半と見られる男性を見るため。

 もともと夏希は、人間観察が好きだった。

 一人で店に入っても、飽きることなくゆっくりと中にいる人たちを眺め、どんな会話をしているのかと一人で想像しては楽しんでいた。

 そこで目に止まったのが、その男性だった。この時間帯に一人でいた、ということが一番最初の理由だったように思う。

 質の良さそうな上品なカーキ色のコートを席にかけ、黒ぶちの眼鏡をかけて新聞を片手にコーヒーを飲む。向こうは恐らく、いや完璧に、夏希の存在に気付いていないだろう。

 どこか歳の渋さを感じさせ、落ち着いた大人の男の人、といった感じが夏希の第一印象だった。

 月・水・金はこの人を見に、というか、会いにこの店に入る。

 いつも仕事の合間に入るらしく、午後三時前後に見かけることが多いということに気付いたのは、店に来るようになって三回目の時だった。

 胸が切なくなるような恋でも、逆に燃えるような熱い愛でもない。ただの憧れの人、ちょっと見たいだけの人、ということ自体、夏希自身、自覚していた。それでも、姿を見ることが出来れば、今日一日すべてが楽しく幸せに過ごせたような気がするのだから、不思議だ。その男性の魅力の一つなのだろうか。

 席にコートをかけたら、夏希のグリーンのセーターが鮮やかに見えた。グリーンといっても、少しラメが入った明るめのもので、七分丈だ。夏希は暑がりなため、冬でも大体、半袖か、七分丈が多い。今日は、半袖では肌寒い気温だった。

 スカートもバイトのジーパンからはきかえ、今日は珍しく黒のアコーディオンプリーツ。細かいプリーツが、夏希のスタイルをより美しく際立たせて見せる。ショートの髪は、先月イメージチェンジしようと、肩の長さから首筋まで短く切ったものだ。そのため、染めていた茶髪も黒に戻して、シャギーを入れて、軽いイメージを出した。それは一見、活発な印象を与えた。

 生クリーム入りのコーヒー・ラテを注文し、席に着いた。

 男性はまだ見えない。

 見えたとしても、多分夏希の美しさにも気付かないほど、彼は真っ直ぐ席へ行き、新聞を広げるのだろう。

 そこも素敵だと、夏希は何となく思う。

 いつもその容姿のせいで、自分が見られているからか、夏希は少し冷めた感じのする人の方に興味を抱いた。実際は、容姿よりも、彼女から出ている何か安心した温かな雰囲気に、他人は惹かれているようだが、本人は、そのことに気付いていない。人より少し目が大きいのかしら?などと、呑気なことを思うだけである。

 その呑気さが、会社に勤めているときにあれば辞めずにすんでいたのだろうが、あの頃はとにかく、人の視線ばかり感じ、辞めてからしばらくして、やっとゆったりと考えられるようになったのだ。しかしさすがに、見知らぬ人に見られるのは恥ずかしいのだけれど、この喫茶店ではそういうことはほとんどない。それも夏希のお気に入りの理由の一つだった。解放されて自由な気分になる。

 夏希は、皮のソファの背もたれに背をついて座るのが好きだ。腰を落とした時の弾力と、背もたれの硬さがちょうどいい。背中はガラス越しになる。とはいえ、外から見られる心配もなく、冷たい隙間風が入ることもない。

 ソファからは店内を見渡せ、せわしなく動く店員の行動を見ることも出来るし、外の様子を気にかけなくてもすむ。

 心落ち着く、約三十分ほどの至福の時間。

 あの人は、まだ今日は見えていないようであった。

 珍しいな、と夏希は思う。体調でも悪いのかしら?

 今までも姿を見せない時は、何度かあったけれど、さすがにちょっと淋しい気もする。

 けれど、せっかくの美味しいコーヒーを無駄にはしたくないと、気分を明るく変えコーヒーを口にする。

 生クリームの冷たいひやっとする甘い味と、コーヒーのほろ苦さが見事にマッチしていて絶妙な味だ。スプーンでかき混ぜると、茶色と白のマーブルのような液体のハーモニーになる。

 これならやはり、駅からはずれていても繁盛するだろう。コーヒーの種類は少ないものの、トッピングの種類やチョコ、デザート系の種類は豊富だ。

 ゆっくりと静かに目を閉じ、味わう。喉を通る甘い苦い味。飽きることがない。

 目を閉じていると、人の会話がよりクリアに耳に入る。

「昨日、あの奥さんがねえ」

「さっき入った店さあ、」

「この前観た映画……」

 聞くたびに世界は無限に広がっていると感じる。こんなに人がいて、話す内容がこんなにも違う。

 あの奥さんがどうしたのかしら?

 さっき入った店?

 何の映画を観たのかしら?

 ついつい聞き耳を立ててしまう。

 けれど、今日は。

 夏希は目を開けた。

 何だろう、違和感を感じる。

 左の耳に音は入ってくるのに、右の耳からは遠くからしか音が、声がしない。普通は逆ではないのか? 近くから声が聴こえて、遠くからは聴こえなくて。

 不思議に思って、夏希はふと辺りを見渡した。

 そして軽く頷いて納得する。

 そうか。

 右隣に座っている、六十代と見られる老夫婦は耳が聴こえないのか。

 でも、きちんと会話している。ゆっくりとだけれど、間違いなく。時には、早く。

 手話で。

 納得して夏希は思った。

 こういう夫婦は、今まできっと、他の人よりも苦労してきたのかもしれない。何倍何十倍と。何しろ、お互いが聴こえないようなのだから。

 でもおくびにも出さない。

 苦労を苦労と思わないのか、実は苦労していないのか。そんなことはないだろうに。そこが、すごいと思う。

 そう思ったところで、夏希のコーヒーカップを持つ手が止まった。カップは宙に浮いたままだ。

 右隣の白髪交じりのご主人の姿が、向かいの鏡に映っている。夏希の姿は、半分切れているが。

 ご主人は今、右手の親指と人差し指で首もとをつまむようにおろし、指をすぼめた。

 その手話の意味は……。


『好き』


 何年か前に障害者と健常者の恋愛ドラマがあり、そこによく使われた手話だったから、夏希もまだ憶えていた。あのドラマは切ない、とヒットし、主題歌も話題になったのだ。


『好き』


 何が?

 誰に?

 会話の前後の手話の意味は全く分からず、けれど向かいに座っている上品そうな老婦人の表情が、言葉の意味を物語っていた。

 少女のように。

 まるで十代の少女が、初デートで愛の告白をされたように、頬を赤くほんのりと染めて……。俯きがちに。

 夏希の頬が緩んだ。そしてふふっと微笑む。と同時に胸にこみ上げてくるものがあった。

 自分は今、告白の現場に立ち入ったのだ。なぜか得したような、妙な気分になる。周りは誰も気にも留めずに、独自の世界でお喋りを繰り返す。見ていたのは、自分だけ。

 こういう日もあるんだなあ。何気ない日常の中で。

 私は幸せ者かもしれない、と夏希は素直にそう思った。

 人が人に告白をする、という大イベントは滅多に人前ではしないだろうから。

 それをごく普通に、何でもないかのように偶然に見られた自分は、やはり幸せ者なのだろう。

 気が付くとコーヒーは、生クリームと溶け合い、すっかり冷め切った茶色い液体と化していた。

 どうやら憧れのあの人は、今日は来ないようだけど、代わりに十分すぎる温かさを胸にしまい、夏希は席から立ち上がり、まだ会話に熱中している隣の老夫婦の邪魔をしないように店を出た。


 何気ない日常。

 偶然の奇跡。

 世の中には、そういうものがたくさん溢れている。

 それはいつでもどこでも誰かのそばに。

 この日の音のない偶然の奇跡は、いつまでも夏希の胸に残って離れることはなかった。




   【終】


《初出》

 2006年12月30日発行「音のない偶然の奇跡」

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