11.彼女と彼の本音
ビルの屋上は普段知香が見ている空よりも、空が近く感じた。
五階建てのビルだ。新しくもなく、警備員もいるわけでもないその古さに、知香はなぜか安堵感を覚えた。
時刻はすでに十一時を回っている。この四月に高校に入学したばかりの知香には十分遅い時間だが、今の世の中はそうではないことを、毎日のニュースで伝えている。
手すりも低い。乗り越えようと思えば簡単なことのように思えた。それでもそれを越えないのは、やはり生への未練なのか。ざらっとした手すりのさび付いた感触だけが手に残る。
夜中の十一時。葉桜の季節。入学式も無事終えたこの時期に自分が死ねば、周りはどう報道するだろう、という思いが知香の頭をかすめた。
身震いする。それは寒さのせいだけではないことを知香は自覚していた。自分が忘れ去られることが怖いということを。
死にたい理由?
生きてる理由?
二つに意味などあるのだろうか。
長い髪とスカートが、風になびいた。
寒い。それでも、家には帰りたくなかった。ここにとどまっていたかった。
「危ないよ」
不意に声が聞こえ、知香は驚いて声のする方を探しその姿を認めた。五メートルと離れていないところにその人はいた。
二十代を少し越えたところだろうか。暗くて表情は見えない。ただ、声だけがしっかりと響いていた。
「何やってるの? そんな所で」
「あなたにカンケーある?」
気さくそうに尋ねてきた青年らしき人物に、彼女はつっけんどんに答えた。
「そりゃあそうだ」
なのに、彼の態度は変わらない。
「僕はさ、ちょっと嫌になっちゃってね。今の自分と世の中に」
知香は振り向いた顔を前に戻した。漆黒の闇の中へ。
何を言っているのだ、この人は? 初対面の自分に。
「ああ、いいよ。聞き流してくれて。僕が一人で喋りたいだけなんだ。言うくらいなら、いいだろう?」
知香は頷きもせず、空を仰いだ。
空には星一つ見えない。欠けた月が輝くだけ。
その中で自分は生きているのだ。
なぜだか、無性に淋しくなった。今まで、一人で生きてきたはずなのに。
聞くぐらいならいいか。どうせ時間はあるのだから。
知香は体勢を変え、青年の方を向いた。ちょうど背中に手すりが当たる。
「なんなのよ」
「今年、就職活動なんだ。会社はたくさん在りすぎて、自分で選んでこれからの人生を決めなきゃいけない。僕は、小心者だから勇気がないんだ。どれに決めたらいいのか。いや、それ以前に雇ってくれるところがあるかさえも不明だ。しかも、今の世の中、リストラもある。そんな状態になったとき、僕は耐えられるのかどうか怖いんだ。そんなことばっかり考えて、嫌になっちゃってね」
「先のことばかり考えすぎじゃない?」
「じゃ、君は何を考えているんだ?」
「過去のこと」
即答した知香に、青年は笑ったかのように見えた。
「そりゃまたどうして?」
「考えることに理由なんてないわ」
「うん、そうかもしれない」
青年は頷く。
「私が今まで生きてきたのって、何の意味があったんだろう。両親のため? あの不仲の両親が私のことを愛してくれているはずもないのに、親のために生きてきたって言うの? 私、自分のために何をしたか考えてみたの。考えれば考えるほど、親のためだって分かったわ。親の仲裁、ご機嫌取り、いい子の振りして外面をよくする親の手伝い。ねえ、それって生きてるって言える? 私はどこにいるの? 私は誰?」
声に出して話し出したら、胸につっかえていたものが、堰を切ったように言葉が次から次へとあふれ出してきた。
彼女自身も驚く。自分の溜め込んだものの大きさと深さに。
頬を伝うものがあった。生暖かいもの。そういえば、泣いたこともなかった。表情をなくしたロボット。親のためのロボット。
「それを、誰かに言った?」
優しい声で青年が訊いた。温かな声が知香の胸を締め付け、余計目頭が熱くなる。涙はとどまることを知らない。
「ないわ。言えるわけないじゃない」
「ぶつけてみなよ。それだけ言えるんだから。勿体ないよ。僕は自己主張が出来ないのに」
青年が両手を広げた。自分を嘲笑ったかのような仕草だったのに、知香にはまるで、自分を受け止めてくれるかのように見え、その胸に飛び込んだ。
青年の驚く感覚が、全身から伝わる。
「ありがとう……」
ありがとう、ありがとう、ありがとう……。
知香は繰り返しながら、その地面に崩れるようにして座り込んだ。両腕はしっかり青年の足をつかんでいる。感触からしてスーツだということが分かった。
「ねえ、名前、なんていうの?」
それを訊くのは自然の流れのような気がした。
「優しいに矢で、優矢。君は?」
「知るに香るで、知香」
小さい声で知香が答える。
「知香ちゃんね。頭良さそうな気がするもんなあ……」
「あなたこそ。そのまんま」
「それって褒めてくれてるの?」
「そのつもりだけど?」
知香は口角を曲げて笑って青年を見上げた。泣き笑いの表情だった。初めて見せる知香の表情。
「一週間後」
青年が──優矢──が口を開いた。
「今の気持ちに変化があったら、もう一度、ここで会わないか?」
月の灯りで優矢の顔が見えた。ほんの少しだけど。
知香が知ってる人の中で、一番優しい、一番安心できる表情に見えた。
「いいわ」
「ただし」
優矢が知香を両手で立ち上がらせる。彼女はずっと座り込んでいたのだ。
「この時間は遅いから、一時間早い十時でね」
そのセリフを聞いた知香はくすっと笑った。そして頷いた。
青年の見送りを背に、知香は自分が変わることを感じていた。
吐き出したことによって晴れてきたもやもや。問題は何も解決していない。けれど、それを親のせいにしていたのは自分だということに気づいた。
ならば、ぶつけてみよう。親に。あの思いを。かなりの勇気が必要だろう。もしかしたら、家庭崩壊してしまうかもしれない。だけど、それでもいいじゃないか。もともと期待していなかった家族なのだから。一か八かだ。
そして一週間後、優矢に会うのだ。
優矢も必ず来る。
来ると決意して、知香にもちかけてきたことに知香は気付いていた。
そしたら言いたいことがある。
「あなたも自分の言いたいこと、私に主張していたわよ」と。
そうして毎週彼と会うたびに、自分が変わっていけたならどんなにいいだろう、知香はそう思い始めていた。
【終】
《収録一覧》
2005年5月5日「祈りを込めた千羽鶴」(初出)
2010年5月4日「ほのぼの」(再録)




