24.「笑い」の恐怖、再び
ふっざけんじゃないわよぉぉぉっ!
感情が爆発した。
ついで、手が出た。足が出た。体も出た。
セランが逃げてきた隠し通路。終着にあった古い木の戸。
少しだけ開けて、室の中の人に気づかれないように、様子だけ確かめて、声だけ聴いているつもりだったのに。
カーン。
気づけば、中年の女が持ってた短剣を、その腕ごと蹴り上げ、女を制圧していた。
自分のしたことながら、いつの間に。
「エナっ!」
「皇妃さまっ!」
ほら、アルディナさまもユージィン殿も、驚いてるわよ。もちろん、他の騎士たちも。――なぜか、リアハルトさまは口元押さえて、笑っていらっしゃるけど。
「離せ! 無礼者っ!」
わたしの体の下で、女がもがく。
「妾は、皇帝の母! 皇太后、アルディンの母であるぞ!」
「うるさい!」
一喝する。
「この国の皇太后さまは、リアハルト陛下の亡きご生母だけよ!」
リアハルトさまのお母様は、幽閉されて間もなく亡くなられている。
それに。
「自分の娘を人質にするような人を、母親とは認めません!」
幼いリアハルトさまをご生母と引き離し、都から放逐したことも。
セランの馬を暴れさせたことも。
皇太后と名乗ることも。アルディナさまをアルディンと呼ぶことも。
なにより、剣を突きつけていたことが一番許せなかった。
どういう事情があろうと。
我が子に剣を突きつける人が、親であるわけがない。そんな卑怯なことをする人が、この国の皇太后であるはずがない。
「エナ……」
アルディナさまが、目を丸くして、わたしを見てくる。けど。
(すみません、アルディナさま)
アナタのご生母なのに、押さえつけたりして。
でもわたし、どうしても許せないんです。
「女でよかった」と言ったアルディナさま。幸せそうにユージィン殿の馬に乗っていたアルディナさま。
皇子であるというウソに耐えかねて、逃げ出そうとしたアルディナさま。
そんなアルディナさまを、またアルディン皇子に仕立てよう、異母兄であるリアハルトさまと争わせようっていう魂胆が、絶対、なにがあっても許せないんです。
アルディナさまは許せても、わたしが許せないんです。
人生は、その人のもの。子であっても親であっても、それを捻じ曲げたりしちゃいけないんです。アルディナさまが、アルディナさまとして生きたいと望むのであれば、それを、たとえ親であっても捻じ曲げちゃいけないと思うんです。
「――エナ」
リアハルトさまが、静かに近づいてくる。
「離せ。エナ」
いつもの、やさしいリアハルトさまの眼差しじゃない。温かさを感じられない、皇帝陛下の眼差しだ。
「……はい」
その視線に逆らうことは許されない。
納得はいかないけれど、アルディナさまの母親の上から離れる。捕らえたその身を解放する。
けど。
「さて。これでゆっくり話せるかな」
退いたわたしの代わって、二本の剣がアルディナさまの母親を制圧する。
わたしみたいに、力任せの制圧じゃない。下手な動きを見せたら、即座に斬り殺すという無言の圧。
手を縛られているわけでも、押さえつけられているわけでもないのに、アルディナさまの母親は、床に座り込んだままだった。
叫ぶこともできず、ただ、剣の跳ね返した鈍い光に、ヒュッと息を呑んで体を震わせただけ。
「まずは、尼僧院を出て、皇城までやってきた理由をお聞かせ願おうか」
問いかけるリアハルトさまの声は、この場にふさわしくないほど朗々としている。
「亡き父帝の魂の安寧を祈る任をまかせたはずだが?」
「そんなもの、妾は知らぬ!」
アルディナさまの母親が叫んだ。
「なにが安寧だ! なにが祈りだ! あのような僻地、妾を幽閉しただけではないか!」
「これは心外な。あそこは、霊験あらたかな僧院だと言うから、ぜひマリアルージュ殿に彼の地で慰霊を行って、父の魂を慰めていただこうと思ったのだが」
あ。
リアハルトさま、笑ってる。
「マリアルージュ殿は、父帝のお気に入り。父帝が余の母と余を放逐してまで、手元に置きたがった女性だからな。死後も父帝のそばにいたら、慰めになるかと思ったのだが」
笑って怒ってるよ、リアハルトさま。
室のなかにいるのに、空気が厳寒の冬の外みたいに冷たくなってくる。
シンシンと底冷えし始めた室。そのうち壁が凍るか、雪でも降ってきそう。
「そんなものは知らぬ! 妾は、不遇をかこう我が子を救いに来ただけじゃ!」
「不遇?」
「皇帝を退位させられ、無理やり女に仕立てられた、かわいそうな我が子じゃ!」
「……ほう。無理やり、ね」
この寒さに気づいてないのは、アルディナさまの母親だけみたい。剣を突きつけられてるのに、ずっと吠えてる。
「子を想う母の心は、とても熱く胸締め付けられるものがあるが。悪いが、マリアルージュ殿。ここにソナタの想う〝息子〟はおらぬ」
笑ったまま、マリアルージュと呼んだ、アルディナさまの母親に近づく。
「ここにいるのは、余の大切な妹、〝アルディナ皇女〟だけだ。〝アルディン皇子〟なる異母弟は知らぬ」
シャラン。
少しわざとらしく音を立てて、リアハルトさまが腰の剣を抜く。
「アルディンなる異母弟は、父帝のもとにおるのではないか? わざわざ尼僧院を出てまでして会いたいと申すのであれば、余がソナタを父帝のもとに送ってやろう。そこで大切な息子に会うが良い」
高く振り上げられた剣。
鈍く、室の明かりをはね返す。
(――え? まさか)
ここで処刑するの?
意味を理解したのはわたしだけじゃない。
アルディナさまの母親も理解したらしく、狂ったように叫び暴れるけど、剣では押さえきれなくなったその体は、脇にいた二人の騎士によって、強く押さえ込まれてしまった。
首を落としやすいように、床に腹ばいになって。
「先帝弑逆。先皇后暗殺。そして余の毒殺未遂。世情を騒がせる謀反の疑い。皇女を手に掛けようとしたこと。本来なら、その体を切り刻み、目をえぐりとり、ならず者と同じ絞首。遺体をそのまま腐るまで晒した上、城外で野犬に喰われるままにするか、それとも炎にくべるか。そのあたりの処刑がふさわしいほどの罪だが。余は温情ある人物なのでな。このまま一撃で首を落としてやろう」
(え? 殺しちゃうの?)
ここで? この場で?
というか、先帝弑逆とか、先皇后暗殺とかって何?
先帝は病気じゃないの? リアハルトさまのお母様もご病気じゃなかったの?
「大丈夫だ。ソナタが仕掛けたかつての戦のおかげで、余の剣術はとても優れたものになった。その細い首など、一撃で簡単に落とすことができる。苦しむ間もなく、父帝のもとに逝けるぞ」
「嫌じゃ、嫌じゃっ! 妾は死にとうない! アルディン、母を助けよ!」
必死に暴れもがくアルディナさまの母親。
(――ハッ。アルディナさまは?)
母親の叫びに、アルディナさまを見る。
ご自身の母親が殺されるこの状況、アルディナさまはどう思っていらっしゃるの?
気になって、視線を巡らす。
母親が必死になって助けを求める相手、アルディナさまは、腕をケガしたユージィン殿の横に立って、この光景をジッと見ていた。
引き結ばれた口元。視線を逸らさず気丈に立っている。けど、無意識なのか、ユージィン殿の腕に手を添えている。
自分を皇子だと言い張る母親。自分がかつて助けを求めた乳母親子を殺した母親。自分を男子だとしか見ていない母親。
その心境、すべてを推し量れるわけじゃないけど、少なくともユージィン殿は、アルディナさまのお気持ちを理解しているみたい。同じようにこの状況から目を逸らさず、それでもアルディナさまを守るように彼女の肩に触れている。
アルディナさまが気丈に立っていられるのは、その触れた手が、ユージィン殿という支えがあるからかもしれない。
「ではな。あの世で父帝に詫びよ」
ヒュンッ。
剣の刃が風を切る。
首が落とされるその場面。
わたしもちゃんと見届けなくちゃとグッと奥歯を噛みしめるのだけど、無意識に肩を縮こめ、目を閉じてしまう。――けど。
(――――え?)
アルディナさまの母親の首。その上に落ちた剣。
でも刃先に血は一滴もついておらず、石床の上に首は転がっていない。
剣は、斬り落とす寸前でピタリと止まっていた。
「マリアルージュ殿。最後に一つ忘れておった」
涙と汗と何かわからない液体で、顔をベタベタにしたアルディナさまの母親。その顔を上げて、剣を止めたリアハルトさまを見る。
「ローベルニュの伯父上がな。ソナタの祈りのために、尼僧院を用意してくれると申されてな。ぜひそこで亡き父帝のために祈らないかとお誘いくださった。あちらに、祈るには最高の環境にある尼僧院があるらしくてな」
ローベルニュの伯父?
(リアハルトさまの母上のご実家だわ)
リアハルトさまの母上のご実家、ローベルニュ公国。
皇国に嫁いだ実妹を幽閉されて、殺されて。その伯父が、尼僧院なんて用意してくださるかしら?
「なんでも、一番天上に近い尼僧院らしくてな。峻険な山の頂きに建つ小さな尼僧院で、周囲は崖で囲まれているから、世俗の雑念を捨て、祈りに専念できるそうだ」
それって。
逃げ出すことも叶わない、絶壁に囲まれた尼僧院ってこと?
「世俗のことなど気にせず、そこで終生祈りを捧げてくれまいか」
命は取らない。
ただし、二度と出てくることの叶わない、牢獄のような尼僧院に幽閉する。
尼僧院そのものもそうだけど、妹をないがしろにされたローベルニュ公国の主が、国の威信にかけて、この女性の脱走を許さない。
もし、脱走を試みようとするならば。今度こそ、この女性の首は体から問答無用で切り離されるだろう。
それも、さっきリアハルトさまがおっしゃった処刑よりも、もっと陰惨で残虐な方法で殺される。
それがわかったのか。
アルディナさまの母親は、「ヒッ」と小さく喉を鳴らして、そのまま潰れるように床に崩れ落ちた。