21.セラン・ベルティアーノの事件簿
セラン・ベルティアーノは走っていた。
いや、正確には、走っているつもりだった。
(早く。早く姉さまにお伝えしなくてはっ!)
その一心で走るのだけれど、闇のように真っ暗な通路に対して、明りは小さな手燭のみ。
その上、通路は細く、曲がりくねっており、ついで急な階段まである。気は焦るけれど、その進みは思ったほど速くはない。
――ソナタは逃げよ。
リアハルト陛下の容態が気になる。
以前、会いに行った時、姉さまは「薬を飲んで眠っていらっしゃるだけ」とおっしゃっていたけれど、翌日になっても陛下は目を覚まさなかった。それどころか、誰も会うことができない、深刻な容態へと変わったと伝え聞くことになった。
(僕のせいで)
僕が馬から落ちたばかりに。
陛下の看病につきっきりになっている姉さまに代わって、僕の面倒を見てくれているアルディナ皇女さま、それと馬術の師であるユージィン殿。姉さまの侍女のミリアさん。
彼女たちが代わる代わる「大丈夫だ」とおっしゃってくださったけれど、同じように「大丈夫だ」と思うことはできなくて。
それでも、本を読んでなんとか時間を潰していた。立派な辺境伯になるための努力を怠っていたら、目覚めた陛下に申し訳ない。陛下が目覚めたら、姉さまに言われた通り、いや言われなくても、ちゃんと謝罪と感謝を伝えるつもりだった。そして、「頑張ってるな、えらいぞ」と褒められたかった。
だけど。
――逃げよ。
突然、アルディナさまから言われたことに、理解が追いつかなかった。
僕は。僕は、何から逃げるのですか?
室には、先程まで本を読んでいた僕と、険しい顔で入ってきたアルディナさまだけ。
ユージィン殿は、ずっといなかったし、ミリアさんも顔を出してくれていない。
――ここから、異母兄上の寝室まで行ける。お前は、ここから逃げよ。
どうして、僕が?
逃げろって。何があったのですか?
アルディナさまは、逃げないのですか?
無理やり押しつけられた小さな手燭。棚の後ろ、古い木戸の向こうに僕をグイグイ追いやると、強引にアルディナさまが戸を閉めた。
――ああ、アルディン!
僕が通路に閉じ込められてすぐ。
明るい、感激したような声が、室に入ってきた。
――会いたかったわ、アルディン!
若い、でも姉さまよりは年上に聞こえる女性の声。それと、いくつか、複数の足音。
(アルディンって。アルディナさまの以前のお名前だよね?)
姉さまから聴いた、アルディナさまのこと。
アルディナさまは、女の子だったのに、皇子として育てられた。
皇帝に即位するには、男子でなくてはいけないから。
アルディナさまは、リアハルト陛下とは、お母さんが違う。アルディナさまのお母さんは、リアハルト陛下を追い出して、アルディナさまを男子とウソをついて、皇帝に即位させた。
リアハルト陛下は、僕のお父さんたちと戦争を起こして、皇帝位を取り戻して、アルディナさまを女の子に戻してあげた。
だから。
だから、この皇城で、アルディナさまを〝アルディン〟なんて呼ぶ人は、一人もいないのだけれど。
――母上。お久しぶりです。
(母上? ってことは、アルディナさまのお母さんっ!?)
アルディナさまのお母さんは、遠い尼僧院で、亡くなった前の皇帝陛下の御冥福を祈ってるじゃなかったっけ。
頭が混乱する。
――まあ、アルディン。アナタ、なんて格好を。そんな女のような衣を着て。
えっと。アルディナさまは女の子、皇女さまなんだから、〝女のような衣〟で合ってると思うんだけど。
――大丈夫よ、アルディン。妾が、アナタを解放してあげるわ。
解放?
――あのリアハルトは、依然昏睡状態にあるのでしょう?
なぜか。なぜか聴いている僕の心臓がうるさいぐらい早く脈打つ。あまりに心臓がうるさくて、ここに隠れているのがバレてしまわないか、心配になる。
――すぐに死なない図太さは憎らしいけれど。それもこれで終わり。キチンとあの世に送って差し上げるわ。
かすかに、チャプンと液体が揺れる音がした。
――母上、それは。
――大丈夫よ。これは、毒だけど、そうとわからない死に方をさせることができるの。死にかけのリアハルトには、うってつけの毒よ。それに、もし疑われたとしても、それは、ここにいる者たちがもみ消してくれるわ。ねえ、ユージィン。
――はい。皇太后陛下。
ユージィン殿?
ユージィン殿も、リアハルト陛下を殺す計画に協力してるのっ!?
いつもの、朗らかさはどこにもないけど。間違いない。ユージィン殿の声だ。
――まずは、あのリアハルト。それから、アレが気に入ってるという、田舎皇妃か。変なものを産み落とされてはかなわないからの。「皇帝陛下毒殺の犯人」として処刑しておこうか。ともに死ねて、本望だろうて。
サラッと軽く言われた言葉。
まるで、「寒くなるまでに、羊毛のドレスを用意しておこうか」みたいな、とても軽く発せられたけど。
(お知らせ、しなくちゃ……)
ヨロヨロと戸から離れ、音を立てないように慎重に回廊を歩き始める。
何が起きて、どうなってるのか。
わからない。
いや。理解できているのかも知れないけど、それを「理解した」と認めたくない。
ただ。
アルディナさまに言われたこと。
「逃げよ」だけは、忠実に守る。
(姉さまにお知らせしなくちゃ)
なにか薬みたいなのが届いても、絶対リアハルト陛下に飲ませないでくださいって。それは毒ですって。恐ろしい人たちが皇城にいますって伝えなきゃ。
リアハルト陛下だけでなく、姉さまも殺される。
(ウギャッ!)
手燭では見えなかった段差にけつまづく。壁を手で探りながら歩くけど、足元を警戒するには限界がある。
(急がなきゃ)
毒がリアハルト陛下に届いてしまう前に。
何度転んでも、何度すりむいても。
前へ。前へと進む。
(父さま、母さま、お力をお貸しください)
僕に、この大切な役目を果たさせてください。
* * * *
「――ウキャウ!」
ギイっと音を立てた棚。
同時に聞こえた声。
「セランっ!?」
「来たか、セラン」
「――え? ええっ!?」
力いっぱい戸を押していたのだろう。そのままの格好で倒れたセランが、素っ頓狂な声を上げる。
「立てるか?」
倒れたままのセランに、膝をついて手を差し伸べたリアハルトさま。
「え……、あっと。大丈夫……です」
現実感が伴わないのか、フワフワしたセランの声。
「あの、リアハルト陛下、お体は……」
「ん? なんの問題もないぞ」
セランを立ち上がらせると、ムンムンと力こぶを作って見せるリアハルトさま。いつものように、快活そうにセランに笑いかける。
それをポカンと見上げるセラン。
(昏睡してるはずの人が、元気にしてたら、そりゃあ驚くわよね~~!)
まあ、そうでしょうねと、心のなかでセランに頷くわたし。
落馬以来の昏睡。二度と目を覚まさないんじゃないかという恐怖。
自分のせいで、リアハルトさまが――って、セランなら少なからず自分を責めていただろうから。
「――って、いつまでやってるんですか」
ムキムキムンムンのリアハルトさまの後頭部を、ペシン。
「なかなか痛くないぞ」
「うるさい。それより、アンタにはやることがあるでしょうが」
わたしたちの周囲には、リアハルトさまが用意した騎士たちもいたけれど。その騎士たちが「陛下の頭を叩くなんて」って目を真ん丸にして(声には出さずとも)驚いていたけど。そういうのは無視。「すみませんねえ、暴力皇妃なもんで」と、心のなかで毒づいておく。
「やることって。姉さま?」
いまだに状況を理解しきれていないセラン。
「囚われのお姫さま、救出作戦、よ」
ちょっと茶化して、軽くセランに言う。
「俺としては、囚われの姫はエナであったほうが、やりがいあっていいんだがな」
「はいはい。アルディナさまだって、やりがいの塊でしょうが」
大事な妹なんでしょ?
グイグイと、リアハルトさまの背中を押して、彼を室の入口へと押し出す。
「冷たいな、エナは」
「――は?」
「こういう時は、『どうかご無事で』とか言って、口づけの一つもくれるものだろう?」
「はぁあっ!?」
なにそれ。
「戦場に向かう騎士。それを見送る乙女の口づけ。かつての大王も、愛しの戦乙女から口づけられていたと思うが?」
ホレホレ口づけを――と、リアハルトさまが目をつむって、顔を差し出してくるけど。
「そんなの、あげませんっ!」
ベシン!
「――痛いぞ」
「うるさい!」
わたしがあげたのは、そのふざけきった顔を押し返す平手。押し返したリアハルトさまの顔が、少し赤くなってたけど。ちょっと強く押し返しすぎたかなと後悔しかけたけど。
(でも、悪いのはリアハルトさまだからねっ!)
こんな! こんなみんなが見ている前で!
集まった騎士、侍女のミリア、そしてセラン。
みんなが見てる前で、口づけなんてできるわけないでしょうが!
でも。
「……無事に帰ってきたら、いいわよ」
さすがに。
さすがに、なにもなしで送り出すのは悪いかな。
そんな気分も湧いてきて。
でも、素直に告げるのはなんか悔しい気がして。
最後にひっつけた「いいわよ」は、とっても小さな声で。口をとがらせて、そっぽを向いて言った。なのに。
「いいな。勝利の褒美は、乙女の口づけか」
ハッハッハ。
朗らかに、大きな声で笑うリアハルトさま。
(なんで、そこで大きな声で言うのよ!)
「ミリア」
わたしの怒りとか、心境なんて無視して、リアハルトさまがミリアを呼びつける。
「お前は、ここに残り、エナとセランを守れ」
「ハッ! 身命を賭して」
リアハルトさまの前に膝をつき、誓いの言葉を述べるミリア。その腰には、リアハルトさまのものよりはやや小ぶりながら、実用的な剣がぶら下がる。
身命を賭してって。いや、そこまでしてもらわなくても、わたしだって戦えるし――と思ったけど、多分、それが定型句なんだろう。ミリアの誓いに、リアハルトさまは、ウムと頷いただけ。
「ではな、エナ。ここで待っていろよ」
騎士たちを引き連れ、室から出ていったリアハルトさま。
彼らが出ていったことで、室は、ガランとした印象になる。残ったのは、わたしとセラン、それと(身命を賭してまで)護衛についたミリアと数人の騎士。
「姉さま?」
「ごめん、セラン。事情、お話しするわね」
今がどういう状況か。賢いセランなら、なんとなく理解しているかもしれないけど、それでもちゃんと説明をしなくては。それと心配させたことへの謝罪も。
――わたしもついて行きたかった。
どれだけたくさんの騎士を従えていたって、どれだけリアハルトさまが腕に自信があたからって。
リアハルトさまが無事とは限らない。
成功は確信しているけど、だからって待っているのは性に合わない。
けど、ここに残れと言われたから、ここにいる。
不安は、湧き起こる夏雲のように、とめどなく膨らんできて胸を押しつぶしそうになる。
そんな不安を紛らわせるのに、セランへの説明はうってつけだった。わずかだけれど、気が紛れる。
「これは、ナイショのことだから。他の人に言ってはダメよ」
最初に釘をさして、話を始める。