第2話「彼女の名はクオン」
「“方舟”って、あの創世記のやつか?」
礼拝堂でのざわめきから逃れるように、私たちは庭へ出た。
春の夕風はまだ冷たくて、肌を刺すけど、胸の奥はもっとざわついていた。
ヴィーの言っているのは、前世で読んだ聖書の話。
神が人の罪に怒り、地上を洪水で流し去る決断をして――それを生き延びるために造られた、あの“方舟”。
「多分、それと関係あると思うけど……“起動者”って、何のことだろうね」
私が手を触れた記録石には、確かにそう書いてあった。
『起動者、確認。方舟に登録開始』
この世界の言葉とは大きく違う、懐かしい文字。漢字とひらがなの日本語で。
「お前のは“起動者”だったのか?」
「うん。間違いないよ。日本語だったし」
「……俺のは、“候補者”。同じ日本語だけど、言葉が違うな」
ヴィーは首をひねりながらも、どこか納得したような顔をしていた。
私たち二人は、こうして話しているとき、日本語で会話している。
字を書くことは少なくなったけど、読みなら問題ない。だから、見間違いじゃないって、はっきり言える。
でも――じゃあ、“起動者”と“候補者”の違いって、何?
それから数日、私たちは何度も話し合ったけど、答えは出なかった。
* * *
あの日の夜、家に帰ると、レオやお父さん、お母さんも心配してくれた。
けど、“方舟”も“起動者”も、“候補者”も、誰も聞いたことがないらしくて。
神父様に聞いても、「選ばれたことは誇りに思いなさい」と、決まり文句みたいな答えばかりだった。
それからというもの、私とヴィーは、礼拝堂に通うようになった。
時間ができれば足を運び、あの記録石を眺めたり、天使像の視線の意味を考えたり――でも、何も起きなかった。
神父様に何度聞いても、答えは変わらない。「選ばれたというのは、祝福なのです」と言われるだけで、その“意味”までは語ってくれなかった。
そんなある日。
陽が傾き、教会の中がしんと静まり返ったころ。たぶん、18時くらい。春とはいえ、窓から差し込む光は弱くなっていて、礼拝堂には私とヴィーの二人だけ。
そのとき――
「ミア、あそこ……光ってないか?」
ヴィーが指差したのは、記録石よりも奥。以前から気になっていた、中央の天使像の前だった。
床の隙間から、淡く冷たい光が漏れている。人工的な、けれどどこか懐かしい――そう、前の世界で見たLEDのような光。
「……見てみよう」
私はヴィーと並んで、そっとその像へと近づいた。
すると、足元が音もなく開いた。まるで自動ドアのように、静かに、滑らかに。
現れたのは、地下へと続く階段。
顔を見合わせる私たちは、互いにうなずいて、無言のままその階段を降りていった。
階段は長く、黒い石でできていた。
コンクリートに似た質感。冷たく、人工的で、この世界のどんな素材とも違っている。
ヴィーも気づいたようで、壁に手を当て、目を細めていた。
やがて、私たちは下層にたどり着いた。
そこには、金属製の通路がまっすぐ続いていた。
一歩足を踏み出した瞬間、足元のパネルが順番に明かりを灯し、奥の部屋へと誘うように光の道をつくっていく。
まるで、私たちを“歓迎”しているようだった。
「ミア、こっち……なんかある」
ヴィーが先に歩き出す。私は慌ててそのあとを追った。
その先に広がっていたのは、広大な空間。前世で言うなら、学校の体育館ぐらいの広さがある。
天井からは、やはり白色LEDのような光が降り注いでいた。
村の人たちが見たら、これは“天の光”だとでも言うだろう。でも私たちには、それが懐かしい“人工の光”だとわかる。
中央に設置された巨大なカプセルのような装置。棺のような、それでいて未来的な造形。
中を覗き込むと、女性が一人、眠っていた。
長い銀髪に、群青の瞳。漆黒のスーツが、身体にぴったりと沿っている。
ヴィーがカプセルの周囲を見回しながら、何か操作できる部分を探していた。
そのとき――
音もなく、カプセルの蓋が開いた。
そして、彼女は目を開け、静かに身体を起こした。
感情の読めない表情。けれど、静かに美しく、どこか神聖な気配をまとっていた。
「ようこそ、起動者。私の名前は、QUANTUM-496。“方舟”のアシスタントAIです。対話用の短縮名を指定してください」
その声は、合成音ではない。人間の声のように自然で――しかも、日本語だった。
「アシスタントAI……って、まさか……」
ヴィーが小さくつぶやく。
「名前、クオンでいいかな?」
私がそう言うと、女性は目を閉じ、そしてうなずいた。
「了解。以後、私は“クオン”として応答します。あなた方の行動支援に必要な情報、技術支援、環境整備データを、段階的に提供します」
クオンは、ゆっくりと私たちの前に立ち、一礼した。
その瞬間、私の胸の奥で、何かが動いた。
――ようやく見つけた。
私たちが、なぜこの世界に来たのか。その意味の一端が、いまここで、ようやく開かれ始めた。