第8話 神、庭で鯛を焼く
鯛が安かった。
理由はわからない。
だがオメガさんにとって、理由はさほど重要ではない。
スーパーの魚売り場で、艶のある一尾の鯛が、半額シールを貼られていたのだ。
「……焼くか」
ぽつりと、そうつぶやいた。
焼く以外に、あの鯛にふさわしい選択肢が浮かばなかった。
「下処理、お願いできますか」
オメガさんは静かに店員に頼み、鱗と内臓を落としてもらう。
神が包丁を振るう必要はない。プロに任せるところは任せる。
合理性と敬意は、オメガさんの日常に溶け込んでいる。
帰宅すると、表面に塩を振っていく。
尾から頭に向かって、さらさらと。
そして、えらとひれ、しっぽには特に多めに。
ただ、塩をふる前に、背中側の身を少しだけ切り取っておいた。
猫のたま用だ。
小鍋に湯を沸かし、ただ蒸すだけ。
「……これでいい」
庭に出る。
風は穏やかで、空はやや霞んでいて、春の気配が地面の隅に潜んでいた。
使い込まれた大きめの七輪が、物置の隅から引き出された。
物置の隅で、長いあいだ眠っていたものだ。
オメガさんはそれを拭き、炭を詰め、着火剤に火をつける。
炎と煙が上がった。
火が炭に移るのを待つ。
やがて、炭が赤く染まり始める。
七輪の底で、ゆっくりと呼吸するように光る。
網を置き、鯛を乗せる。
じゅっ……という音が、静かな午後の庭に広がった。
皮が縮み、脂がにじみ出る。
「……悪くない」
オメガさんはその様子を見ながら、縁側に腰を下ろす。
うちわで炭を扇ぎながら、時々鯛の向きを変えた。
そのときだった。
「えっ、それ……鯛? 本当に焼いてるの?」
障子の影から現れたのはたまだった。
「本物だ」
「しかも炭火で……まじで……」
たまは庭の端っこにちょこんと座り、じっと鯛を見つめている。
風が吹き、煙が隣家の方へ流れていった。
「……ご近所に怒られたりしないかな?」
たまがぽつりとつぶやいた。
「怒られたら謝る」
「わー、めっちゃ現実的な対応……神っぽくない……」
「そうか?」
「うん。もっとこう、“この煙は神聖な祝祭の一環である”みたいな言い方するかと思ってた」
「それは近所づきあいを悪化させる」
たまは何も言えなくなった。
魚の焼ける音が、じゅう……と、静かに響く。
片面がきつね色に焼けたのを見て、網ごと鯛をひっくり返す。
皮がパリパリと音を立て、脂が炭に落ちて小さくはぜた。
炭の火が生き物のように応える。
たまは煙に目を細めながらもしっぽを左右に揺らし、縁側に座った。
「オメガさんってさ、こういうの得意そうだよね……」
「炭火は、いい」
「うん、なんか、分かる」
鯛の目が白くなり、腹から汁がにじみ出す。
皮が乾いて、香ばしい匂いがあたりに満ちてくる。
「……よし」
網から鯛をそっと持ち上げ、縁側に置いた皿の上に乗せる。
ふっくら焼き上がったそれは、ただの半額品には見えなかった。
「たま」
そう呼びかけ、小皿を差し出す。
中には、あらかじめ蒸しておいた鯛の身が、ほぐして乗っていた。
骨はしっかり取り除かれている。調味料は、もちろん何もない。
「猫に塩はよくない」
「……あ、うん。知ってたけど、ちゃんと分けてくれるの、うれしい……」
たまはそっと頭を下げ、小さくひとくち。
口の中でふわっと広がる白身に、目を見開いた。
「うまっ……! え、これ……ほんとに半額だったの?」
「調理次第だ」
オメガさんも一口、焼きたての鯛を箸でつつく。
脂の甘み、塩の締まり。
ただそれだけの食事が、今日という日を満たしていく。
風が止み、午後の陽が静かに傾いた。
七輪の中で、炭がまだ赤く光っている。
「……いい日だな」
「ほんとに……」
たまはごろりと寝転がり、空を見上げた。
「ねえ……来週も焼こ?」
「……鯛が安ければな」
「うん、そうだね」
たまは、安心したように笑った。
七輪の火は、ゆっくりと、夜へと溶けていった。
(`・ω・´) タイマーセット!
(´・ω・`) 三国モンスター、炭で焼いてみたいわー