第4話 バイト募集の貼り紙に心がざわついた日
昼下がりだった。
風がやわらかく、開け放たれた窓から入り込んでいた。
カーテンがふわりと揺れる。白いレースが、光をやさしく受け止めていた。
オメガさんは、縁側でほうじ茶を飲んでいた。
湯呑みの湯気はもうほとんど消えて、口元に運ぶと、ぬるくなった香りだけがふわりと立ちのぼった。
何をするでもなく、ただ、ぼんやりとしていた。
となりで猫のたまが寝そべっている。
前足をくるんと丸めて、目を細めていた。
「……バイト」
突然、オメガさんがぽつりとつぶやいた。
たまは片耳をぴくりと動かす。
でも、目は閉じたままだ。
「バイトって、何の話?」
「貼ってあったんだ。スーパーの入り口に」
「スーパー?」
「商店街の、あの古びたやつ。ほら、焼き鳥がうまいとこ」
「ああ、あそこか。レジがひとつしかないところ」
「そう。そこの入り口に、A4の紙で貼ってあった。“バイト募集中”って。赤いマジックで手書きだった」
「へぇ……」
たまは小さくあくびをして、のそのそと体勢を変える。
背中を丸めて、今度はオメガさんの足元に顔を乗せた。
「やるの?」
「やらない。そんな元気ないし」
「でしょうね」
「でも、ちょっとだけ、ざわついた」
「ざわついた?」
「うん。胸のあたりが、ふっと、くすぐられるような……なにか思い出しかけて、やめたような……」
オメガさんは、湯呑みを見つめたまま黙り込む。
たまも、それ以上は何も言わなかった。
庭では、ハエトリグサの鉢が風に揺れている。
誰がいつ置いたのか覚えていない鉢だった。
気が向いたとき、鉢の受け皿に少しだけ水を足している。
「働くって、なんなんだろうな」
またぽつりと言う。
「突然どうしたの、オメガさん。神様なんだから、そんなこと考えなくてもいいのに」
「でも、貼り紙を見たとき、誰かが誰かを必要としてるって、そう思ったんだ」
「……そっか」
「たとえ時給960円でも、誰かが“来てほしい”って思ってる。だから、ああして紙に書いて、貼ったんだよな」
「……それ、最低賃金割ってない? この辺、確かもう1000円超えてたよ」
「へぇ、そうなんだ。知らなかった。でも……なんか、いいなって思った」
たまは小さく首をかしげる。
「いいな、って?」
「うまく言えないけど……自分が“いてもいい場所”みたいなものを、誰かがくれてる感じがする」
「でも、オメガさん、働かなくても生きていけるじゃん。ロト当てるし」
「そうなんだけどな」
オメガさんは、少し笑った。
どこか遠くを見るような目だった。
「いつからだろうな。“働く”って言葉を、まるで他人事みたいに思うようになったのは」
「いつもじゃん」
「いや、最初は違ったよ。地球に降りてきたばかりのころは、結構いろいろやってみたんだ」
「へえ?」
「ガソリンスタンドの夜勤とか、倉庫の仕分けとか。あと、ポスティング」
「想像つかない……」
「でも、続かなくてね。すぐに“あ、これ無理”ってなるんだ。神の性分に合ってなかった」
「神のくせに根性ないもんね」
「まあね。でも、そんな自分でも、今日あの貼り紙を見て、少しだけ何かが動いた。だから、帰りに焼き鳥だけ買って帰った」
「感情の着地が安定してていいと思うよ」
たまはくすくすと笑った。
笑い声は風に乗って、どこかへ消えた。
「それで、焼き鳥はうまかった?」
「うまかった。今日は塩だった」
「おお、珍しいね」
「たまにはいい。タレばかりじゃ飽きる」
「そっか」
しばらく沈黙が続く。
風がまた、カーテンを揺らした。
遠くの方で、犬が吠える声がした。
どこかの子どもが、自転車で走る音が近づいて、すぐに遠ざかっていく。
「なあ、たま」
「うん?」
「“必要とされる”って、なんかあったかいよな」
「そうかもね」
湯呑みのお茶はすっかりぬるくなっていた。
表面には薄い膜が浮かび、静かな時間が流れていた。
「明日もスーパー、見に行こうかな」
「また焼き鳥?」
「いや、貼り紙がまだあるか気になる。誰か、見つかったかなって」
「ふふ、気にしすぎ。誰か入ってたら、それはそれでいいことじゃん」
「そうだな」
その日は、いつもと同じようでいて、少しだけ違う午後だった。
神様は今日、ほんのすこしだけ心がざわついた。