焔の里、夢の門 2
ミオとカイトが依頼のあった家の前に立つと、軒先には洗いざらしの布が静かに風に揺れていた。
木造の家屋はどこか薄暗く、張り詰めた静けさが辺りを包んでいた。
ミオがそっと戸を叩くと、すぐに中から足音が聞こえた。
「どちら様ですか……?」
戸がゆっくりと開き、そこには一人の女性が立っていた。
乱れた髪に、疲れの色が濃く滲んでいた。彼女は戸口に立つミオたちを見て、一瞬戸惑ったようだったが、すぐに手を胸に当て、震える声で言った。
「あなたたちが……焔一族の方ですか?」
ミオは小さく頷き、優しく微笑んだ。
「はい! ミオとカイトです。依頼を受けて来ました」
カイトは無言で軽く頷く。女性は胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らした。
「ありがとうございます……。どうか……息子を、コウを助けてください……!」
彼女は戸を大きく開け、二人を招き入れた。
室内には日の光がほとんど差し込まず、しんと静まり返っていた。
奥へ目をやると、畳の上に寝床が敷かれ、小さな子供が静かに横になっている。
ミオはそっと少年のそばに膝をつき、慎重に額へ手を当てた。少年の顔は微かに歪み、まるで何かを恐れるように、落ち着かない眠りに沈んでいる。
眼を閉じ、静かに意識を沈める。
(いるね。)
静かに息を吐き、ミオはカイトへと目を向ける。そして、小さく頷いた。
コウの母親はミオたちの様子を見ながら、おずおずと口を開いた。
「三日前の夜……私、あの子を叱ったんです。悪気はなかったんですが、つい、きつく言い過ぎてしまって……」
言葉を詰まらせ、彼女は震える指先で目元を拭った。すがるような眼差しがミオたちを見つめる。
「その夜、コウは怖い夢を見ているようで、眠りながら泣いていました。でも、次の日の朝になっても起きなくて……ずっと、ずっとこのままなんです……!」
眠り続ける子供をみつめながら、震える声でそう続ける彼女を見て、ミオはそっと立ち上がり、母親の手を握った。
「きっと大丈夫です。私がコウ君を夢の世界から連れ戻します!」
母親はミオの言葉にすがるような表情を浮かべ、震える手でミオの手をぎゅっと握り返した。
「お願いします……どうか……」
声は震え、今にも崩れ落ちそうだった。
ミオは小さく息を吸い込み、考えをまとめるように視線を落とす。
(コウ君は……怒られたことで強い不安に囚われて、そこを夢魔に狙われて、悪夢に囚われちゃったのね)
彼女はそっとコウの枕元に座り、ゆっくりと息を整える。
ミオは静かに目を閉じ、コウの額にそっと手を置いた。「行ってくるね。」
カイトは無言で頷き、腕を組んで壁際に立つ。
(……夢渡)
微かに囁くと、空気がわずかに震えた。
視界がぼやけ、ゆっくりと闇が広がっていく。
——入った。
ミオは足元の感触が変わったことに気づいた。先ほどまで地面に座っていたはずなのに、今はしっとりとした草の感触がある。
深く息を吸い、目を開ける。
目の前には、淡く霞んだ風景が広がっていた。空は薄暗く濁り、かすかな霧がたなびいている。遠くには、ねじれた木々が静かに揺れ、時折、風のないはずの空間で葉が舞っていた。
——ここがコウ君の夢の世界か。
慎重に足を踏み出す。この世界で最も警戒すべきは、夢の影響を受けることだ。
この世界では、夢を見ている本人の意識が強く反映される。しかし、それだけじゃない。
この世界では侵入者の感情すら、夢を変質させてしまう。
もしミオが恐怖を抱けば、この世界には「恐怖にふさわしいもの」が生まれる。逆に、強く望めば、夢の形は変わることもある。けれど、無理に変えようとすれば、逆に夢魔に気づかれかねない。
だから、感情を乱してはいけない。
——落ち着いて、冷静に。
自分を落ち着かせるため、軽く指先をこすり合わせた。現実と同じ感覚を意識することで、自分を見失わないようにする。
ゆっくりと歩を進めた。
やがて、視界の端に、ひっそりと佇む古びた家が見えた。
ミオは小さく息を吐いた。
——あそこだ。
慎重に近づきながら、周囲に異変がないかを探る。扉は少し開いており、風に揺れてギィ……と軋んでいた。中は薄暗く、何かが潜んでいる気配はない。
——大丈夫、焦らないで。
自分に言い聞かせながら、ゆっくりと家の中へ足を踏み入れた。
ギィ……
扉を押し開けると、古びた木の床がきしんだ。
薄暗い室内には、重たい埃の匂いが立ち込めていた。腐りかけた家具が無造作に置かれ、壁には古い掛け軸が歪んでかかっている。遠くで水滴がぽたぽたと落ちる音が響く。
ミオは慎重に足を進めた。
「コウ君……?」
小さく声をかけるが、返事はない。
だが、おそらくこの近くにいるはずだ。
ふと、奥の暗がりに目をやる。
家の隅に、古びた押し入れがあった。
ミオの胸が小さく高鳴る。
夢の影響を受けないように、深く呼吸を整え、慎重にその戸を開けた。
ぎぃ……
ミオは息を詰めながら、そっと押し入れの戸を開けた。
そこには、小さな影が膝を抱えて震えていた。
「……コウ君?」
押し入れの隅で、コウは膝を抱えて震えていた。体をぎゅっと縮め、まるで自分の存在を消そうとするかのように、壁に押し付けられている。
呼びかけると、コウの肩がびくっと跳ねた。
「……こないで……」
掠れた声が聞こえる。
ミオは息を整え、ゆっくりとしゃがみ込み、できるだけ柔らかい声で語りかけた。
「私はミオ。君の家の人に頼まれて、ここに来たの」
コウの顔がわずかに上がる。
「お母さんが、君がずっと眠ったままだから、助けてほしいって……」
その言葉に、コウの目がかすかに揺れた。
だが、その瞬間——何かを思い出したように、顔をぎゅっと伏せる。
「……お母さん……」
その小さな声には、安堵ではなく、怯えが混ざっていた。
ミオは違和感を覚えたが、すぐに気づいた。
——コウ、叱られた記憶がこびりついている?
コウは何かに怯えるように、小さく体を揺らしていた。
「……ごめんなさい……怒られる……また……」
言葉がかすれる。
——この夢は、コウの恐怖が形になったものだ。
ミオはそれを確信した。
このままでは、コウの恐怖が夢をさらに強固にし、彼自身がそこから抜け出せなくなってしまう。
今、この場で、しっかりと現実を伝えなければならない。
ミオはできるだけ優しく、それでいてはっきりとした声で語りかけた。
「コウ君、大丈夫。私は君を助けに来たの」
コウはかすかに顔を上げた。しかし、その瞳にはまだ不安が色濃く残っている。
「ここはね……夢なんだよ」
「……え?」
「君は今、夢の中にいる。だから、ここで何が起きても、それは現実じゃない」
コウは目を見開いた。しかし、すぐに首を横に振る。
「違う……そんなこと……」
「でもね、お母さんは、君がずっと目を覚まさないって心配してた。それが夢魔の仕業かもしれないってことで、私は君を助けるためにここに来たんだ」
「……夢魔?」
コウは聞き慣れない言葉に戸惑ったようだった。
ミオはゆっくりと頷く。
「うん。夢魔っていうのは、人の夢の中に入り込んで、覚めないようにする存在。君もここに閉じ込められているんだよ」
「……でも、僕……ここにいるのが普通だと思って……」
コウはぽつりとつぶやく。その表情は迷いに満ちている。
——やっぱり、夢と現実の区別がつかなくなってる。
ミオはそっと息をつき、慎重に言葉を選ぶ。
「コウ君、君の家はここじゃないよね?」
「……」
「現実の君は、お母さんのいる家で眠っている。でも、君の意識は今、ここに閉じ込められているんだ」
コウの眉がかすかに動いた。
「……じゃあ、どうしたら……?」
「ねぇ、私と一緒にここから出よう?」
「……でも、どうするの?」
「出られるよ。コウ君が協力してくれるなら、私は君を現実に戻すことができる」
コウは不安げに押し入れの奥を見つめる。そして、ぽつりと言った。
「……でも、ここから出たら……また怒られるかもしれない……」
ミオは、コウの言葉に息を詰まらせた。
この子は、現実に戻ることを恐れている。
——怖いのは夢だけじゃない。現実も同じなんだ。
けれど、ここにいてはダメだ。このままだと、本当に夢魔に飲み込まれる。
ミオはまっすぐにコウの目を見て言った。
「大丈夫。私がついてる。君はお母さんの元に戻るべきだよ」
コウの小さな指が、押し入れの木の床をぎゅっと掴んだ。
「……戻る、の?」
「うん。私と一緒に行こう」
ミオは、そっと手を差し伸べた。
その瞬間——。
家が軋んだ。




