02-クーボ大博士の物語 <狭間の世界にて>
注:クーボ先生の主張は、必ずしも著者の主張ではありません。
僕はお花畑で目を覚ました。日差しはやさしく、涼しいそよ風は心地よく頬を撫でる。先ほどまでの炎天下がうそのようだ。空は青く、というより澄み切った深青色で、ここがエアコンの効いた室内ではないことを示す。ここはいったいどこだろう。横を向くと背の低いパステルカラーの花が咲いている。天国かな?
「目は覚めたかな?」
僕の枕元に腰掛けている白衣のおじいさんが声をかけて来た。
「ここは…どこですか?」
僕は上半身を起こしながら、おじいさんに尋ねた。
「ここは、トゥオネラの湖のほとりじゃよ。」
「トゥオネラ? 湖のほとり?」
「ほら、そこの水辺に白鳥がおよいでいるじゃろう?」
僕は立ち上がった。僕は大きな湖?を見下ろす小高い丘のどこまでも広がる花畑の中に立っていた。眼下には大きな湖?河?が広がっており、花畑はその岸まで広がっていた。湖の対岸は霧のようなもやにかすんで見えない。
ここは死後の世界だな、と直感した。湖?河?は三途の河だろうか。今いる場所は、河のこちら側だろうか、向こう側だろうか? でも、石の河原ではなく、お花畑が岸辺まで広がっている。そのきれいな景色を見ていると、自分が死んでしまったことも仕方がないことに思えた。でも、大きなため息が出た。イベントに行きそびれた。残念だ。
「ここは天国ですか? 僕は…死んでしまったのでしょうか?」
「いや、ここはまだ天国ではないよ。あの世と現世の狭間じゃよ。まだ死にきっていない者や、誰かを待っている者、深い後悔を抱える者や、自分の行いに疑問を持つ者、そんな現世に強い未練を持つ者の居場所じゃよ。」
「おじいさん、あなたは誰ですか?」
「わしかな?わしはクーボじゃよ。」
「久保さんですか?」
「いや違う。伸ばすんじゃ、クーボじゃ。」
「クーボ?」
「そう。 生前はクーボ大博士と呼ばれていた。」
生前、ということは僕は既に死んでしまった人なのだろうか?
「ところで、君は誰かな?」
「僕はミヤサワです。」
「ミヤザワ君かのぅ?」
「いえ、ミヤサワです。濁りません。」
「そうか。ミヤサワ君か。…君はまだ死にきっていない。この分だと生き返りそうじゃのう。最近の医療の進歩のおかげで、ここまで来ても現世に戻る者も増えたのぅ。…生き返ることは良いことなのか、どうか。…たぶん良いことなんじゃろうなぁ。」
クーボ大博士は遠い目で水辺の方を見ながら誰に聞かせるでも無く、そうつぶやいた。その足下を涼やかなそよ風が吹く。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
「ところで、クーボさん。自分で大博士を自称するのは、少し痛いですよね。」
「ホッホッホ。ダイハカセではなくダイハクシじゃよ。国の定めた正式な学位の名称じゃ。」
「学位?」
「そうじゃよぉ。学術称号じゃ。大学を卒業すると学士になる。大学院の修士課程を修了して修士論文を書くと修士になれる。さらに研鑽をつんで博士論文を仕上げて審査で合格すれば博士になれる。」
「それは何となく知っています。でも大博士なんて聞いたことがありません。」
「さもありなん。大博士号という学位は日本では明治時代の短い期間だけあった学位じゃ。でも、もう100年も前に廃止されてしまったのじゃよ。」
「へ〜ぇ、そうなのですか? でも廃止されたって…どうしてですか?」
「それはのぅ。簡単に言えば、帝国大学に大博士の学位を持つ教授がいなかったからじゃよ。大博士でない教授が審査をして大博士の学位を授与することはできないからのぅ。わしは留学先でこの大博士の学位を受けたのじゃ。」
「プロフェッサーって『教授』じゃないんですか?」
「教授は大学での職位、立場を表す言葉じゃ。大博士は個人に与えられる学位、学術称号じゃよ。まあ、混同しやすいがのぅ。」
「何で海外留学して大博士になった先生みたいな人が帝国大学の教授にならなかったのですか?」
「それはのぅ…わしゃよくしらんし、…うん、わからん。」
クーボ先生は昔の嫌なことを思い出したのか、歯切れが悪い。最後は吐き捨てるように答えた。その後、少し微妙な顔で苦笑した。
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「ところでミヤサワ君の死因は…まだ死んでいないのに『死因』は変じゃのっ。どんな事故でここへ来たのかな? 交通事故かの?」
「いいえ、交通事故ではなく熱中症です。今年は観測史上最高温度を記録しています。その異常な暑さにやられました。」
「熱中症か。最近、多いのう。…帽子もかぶらずに、水分も取らずに炎天下をうろついていたんじゃないのか?」
図星をさされて、少し不愉快に思い、僕は少し大きな声で言い放った。
「昔に比べて暑いんです。暑いのが悪いんです。異常気象のせいです。地球温暖化のせいです。二酸化炭素のせいです!」
「地球温暖化…かのう。贅沢な問題じゃなぁ。儂の若い頃、100年ちょっと前は冷夏の不作や凶作で農家は苦しんだものじゃが。」
「嘘でしょう? 地球温暖化は二酸化炭素のせいだと理科の授業で習いました。」
「うそじゃないぞ。今から200年前、そうじゃなぁ江戸時代か。そのころの江戸の夏の最高気温は昨今の東京の最高気温よりも高かったと推定されているのじゃ。もちろん、その頃は石油も使われていなかったから、江戸の夏の酷暑は必ずしも二酸化炭素のせいではないぞ。」
「でも今年は異常気象で、歴史的な猛暑だとテレビでも新聞でもネットでも言っていますよ。それにその原因は二酸化炭素だと。」
「観測された気温が高いのは事実だとしても、本当に猛暑じゃろうか? それは、本当のことかのぅ?」
「みんなが言っているから、本当なのでしょう?」
「異常気象は多数決で決まるものじゃないと思うがのぅ。」
「客観的な測定結果が異常な高温を示しています。」
「その客観的と称する測定結果はどのくらい信用できるのかのぅ。」
「機械で計測しているのだから信用できるのではないですか?」
「昔の観測は草原や野っ原の中に立てられた風通しの良い『百葉箱』の中の温度計で計測しておった。一方、今の測定はコンクリートで固められたアメダスだったかな、その装置で計られる。周りが土ならそこからの気化熱の恩恵で少しは温度も下がる。コンクリートの土台の上が草原より暑いのは当たり前じゃないかのぅ。だから、昔の測定結果は少し低めになっていたのじゃないかのぅ。」
う〜ん。それは考えたことが無かった。
「それにのぅ。観測が自動化されたおかげで、昔に比べて観測点は増えている。一点当たりの観測数も格段に増えている。観測点が増えれば、『その日の最高気温の記録』は1カ所で計った場合よりも高くなるのは道理ではないかのぅ?」
う〜ん? 学校で私が教えられたことを否定されてしまった。なんかクーボ先生に騙されているような気がする。クーボ先生の言うことが本当なら、僕が習って来たことは何だったのだろう?
「でも、教科書には地球は温暖化していると、書いてありました。この120年間の気温上昇と二酸化炭素濃度との関係のグラフ付きで…」
「その教科書は本当に正しいのかのぅ。気温上昇と二酸化炭素濃度との関係は疑似相関ではないのかのう? 教科書が正しいと信じ込むのは愚かじゃよ。教科書はのう、その時点で一番それもらしいことをまとめた書物じゃ。時に為政者が一般市民にそう信じ込ませたいウソも含まれている。」
「学者さんがそう言っていると…」
「わしも学者じゃが…学者が何でも知っているとか、まして言うことは全て正しいと考えるのは危険じゃ。人類の科学はまだまだじゃ。人類のもっている情報や知識なんて大自然の前ではちっぽけなものじゃ。情報は事実でも、知識は誰かの意見に過ぎん。理論と呼ばれるものは事実を説明するための『仮説』にしか過ぎん。説明は説明にしか過ぎんのじゃよ。いろいろな『事実』をわかりやすく理解するための方便じゃなぁ。もし、その理論に反する確かな事実が一つでも存在すれば、その理論は棄却しなければならない。今でも教科書に書かれている正しい理論というのは、現時点で最もそれらしい『多数派の意見』に過ぎないのじゃ!」
クーボ先生はいつのまにか立ち上がり、声を荒げた。その表情は怒りと悲しみに歪んでいた。
「先生。コワいです。」
「いや、すまん。年甲斐も無く少し熱くなってしまったようじゃ。」
クーボ先生は白髪頭をかき、やがて、また、私の横に腰掛けた。その表情から怒りは消えていたが、悲しみは残っていた。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
「わしはのぅ。もしかしたら誤った仮説で、若者を殺してしまったかもしれんのじゃ。 わしはな、生前は気象の研究もしていた。ミヤサワ君の言う常識、つまり『二酸化炭素は地球を温暖化させる』という学説を…な。 わしはわしの弟子と地球温暖化と大気中の二酸化炭素濃度の関係を研究していた。もちろん当時はまだしっかりとした測定装置も無かった。過去の記録から推定する、という研究じゃった。そして、その冬は厳冬で、いろいろな生物の行動から、次の夏も冷夏になると予想したのじゃ。」