12-ダイクボ先生の物語 <プロジェクトを止めることは始めるよりも難しい>
「アーちゃんは僕の研究の内容を理解しているかな?」
うちのおじいちゃんの霊は僕のことをときどきだけど『アーちゃん』と親しみを込めて呼ぶ。
「う〜んと、擬似的な1次元空間を作って、その壁面にラチェット構造を構築し、それがファインマンラチェットとして機能することを見つけた、みたいな? それが第二種永久機関としてエネルギーリサイクルの鍵になる、とか?」
「表面的には正解だが本質はそうではない。僕はそれを設計して実現したんだけど、これは熱力第二法則が成立する条件を解明する鍵になる研究だったと僕は勝手に思っている。」
「というと?」
「1次元空間の中の単粒子はエントロピーは数学的にも増大しない。これはマルコフ過程のランダム・ウォーク=酔歩は再帰性があるので、その粒子の存在確率分布の形、つまり正規分布曲線を崩さないことで示せる。また、多粒子系でも1次元空間にある場合はどんなに時間が経過しても追い越しがないから、混ざらない。つまり『場合の数』も変化しない、ということだ。つまりね、熱力学第2法則は1次元空間では成立しないということだ。」
以前、ダイクボ先生が解説してくれていたから、ここの部分については理解できている。あのほら吹きドンドンオヤジはおじいちゃんの仕事を正しく理解しているらしい。
「熱力学第二法則、エントロピー増大則は、3次元以上の空間で成立する。これはランダム・ウォークの再帰性が3次元では非再帰的になることからも明らかだ。」
「…なるほど?」
「これは3次元空間でそのプロセス過程が不可逆的になることを意味する。つまり時間が一方的に『進む』ようになるわけだ。これは『時間の矢』としてエディントンさんが提唱している。時間がなぜ一方方向にしか進まないか、については物理学の重要な課題だからな。これは究極的にはランダム・ウォークが3次元以上で非再帰的になることで説明できる、と僕は考えている。」
「それは数学的な真理ではないの?」
「僕の仮説でしかない。 この仮説に基づけば、2次元空間までは時間が存在しないから、宇宙の時間変化、つまり進歩はない。事象は時間軸に対して可逆的だ。一方、4次元空間以上では、再帰確率が下がるため、宇宙は急速に発散し、その構造を長期間保てない。宇宙は素早くエントロピーの増大による『熱的な死』を迎える。つまり、3次元空間は神の与えたもうた次元のハビタブル・ゾーンということだ。」
う〜ん。理解が追いつかない。おじいちゃんは、そんなことを考えていたのか? やっぱマッドサイエンティストだ。そんなことを考えていたら、それを見透かしたようにおじいちゃんが言った。
「まあ、死後は時間がたっぷりあったから、僕はそんなことを考えていたよ。 ところがねえ。超弦理論ではこの世界は3次元ではなく10次元以上、おそらく11次元の空間で、3次元を残してその他の次元が『畳み込まれて』弦になり、それが素粒子を形作っている、と言われている。それが本当なら、余剰慈顔は誰が畳み込んだんだろうねえ?」
「神様?」
「僕は神をまだ信じていないし、狭間の世界を知るまでは死後の世界も信じていなかった。でも、神様はいるのかもしれないねえ。」
「で、それがダイクボ先生の研究の危険性とどう関わってくるの?」
「彼の研究はその余剰次元をエネルギーとして解放することで、質量そのものをエネルギーに変えようとするものだ。しかし、その解放は、この宇宙の次元数を変える相転移を招いてしまい、真空崩壊を招く可能性を持つ。」
「やっぱり、ダイクボ先生は宇宙を滅ぼすレベルのマッド・サイエンティストだったんだね。 …で、彼を暗殺しろ、と?」
その発言を聞いて、おじいちゃんは笑いながら言った。
「科学者、研究者は多かれ少なかれ、みんなマッドサイエンティストだよ。」
ここでおばあちゃんが割り込んで来た。
「そうよ。このおじいちゃんも大概、社会常識からずれていたわ。自分の好奇心を満足させるためなら、宇宙をも滅ぼしかねない人よ。」
「リエちゃん、それはひどい。」
「だってそうじゃない。少なくとも家庭を何度も滅ぼしかけたわ。あの時も、この時も、ブツブツブツブツ」
ばあちゃんは専門用語満載の僕たちの会話に割り込めなかった鬱憤を晴らすかのように、ここぞ とばかりにおじいちゃんを口撃している、しまいには孫の手でぺしぺしとおじいちゃんをしばいて物理的に攻撃している。 僕はその様子を苦笑して見ているしかなかった。
「結論として、『狭間の世界の賢人会議』は現時点でダイクボ先生のプロジェクトに介入しないそうだ。彼を暗殺する必要はない。まだまだ実現には時間もかかるし、技術も足りないから、まあ数百年は大丈夫だろう。そして、その研究の副産物は人類の進歩に有効だろう、まあそういうことだ。でもキミはその研究を手伝う、あるいは将来的に継承する。そんなキミはそのようなリスクの存在を十分に理解しておくように、とのことだった。」
そして、リスクが現実になった時は、賢人会議は遠慮なく介入し、必要ならダイクボ先生も僕も憑り殺されるらしい。くわばらくわばら。 そして、自分の孫にそのような危ない研究を勧奨するこの祖父は、間違いなくマッドサイエンティストだ。




