01-お地蔵さん(あらすじに代えて)<みどりご>
生まれたての赤ん坊をみどりごと呼ぶ。
色が緑色だということではない。生まれたての若い命を新緑の『みどり』になぞらえているそうだ。
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しかし、祠の前で僕の隣に座るおばあさんの抱いている小さな赤ん坊のおくるみの隙間から見える顔色は、深い緑であった。生まれてくることのできなかった小さな緑色の赤ん坊はばーさんの腕の中で辛酸を嘗め尽くした老哲学者のように眉間にしわを寄せて難しい顔をして眠っている。
「ばーさん、代わろうか? 重いだろう?」
「いいえ、この子は私が抱き続けます。じーさんは手を出さないでください。」
そうはいうものの、まだ首も座っていない赤ん坊を抱き続けるのは苦行だ。首を支えるため、腕や体をあまり動かせないから、肩が凝る。体が固まってしまう。
「やっぱり代わろう。ばーさん少し休みなさい。」
そういって手を出したら、ばーさんはもう片方の手に持った孫の手のような棒で僕の手の甲をペシッと打った。
「この子に今必要なのは女親の包み込む愛です。男親はまだ不要です。だいたいあなたは自分の3人の子供もあまり抱いていないでしょう? 暇になったからといって、いまさらに赤ん坊をかまおうとするのはやめなさい。」
「いや、自分の子供は抱っこしていたつもりだったけどなあ。ほら寝っころがって、おなかの上にうつぶせにのせる『トトロ寝』をしょっちゅうしていたろう?」
「あのねぇ…」
ばーさんはため息をつきながら、続けた。
「あなたが抱いていたのは10分とかそこらでしょう? 一日は24時間なの。その中でちょろっと抱っこして育児に参加したつもりになっているなんて、へっ! チャンチャラおかしいわ。」
今日のばーさんは辛辣である。
「だいたいトトロ寝にしても、赤ちゃんがおなかの上から落っこちないようにあのときは私がずっと見張っていたのよ。あなたの父親としての自覚を促すために、わざわざあなたのおなかの上に寝ている子を載せて、落ちないように気を使っていたのよ。」
いかん! 過去の子育ての不満を誘爆してしまった。
「あなたに渡す時にこの子が起きちゃって泣き出したらどうするの? 泣き止むまであなたに抱き続けられるの? だいたい、あなたに泣き止ますことができるの? 泣き出したらどうせ私に丸投げするんでしょ? 二度手間三度手間だわ。あなたはそこでおとなしく座ってなさい!」
僕の申し出は孫の手による、帽子への打撃とともにピシャリと拒絶されてしまった。へぶっ!いてっ!
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ばーさんがその生まれてこれなかったみどりごを、ことさらにかまうのは理解できる。
ばーさんは新婚1年目に妊娠に失敗している。子宮外妊娠だった…。
その1週間前の尿検査で妊娠を知った日、我々はすなおに喜んだ。幸せを感じた。早速、僕は子供の名前を考えはじめた。ばーさん…じゃなかったな、当時は。僕は奥さんのおなかの胎児君に声をかけた。週末にベビーベッドを買おうとして「まだ早い!」と奥さんに叱られた。
…しかし、翌週の産婦人科での超音波検査では赤ちゃんの影は見つからなかった。
僕が学会で出張中に奥さんは大出血を起こした。嫌な予感がした、虫が知らせたので奥さんを実家に帰省させていた。そのおかげで、奥さんは一命を取り留めた。でも、もちろん、胎児君…仮名『ア〜ちゃん』は奥さんの片方の卵管とともにいなくなってしまった。
入院している奥さんの枕元で、青白い顔で寝ている奥さんの枕元で、僕は生まれてくることのできなかったアーちゃんを悼んだ。大量の出血と輸血は奥さんの体にはかなりの負担だった。僕は子供を持つことを諦めた。そしてあらためて奥さんと二人だけでも仲良く生きて行こうと決意した。
しかし、奥さんは強かった。諦めてはいなかった。体がある程度まで癒えた後に当たり前のように不妊治療に取り組みはじめた。
不妊治療はつらかったようだ。病院へ行くたびにつらそうにしていた。僕はつらい治療を無理強いしたくなかった。うしろやめさせたかった。でも、やめさせられなかった。
そして、2年後に懐妊した。妊娠中は注意深くいたわったつもりだけど、奥さんには『暑苦しい』とうっとうしいがられた。
その後、子供を3人持てたのは僥倖であった。うちの奥さんはカーサンに進化した。やっぱりカーサンはとっても強〜い。
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「ま〜た、何かよけいなことを考えているわね。」
と、カーサンからさらに『ばーさん』に進化した奥さんは孫の手で僕の腕をピシピシと攻撃しながらきびしく指摘する。
「だいたいあなたの考えていることは的外れでずれているんだから…とにかく、この子のことは私に任せて、あなたはそこで何も考えずに、ぼけ〜っと、小さくなって、おとなしく座ってなさい。」
「は〜い。ばーさん。」
叱られてしまったので、僕はばーさんの横でおとなしく座っていることにした。
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「この子はどうして生まれてくることができなかったのだろう? いやそんなことはどうでも良い。どうしたらこの子の原初的な負の感情を祓うことができるのだろう?」
僕のつぶやきにばーさんはあきれたような顔で答えた。
「馬っ鹿じゃなかろうか。難しい顔をして何を小難しいこと考えてるの? 赤ちゃんはねぇ、抱いていればいいの。母親のおなかの中で、胸の中で寝かしておけばいいの。ぬくもりに包まれていれば安心するの。そんなの理屈じゃないの。」
説得力があるコメントだ。母親経験者は強い。何をしても、どうしても勝てない。
ばーさんを取られてしまったように感じ、みどりごに少しだけ嫉妬したのは内緒だ。
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何日か経つうちにしかめっ面をしていたみどりごも穏やかな顔になり、その緑色も徐々に抜けて行った。みどりごを抱くばーさんは聖母子像のようだ。さすがばーさんはステラ・マリス女子高出身だ。
そして、ある日の夕方、ばーさんの腕の中で赤ん坊はニパッと笑ったかと思うと、そのまま光になり、空気の中に溶けていった。狭間の世界に行ってしまった。あの水辺のお鼻の上で、本当の両親を待つのだろう。
ばーさんは誇らしげでもあり、寂しげでもあった。
そんなばーさんの方に手を回し抱き寄せようとしたら、その手の甲に孫の手攻撃が飛んで来た。
「え〜い、暑っ苦しい」
「でも寂しそうだったから…」
「まーた、私の考えを勝手に推測してっ! っまったくもう、このジャガイモは、ずれているんだから。」