06-真子ちゃんの物語 <真子のいる生活>
僕の戸籍上の名字は変わった。でも義両親は僕を名前ではなく、いまだに『ミヤサワ君』と呼んでいる。隔意か? 結婚後、理恵子さんは僕のことを『あなた』と呼んでいたけど、3年後に『お父さん』と呼び方を変更した。オヤジと水田父はそれに伴い『おじいちゃん』に、水田母は『おばあちゃん』に転職した。
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生まれて数ヶ月経つと、長女の真子はギョロ目のお猿からつぶらな瞳の可愛い赤ん坊に進化した。真子は手のかからない赤ん坊だ。僕が抱っこしていると、ニコニコしながら「ア〜、ウ〜」とつぶらな瞳で僕の顔を見ながら喃語で語りかけてくる。真子をお風呂に入れるのは僕の仕事だ。もっともお風呂の準備は理恵子がしてくれる。おっぱいとおしめは理恵子の仕事だ。僕がおしめを替えようとすると、手足をチタパタさせて抵抗する。それでもおしめを外そうとすると、両足をピーンと突っ張り太ももを閉じて邪魔をする。 うんちのついたおしめはきもち悪かろうに、それでも僕のおしめ交替に抵抗する。理恵子の時には素直におしめを替えさせている。理恵子と僕とで何が違うのだろう? 理恵子のおしめ交換を観察していると、真子は露骨に嫌な顔をする。赤ん坊のくせにそんな顔ができるんだ。そんな時に理恵子は勝ち誇ったようなドヤ顔をする。癪に障る。
お風呂の前に、うんちの出がよくなるように僕は真子のおなかを『のの字』マッサージする。湯船に『ウノハナ』をまき散らされては、大事件だ。
「うんち出ろ出ろ♪、うんち出ろ出ろ♪。う〜ラリラリうんち出ろ♪♪」
と怪しい歌を歌いながら、僕は真子のお腹を『のの字』にさする。すると真っ赤な顔をして、ブハッとうんちを放出する。
「おう。出た出た、大漁だ♪」
と僕が喜ぶと、真子は真っ赤な顔をして目をそらし、「ウァ〜、ウー」と文句を言う。何で赤ん坊のうんちは汚いと感じないのだろう。匂いさえ芳しい。
お風呂は二人掛かりだ。手に石けんを付けて、丁寧に体を洗う。耳を押さえるように片手で頭を持って仰向けで湯船に浸ける。このときお腹にガーゼハンカチを乗せてやらないと、手足をチタパタさせて抵抗する。
「お客さん、手ぬぐいを湯船に持ち込まないでください。」
と、僕が銭湯のオヤジのようなことを言うと、手でぎゅっとガーゼハンカチを握りしめる。とらないよ。とりあげたりしないよ。
湯上がりに、真子は理恵子のおっぱいにむしゃぶりつく。うんくうんくと美味しそうに飲んでいる。最近、理恵子のおっぱいともご無沙汰だなあ、とその姿を眺めていると。
「お父さんも飲みたい?」
と理恵子が悪い顔で微笑みながら聞いてくる。真子もおっぱいを咥えてニタリと笑う。正直、どんな味なのか興味がある。ちょっとだけ舐めて味見したい衝動に駆られる。これは科学者の性だろう。でも、それを正直に口に出せば、一生理恵子に揶揄われる。そして、それは父親の矜持が許さない。
「いや、やめておく。」
僕は目をそらして答える。きっと僕の顔は真っ赤だ。
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真子を横抱きにしてゆらゆら揺らす。真子はもうお眠むさんだ。まぶたが下がって来ている。小さな口で大きなあくびをする。僕は真子をベビーベッドにゆっくりとおろす。そうすると、目をぱっちりと開けて「アー、ウー」と文句を言いながら、手足をチタパタと動かす。抱っこしろと文句を言う。再度抱き上げ、ゆっくり揺らす。サンドマンがやってくる。ベッドにおろす。また起きる。ベッドが冷たいのかな? 何回かこれを繰り返す。最後は僕の指をその小さな手に握らせる。そうすると安心したように娘は眠る。その寝顔は安らかだ。その寝顔を見ながら僕はニヨニヨと微笑んでいるだろう。
なぜか水田のお父さん?おじいちゃんに申し訳なさを感じる。もうすこし大きくなったら、帰省して真子を抱っこしてもらおう。その前に理恵子に言って、おじいちゃんとおばあちゃんをお家に招こう。オヤジは後回しでいいや。そんなことを思いながら、ベビーベッドの柵に手を突っ込みながら、僕はうとうととする。
しばらくして真子の「ギャー」という泣き声に起こされる。いつの間にか僕の手はベビーベッドから落ちていた。真子娘はベビーベッドの中で回転して、頭が柵にぶつかっている。
「よしよし。もうすこしお母さんを寝かせてあげようね。」
僕は真子を抱き上げ、ベッドの真ん中におろした。真子はまた手足をチタパタしている。
「チタパタ真子ちゃん。」
と声を掛けて、指を握らせ、僕は娘に微笑みながら語りかける。娘は何かを訴えるかのように僕に喃語で話しかける。
「アー、ウー、ダー」
「んー。何だい? 眠れないの?」
「アー、ウー、ダー」
「そうかそうか。なんだかわからんけど。真子は幸せかい?」
「アー、アー、アー」
「そうか。真子が幸せだと、お父さんもお母さんも幸せだよ。」
「アー、ウー、アー」
何だこの可愛い生き物は。抱き上げることのできる、許される真子を生んでくれた理恵子に感謝する。
「もう遅いから、おやすみ。また明日な。」
「アー」
夜中の授乳とおしめ交換は理恵子の担当だ。おやすみ。
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彼女ははいはいよりも先につかまり立ちするようになった。机の上のものを触りたいがために、立つことを優先したのだろう。『這えば立て、立てば歩めの親心』というが、僕は『立てば走れ、走れば飛べ』になりそうだ。うちの子の運動能力は僕と違って抜群だ。オリンピック・アスリートになれそうだ。僕の親バカを理恵子カーサンはあきれた顔で見ている。
真子はベビーベッドの柵に掴まって一心不乱にスクワットをして筋力を鍛えていた。フンフンと鼻息荒く、しゃがんでは立ち上がる。彼女は何を目指しているのだろう?
机の上はもはや安全地帯ではなくなった。すぐに彼女は本棚のフリークライミングに挑戦するだろう。本棚の下の段には重い本、内容ではなく物理的に重い本をおいている。それと絵本も下の段だ。専門書などの高価な書籍は上の段においてある。最上段の裏の方には『薄い本』が鎮座している。この本は結婚当初、理恵子の焚書に会いかけたが、真理子さんの遺品ということで廃棄を免れた。理恵子さんは表紙を見たけれど、中を確認しようとはしなかった。真理子さんの尊厳と矜持は守られた。薄い本を手に取った理恵子さんを真理子さんが見ていたら、ハラハラしたことであろう。数冊の薄い本は束ねられ、紙袋に入れられた状態で、堅く紐で縛った上で、本棚の下からは絶対に見えない場所に隠してある。
真子はなぜか絵本より中段の専門書を読みたがる。無理だ。まだ早い。
あっ!、こら! 病院でもらった『フーナー法の解説パンフ』なんて引っ張りだすんじゃない。25年早い! 真子はニヤニヤしながらパンフを開いていた。
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机につかまり立ちしてから真子は、机の横で仰向けに昼寝している僕の上にダイブする。彼女のマイブームは僕の顔の上へのダイブだ。こら、うんちをしたおしめで鼻や口を塞ぐな。わざとやっているんだろう? 息苦しくて目が覚める。真子が邪悪な微笑みでケケケと笑う。僕は娘の脇に手を入れて持ち上げて、その笑い顔を堪能する。そのままお腹の上に載せる。娘はうつぶせに僕のお腹にしがみつく。我が家ではこの体勢を『トトロ寝』と呼ぶ。娘はすぐにあくびをすると、眠りに落ちる。僕は顎を引き娘の頭のてっぺんを眺める。顔が横を向いており、腹に埋もれて窒息していないことを確認する。しばらくすると理恵子がタオルケットを僕と娘の上に掛けてくれる。至福の休日の午後である。
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よちよち歩きを憶えた真子が、しばらくしてタンスのぼりを憶えた。本棚の横のタンスの引き出しを器用に下からだんだんに開けて階段状にして上へ上へとよじ上る業だ。昨日の昼間、真子はタンスの上に座ってケラケラ笑っていたと、理恵子から聞いた。理恵子はタンスの上に鎮座する真子を見たとき、思わず悲鳴を上げそうだ。このくらいの幼児は思いもよらないことをするというが…危ないなあ。ベビーベッドの檻も、もはや自力で乗り越える。上まで柵で覆うベビーベッドは売られていない。目を離せない。もはや我が家には安全地帯はなくなった。




