05-アーちゃんの物語 <私の子になる?>
ベッドには少しむくんで、でも顔色の悪い理恵子さんが寝ていた。腕にはベッドサイドの上方から黄色の点滴が入れられていた。病室には水田父がいた。水田母は着替えなどを取りに家に戻っていた。
「すみません。お義父さん。」
「謝るんじゃない。君が悪いわけではない。ちょっとばかし方向音痴な孫が変なところに潜り込んだだけだ。 理恵子は生きている。生きていればそれだけで儲け物だよ。」
「それでも…」
かぶせるように水田父が言った。
「さあ、手を握ってやってくれ。麻酔から覚めた時に君の名前を何度も呼んでいたよ。」
僕はベッドサイドに丸椅子を動かし、そこに座り、理恵子さんの手をやさしく握った。手はつめたかった。もう少しで理恵子さんを失うところだったと実感した。何か悪い夢を見ているようだった。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
しばらくして理恵子さんが目を覚ました。
「おはよう。よく眠れた?」
我ながら間抜けなことを聞いている、という自覚はある。あんまり深刻にならないように、軽い調子で声をかけようとしたら、これだぁ。我ながらずれている。理恵子さんはその間抜けな挨拶に微笑?苦笑し、合わせてくれた。
「おはよう、あなた。 私ね….夢を見たの。」
「どんな夢?」
「川のほとりのきれいなお花畑に行った夢。」
危ない。その夢は危ない。それは夢じゃない。理恵子は狭間の世界に行ってたんだ。死にかけていたんだ!
「そのお花畑で、真理子お姉ちゃんにあったの。あの事故で亡くなった頃のままの中学3年生のお姉ちゃんだった。 お姉ちゃんに『ここは美しい良いところね。』って言ったら、ものすごい剣幕で叱られちゃった。『早く現世に戻りなさい。あなたがこっちに来たら、ミヤサワ君もこっちに来ちゃうわよ』って。『あなたがいなくなったらミヤサワ君はダメになっちゃうわよ』って。本当よね。あなたには私が必要だわ。」
「うん。だから早く体を直して、一緒に社宅に…お家に帰ろう。」
「それでね、お姉ちゃんからミヤサワ君に伝言があったの。『アーちゃんは私が必ず見つけ出して、責任を持ってここで育てるから安心しなさい。』って。おかしな夢でしょう? …アーちゃん迷子になっちゃった…。」
そこで理恵子は泣き出した。よしよしと手をさすりながら、僕は彼女をなだめた。
「おかしな夢じゃないよ。真理子さんならきっとお花畑の中で迷子になっているアーちゃんを見つけ出して保護してくれるよ。」
「そうね。きっとそうよね。」
いつの間にか水田父は部屋から居なくなっていた。
「あなた、お願いだから私が寝るまで手を握っていてね。離しちゃダメよ、ずっと手を繋いでいてね。…一生繋いでいてね。」
「君が拒否しなければ、ずっと繋いでいるよ。 でも、どうしよう。お仕事に行けなくなっちゃう。」
「バカね。もう。ずれてるわね。おかしな人。」
そう言って理恵子さんはぎこちなく微笑み、しばらくして眠りについた。僕は手を握りながら、うつむき、ぐるぐるといろんなことを考えながら、その日を病室で過ごした。
入院している理恵子さんの枕元で、青白い顔で寝ている理恵子さんの枕元で、僕は涙をこらえてうつむき、生まれてくることのできなかったアーちゃんを悼んだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
トゥオネラの水辺の花畑に真理子さんは来ていた。クーボ先生は、アーちゃんはこの辺に現れるるじゃろうと言っていた。
理恵子さんが青白い顔で病院のベッドで寝ている頃、真理子さんの居る水辺に小さな蕾がうまれ、やがて開花した。その中には片方の端がぴらぴらと広がるピンク色の卵管を握りしめている赤ちゃんがいた。
「アーちゃん?」
真理子が尋ねると、つぶらな瞳のサルのような生まれたての赤ちゃんは目を開けて真理子をじっと見た。
「水田さんちのアーちゃんでしょう? お母さんは理恵子ちゃん。」
アーちゃんは小さく頷いた。
「私はね、あなたの伯母さん。理恵子の姉よ。初めまして。あなたを迎えに来たわ。」
アーちゃんは首をかしげ、口をパカッと開けた。
「よろしくね。あなたのお父さんもお母さんも、まだしばらくこっちには来られないわ。この水辺で待つ? それとも私と一緒にお花畑に来る?」
アーちゃんは両方の腕を伸ばした。真理子はアーちゃんを抱き上げて胸に抱いた。アーちゃんは胸の中で安心したように目を閉じて、口の端をあげて満足そうに微笑んだ。
「アーちゃんを保護したことをミヤサワ君、あなたのお父さんに知らせなくちゃね。近々に狭間の世界に来ないかしら。」
胸に抱くアーちゃんはすやすやと穏やかな寝息を立てている。サルのような寝顔ではあるが、理恵子とミヤサワ君の面影を宿していた。
「自分が産んだわけでもないのに、存外、かわいいものね。ねえ、アーちゃん。私の子になる?」
眠っているはずのアーちゃんはコックリとうなずいた。
「その手に持っている管みたいなものは、汚いからチャイしなさい。」
アーちゃんはイヤイヤして、管を両手で握りしめた。
「そんなに大事なの?」
アーちゃんはコクコクとうなずいた。
「仕方ないわね。まあ、あなたとリエの絆みたいなものね。大事に持っておきなさい。」
アーちゃんはニッと微笑むと、コクンと頷いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
胎児君…仮名『ア〜ちゃん』は理恵子さんの片方の卵管とともにいなくなってしまった。
大量の出血と輸血は理恵子さんの体にかなりの負担を掛けた。卵管の摘出は上手く行ったそうだ。幸いに子宮本体は傷付かなかった。でも、しばらくは妊娠できないだろう、させてはいけないと医者に言われた。僕は子供を持つことを諦めた。そしてあらためて理恵子さんと二人だけでも仲良く生きて行こうと決意した。
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病院のロビーで見舞いに来たオフクロとオヤジに会った。
「理恵子さん、どうなの?」
「命の心配はもうないと思う。今は眠っている。」
「子供は?」
「…いっちゃった。 理恵子さんもしばらくは妊娠できない、…だって。」
沈黙が場を支配する。おふくろはうつむき、涙をこらえているようだ。オヤジは少し震える声で男のアドバイスをした。
「まあ、ガッカリするな。オマエには理恵子さんがいる。理恵子さんを大事にしなさい。」
おふくろがそれを受けて、小さく頷いた。
「そうよ。どうせ子供達はいつか親元を離れて、どのみち最後は理恵子さんとあなた、二人だけになるのよ。理恵子さんに無理をさせちゃダメよ。オマエと結婚してくれた奇特な人なんだから。こんな人、もう二度と現れないわよ。」
「オグクロもひどいなあ。息子下げが酷い。」
「だって、事実でしょ。」
「まあね。」
親子三人の顔のこわばりが少しだけ緩んだ。でも、それが親子三人で交わした最後の会話になった。
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