04-理恵子さんの物語 <お見合い>
いつの間にか時は過ぎた。僕は27歳になった。生誕1万日目にお誕生会?を研究室の後輩が祝ってくれた。直径15cmの小さなケーキにろうそくを27本立てるとまるでハリネズミのようだ。それに火をつけると…炎は合体して渦を巻き蝋を溶かし…高さ30cmにまで燃え上がった。ミニ火炎旋風だな。皆慌てた。吹き消そうとすると、さらに炎が大きく渦巻いた。吹き消すのはどうやっても無理だ。仕方なく、研究室に備えてあった二酸化炭素消火器でケーキの上のボヤを消し止めた。ろうそくが融けて合体していた。クリームは一部が燃え焦げてロウソクの蝋に絡み付いていた。焦げたスポンジ部分を切り分け、皆で食べた。苦かった。むなしい。
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僕は大学院博士課程を修了し、理学博士の学位を得た。学術称号の名称が『博士(理学)』ではないところから、僕の生年を絞り込めるだろう。就職もスムーズだった。ある日教授に食事に誘われ、そこで会社の重役と会食し、その会社で新規に立ち上げる医薬品基礎研究所の創薬部門の研究員(スタッフの係長相当)になることが決まってしまった。夕飯1回で僕は売り飛ばされた。
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新入社員研修がはじまった。27才の新入社員は最年寄りだ。一番若い高卒社員とは10才近く違う。会社員の生活は極楽だ。今までの大学での研究生活とは大違いだ。試用期間中ということもあるが、まず1日の勤務時間が8時間しかない。これまでの、特に博士号取得直前の1日20時間の大学研究室の生活に比べると半分以下だ。それに完全週休2日だ。これまでの日曜日の午前中だけ休める週休1/2日生活に比べ、毎週のお休みが4倍になった。 ありがたや。 そして、何より、働くだけで…研究をしているだけでお給料をいただける。これまでは学費を払っていた。それとは真逆だ。 この楽園生活は、いったいなんだ?
でも、同期で入社した者の中には
「1日8時間も働かされる。休みも週2日しか無い。しかも薄給だ。 お先き真っ黒だ。地獄だ。」
と文句を垂れる者もいた。こいつらどれだけ大学生活をエンジョイしていたんだろう? 僕はこれから35年間の極楽だ。君らは40年間の地獄だ。ハンニバルども、ザマを見ろ。
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そんな極楽生活を無為無策に楽しんでいたある日、おふくろから手紙で連絡があった。「何があっても今週末は帰省しろ」というものだった。慌てて電話をかけた。『とにかく何があっても帰ってこい』とだけしか言わない。まあ、土日は暇で、本を読むかパチンコくらいしかすることが無かったので、その帰省要請に応じた。いつものズボンにいつもの靴、いつものワイシャツで帰省した。ズボンには小さな穴があいていたが、まあ無問題だろう。太ってしまうとサイズの合う吊るしのズボンがなくなる。
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金曜日の退勤後、仕事場から直接実家へ帰省した。遅い時間に実家にたどりついた。実家の玄関で僕を見たおふくろは眉を下げ、口もヘの字で少し開けて『うへぁ』という顔をした。
「…また太った?」
「うん…まあ…」
「いいかげんにやせなさいよ。」
久々の帰省は玄関先のおふくろのお小言で始まった。話しをそらさなければ…
居間で上着を脱ぎながら、おふくろに問うた。
「ところで、急な呼び出しは何の用?」
「あ、そうそう、明日の午前中お見合いだからね。」
頭の上に大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
「えっと? 誰の?」
兄はもう結婚している。子供もいる。
「オマエの!」
日本語なのに脳がその言葉の意味を認識できない。…オマエって誰?
「エエェェェ〜」
僕は3秒後に帰省先で奇声を発した。
「堪忍してよ。こんなぼろぼろの通勤服でお見合い? 前もって言ってくれれば…」
「逃げるでしょ?」
かぶせるように指摘された。うん。何か理由をつけて帰省せずにどこかへ逃亡するだろう。
「どうしよう。このズボンには太もものところに小さな穴があいているんだ。」
このズボンには直径1 mmくらいの小さな穴があいている。普段着として僕は気にならないが、穴から太腿の皮膚が白く見える。
「あらま。ちょっと立ってみて。 う〜ん。確かに太腿のところに穴があるわねえ。どうしましょう。困ったわねえ。」
「困りましたねぇ。」
「そうだ、太腿のその部分に黒マジックを塗れば、穴は目立たないわ。やってみましょう。」
繕ってはくれないらしい。おふくろは僕をスッ転がしてズボンを脱がし、マジックを手渡した。
「ほら、ちょっと見はごまかせるわ。お見合いでズボンを脱いじゃダメよ。」
「….」
結婚を前提とするお見合いでも、初っ端から、その日のうちにズボンを脱ぐチャンスはないと思う。
「だいたいあなたがこんな遅い時間に帰ってくるのがいけないんでしょ。もう2時間早ければ新しいズボンを買いにいけたのに。」
無茶を言うな〜。仕事帰りだぞ。それでも何か不都合が生じると、悪いのはいつも僕にされるのだ。でも、ここで反論しても時間と体力と精神力の無駄だ。諦めよう。
「先方の写真とか釣書とか身上書はないの?」
「急な話しだから準備が間に合わなかったみたいよ。でも大丈夫。こっちからは就職の時に書いていた履歴書のコピーを渡してあるわ。」
「え〜っ。あのムスくれた顔写真のやつ?」
「だから顔写真は写真屋で撮ってもらいなさい、って言ってたのよ。」
また、悪いのは僕らしい。
その後、おふくろとギャイのギャイのと言い合いながら状況把握を試みたが…全く把握できなかった。オヤジはニヤニヤしつつも気配を消している。あなたはチシャ猫ですか? いや、この状況へ口を出さないのは知者かもしれない。 さすが、オヤジは賢いなあ。
明日はどうなってしまうんだろう。もう考えてもどうしようも無い。久々の実家の布団だ。会社の寮のせんべい布団とは違い、ふわっふわだ。僕は早々に頭から布団をかぶって、眠りに落ちた。
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翌朝、10時ちょうどにお見合いの相手が実家に来た。時報と同時に呼び鈴が鳴った。僕は初対面の相手の登場に緊張して少しあがっている。
「ふぁ〜い」
と間の抜けた声で応じた僕は、玄関の扉を開けた。
そこに立っていたのはニコニコと微笑む理恵子さんだった。びっくりした。びっくりしすぎて思わず扉を閉めそうになった。びっくりしすぎて心臓が止まりかけた。狭間の世界がちらっと見えた。そこでは真理子さんがニマニマしていた。
たっぷり10秒ほど思考停止し凍り付いた僕は、理恵子さんの懐かしい声で再起動した。
「お久しぶり、ミヤサワのお兄ちゃん。」
薄化粧の理恵子さんは『キレイ』かさらに『美しい』人に進化していた。おそらく僕は間抜けな顔をしていただろう。池のコイのように口をぱくぱくと開け閉めしながら、でも何も声が出なかった。
理恵子さんは水田母につれられて来ていた。水田母はおふくろに挨拶すると僕をちらっと見てから家の中にするりと入り込み、おふくろと居間で駄弁り始めたようだ。代わりに僕は家から追い出された。やむを得ず僕は理恵子さんと近所のコーヒーショップへ行くことにした。
こら! おやじ。居場所がないからって付いてこようとするな!
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「懐かしいわね。ここのお店。」
「そうだね。最初のデートはこの店だったね。」
「あの頃はまだ中学生だったから、コーヒーを飲めなかったわ。だからミルクティだったの。」
「僕はブラックコーヒーを飲んだけど。実はかなり苦いのを我慢して、無理していたんだ。」
懐かしい話題から会話は始まった。
「理恵子さんは…美しくなったね。」
「アラ♡ ありがとう。 昔はかわいいって言ってくれたわね。」
「うん。」
「ミヤサワのお兄ちゃんも…なんかお兄ちゃんというよりもオジサンになっちゃったわねぇ。」
「…」
辛辣だが、その自覚はある。
「う〜ん。貫禄がついた…おなか周りが少しふくよかに…ダメ。嘘はつけないわ。 お兄ちゃん!かなり太ったわょねっ!」
少しイラッとした口調で理恵子さんは僕のお腹周りを咎めた。厳しいご指摘ありがとうございます。自覚はある。反論の余地もない。
「うん。イロイロとストレスのかかる状況で太っちゃった。 ゴメン。 幻滅した?」
「謝らなくても良いけど。 それに元々幻想も恋心も抱いていないし、幻滅はないわ。 …これからダイエットするわよ。つきっきりで体重を落としてあげるわ。」
「...えっ?それどういう意味?」
「インフォーマルでも今回はお見合いでしょ? 結婚を前提にした顔見せよ。結婚したらお兄ちゃんのおなかをギューギューに絞ってあげるわ。覚悟して。」
理恵子さんは獰猛な笑顔を浮かべてから、コーヒーを一口のんた。
理恵子さんは大学の家政学部で栄養学を専攻し、管理栄養士の資格を取っていた。昨年、地元の調理師専門学校に就職し、講師をしているそうだ。卒論のタイトルは『高血圧ネズミを使った肥満の研究』だそうだ。どうやら理恵子さんの目には、僕が格好の実験動物、モルモットかマウスに見えるようだ。ネズミを補食しようと舌なめずりしている大山猫が頭の上に乗っている。
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母親ネットワークで疎遠になっていたミヤサワのお兄ちゃんが大学院で博士号をとったこと、会社に就職したことを聞いた。そして、お母さんからミヤサワ母がお兄ちゃんの結婚相手を探していると聞いた。
これはチャンスだ。お母さんに、お見合いの相手に私を推薦してもらえるように根回しをお願いした。幸か不幸か、ミヤサワ君の我が家での評価は悪くない。でもここ5年ほどは我が家に顔を出さなくなっている。 その間に博士号を取った、つまり高学歴になったことは好ましい材料だ。一方でミヤサワ母から『デブった』との不安材料も聞かされている。釣書代わりにもらった履歴書の顔写真は相変わらずのジャガイモだが、縦横の比率が少しおかしい。備考欄にも言い訳がましく『若干肥満』と書かれている。さて、お兄ちゃんはどんな風になっているのだろう。明日土曜日の『お見合い』が恐ろしくも楽しみだ。
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数年ぶりにあったミヤサワのお兄ちゃんは、控えめに言っても、はっきり言ってもデブっていた。どこが『若干』なのか、小一時間問いつめたい。
別に容姿はどうでも良い…いや、良くない。ただでさえジャガイモなのに…一人暮らしで不摂生をしていたようだ。これはいけない。残念な人になっている。それに、これでは長生きできない。今度は私がお兄ちゃんを救う番だ。
そんな予感がして、家政学部の栄養学専攻を選択した私はエライ。お兄ちゃんを真っ当な社会人にできるのは、救えるのは世界中で私しかいない。
それにその服装。普段着でお見合いに臨むかなぁ? しかもズボンには小さな穴があいている。それをどうやってか知らないけど、繕わずにごまかしている。高校生の頃も外出着は制服しか持っていなかったお兄ちゃんの服飾センスが致命的に崩壊している。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
狭間の世界で、僕の前には苦笑いしている真理子さんがいた。
「ミヤサワ君が理恵子とお見合いするとはねえ。」
「いや、僕にも青天の霹靂で…正直、辟易しています。」
「おかん同士の友情を嘗めていたねえ。」
「本当に。」
「でも、理恵子も思い切ったねえ。何もこんなデブったジャガイモじゃなくてももっと優良物件もあったろうに。」
「…本当にねえ。」
少し不快であったが、否定できない。肯定しかできない。
「それにしても、お見合いの席で、もう尻にひかれているんでやんの。プークスクス 」
「…」
やはり不快であるが、否定できない。肯定しかできない。
「でも、まあ、本当に結婚できるのかしら? ゴールは遠いわね。」
「はい、そうですね、お義姉さん。」
「まだ早い。」
真理子さんは少し不愉快な顔を隠さず、ピシャリと僕の棒読み発言を否定した。
次に真理子さんは悪い顔をして服装の不備を指摘した。
「理恵子ね、あなたのズボンの穴を気にしていたわよ。プッ」
「ええ〜? うっそ〜?」
「チラチラ見てたもの。あんな黒マジックでごまかせると思っていたの?」
正直ごまかせるとは思っていなかったけど、指摘されなかったので少しほっとしていたのに。
「って、真理子さん、何で黒マジックを知っているの? あなた、覗いていたの?」
「当たり前よ。こんな面白いイベントを見逃せないわよ。」
開き直りやがった。僕も油断していた。
やがて、真理子さんはため息をついて、
「まだまだね。」
とつぶやいた。何がまだまだなんだろう?でも、僕にはそれを問う勇気がなかった。
27.4歳の1万日目の誕生会は、私が所属していた研究室の風習でした。
火炎旋風は吹き消そうとすると、炎が渦巻き、大変なことになります。まねしちゃダメだよ。
炭酸消火器は、粉消火器などと違い、ノズルを握ったときだけ二酸化炭素ガスが出ます。後に何も残らないので、気楽に使えます。何回も使用できるお勧めです。ただし小さな部屋では窒息のおそれがあります。
お見合いの黒マジックでズボンの穴をごまかそうとしたのはは...ほぼ実話です。だって急に呼び出すんだもの。




