03-真理子さんの物語 <薄い本>
水田さんは特殊性癖のオタクだった。
「あんな本を持っていることがばれたら、もうお嫁に行けない。」
「いや、死んじゃっているから、もうお嫁にはいけないでしょう?」
真っ赤にゆであがった水田さんに冷静に突っ込みを入れてみた。
「で、どうしたいの?」
「こっそりと処分できたら…とは思うんだけど。」
「その薄い本はどこに置いているの?」
「私の部屋の本棚の最上段の辞書の後ろの方…。まだ部屋を片付ける気にはなれないみたいだけど、いつお母さんが部屋を片付けるか…見つかったらどうしよう、と思うと不安で、不安で。」
考えてみれば、僕も危なかった。あの日熱射病で死んでいたら、僕のコレクションや蔵書も白日の元にさらされていただろう。それを想像したらぞっとする。背筋が冷える。パソコンの中のアレなファイルも厳重にパスワードを掛けておかなくちゃ。
「…御愁傷様です。」
「ちょっと、ここまで言わせといて、見捨てるの?」
「でもなんとかするにはミッションの難度が高すぎるよ。」
「なんとかしてよ!」
「なんともならないよ。」
「いっそ家に火をつけて燃やしてくれても….。」
「そこまで!!? そんなことしたら僕の人生めちゃくちゃになっちゃうよ。」
「どうせたいしたこともない、ろくでもない人生でしょう。」
このお嬢様、むちゃくちゃなことを言っている。
「水田さん、冷静になりなよ。どうすれば良いか、冷静に考えよう。」
どうどう抑えて抑えて、といきり立つ彼女をなだめすかした。ところでなぜ『ドウドウ』なのだろう? 頭の中をドードー鳥が駆け抜けていった。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
「さあ、冷静になってかんがえましょ。」
少し冷静になった水田さんが澄ました顔でのたまう。アンタがそれを言うか、と心の中で突っ込む。でも、口に出したらまたつまらない口論が続いてしまう。時間が惜しい。
いや、いっそ時間切れでお母さんによる片付けが始まり、薄い本が見つかってしまえば、彼女の尊厳は失われたとしても、僕の心は静けさを取り戻せる。などと考えていたら、それを見透かすように水田さんはジトッとした目で僕をにらんだ。
「まず、生きているあなたが私の部屋に入り込むことが必要ね。」
「いや、どう考えても無理でしょ!」
そのクエストは難度が高すぎる。
「無理でもやるのっ!」
「どうやって?」
「…『弔問に来た』というのは?」
「正直、僕みたいに冴えないオタクぽい男の子が、自称美少女のお部屋を弔問するというのは、アリ?」
「無しね…。」
会話が止まる。時も止まる。時間よ止まるな〜! ふたりで頭を抱えてしまった。
「ここは私のオタクバレのリスクを取らなきゃダメかしら。」
「オタクバレ?」
「あの本はオタク仲間のあなたから借りていたことにするの。」
「ちょっちょっと。それじゃその本の持ち主は僕になっちゃうよ。僕のプライドがボロボロのズダズダになっちゃう。」
「アンタのプライドなんて、どうせたいしたものでもないでしょ。気にしない、気にしない。」
「気にするよ! 無茶を言うよこの人! その提案を断固拒否する。僕にも矜持はあるんだよ。…ところで、その薄い本のジャンルは?」
「それって作戦を立てるのに必要な情報?」
「必要だよ。あまりにあんまりな内容の本だと僕が風評被害を受ける。」
「言わなきゃダメ?」
水田サンは上目遣いで媚びてくる。
「ダメ!」
しばしの沈黙の後、彼女は小さな声で白状した。
「…ショタ系。」
それを聞いて僕は唖然とする。額に手をあてて空を仰ぎ見た。可愛い女の子なら、まだ行き過ぎたオタ趣味で通るかもしれないが、僕の場合…事案になってしまう。
「…提案を却下する。」
沈黙が場を支配した。沈黙を破ったのは、彼女だった。
「君が私のオタク友達として弔問するの。生前に『万が一何かあったら遺品の形見分けの約束をしていた』とかなんとか、でっち上げて本棚から回収するの。」
「うーん。形見分けではなく、正直に『恥ずかしい遺品の処分を頼まれていた』では?」
「嫌よ。美しくないわ。それに、お母さんが薄い本に興味を持ったらどうするの!」
「どっちにしろ、恥ずかしい本の処分は美しくはないと思うけど。」
「うるさいわ!」
う〜ん。また地雷を踏んだようだ。僕は大きなため息を吐いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
数日後、『遺品』は無事にきっちりと回収できた。しかし、だが、しかしだ。水田さんのお母さんに、
「形見に本を譲り受けたい。」
と、申し出たところ、
「ああ、あの本ね。場所はわかる?」
と、水田さんの部屋に案内され、お母さんは僕が指摘した本棚の最上段の辞書の裏から、なにも迷うこと無く本を取り出し、少し悲しげにでも無理に笑おうとしたような微妙な顔で手渡して来た。
「真理子の尊厳を守ってくれるのね。ありがとう。」
なんだ、バレテ〜ラ。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
「真理子にもあなたのような信頼を寄せられるボーイフレンド?…オタ友がいたのねぇ。」
と、お母さんは何か思うところがあるような様子でしげしげと僕の顔を見た。いいえ、僕はパシリです。水田さんのお母さんに、使いっ走りや下僕とされずオタ友と認識されたのは、不幸中の幸い?であった。それでも、娘の部屋に同級生の男の子を招き入れるなんて、少しばかり無防備に過ぎませんか? まあ、そのおかげでミッションはスムーズに完遂できたのだけど…。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
僕は小さな包みをかかえて、帰宅した。勉強部屋で部屋着のジャージに着替えてベッドに転がり、その薄い本をペラペラと読んでみた。真理子さんから「読むな」とは特に指示されていない。指示されていないよね? 指示されていないから、読んでも問題ないよね? ページをめくるたびに、僕の中の何かが削り取られた。水田さんに対して少しだけ残っていた幻想が砕け散っていった。
そして…どうしよう、この本。これは古紙で捨てられない。そもそも水田さんの遺品として受け取ったものだ。捨てられるわけがない。大きな負の遺産を抱えてしまった。僕は大きなため息を吐いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
しばらくは狭間の世界に行けなかった。そんな気になれなかった。
水田さんの『心残り』は解消されてしまったのだ。狭間の世界に行っても彼女はもういない。そう思うと、あえて狭間の世界を訪れる意欲はわかなかった。
それでも、しばらく後に、僕は狭間の世界で目覚めた。そのとき、最初に見たのは…
「見ぃたぁなぁ〜!」
と、目をつり上げて凄む、修羅の表情で僕を覗き込む真理子さんだった。
こわかった、恐ろしかった、死ぬかと思った。狭間の世界の僕はそのまま気を失った。現世で夜中に飛び起きた僕の心臓は激しくビートを打っていた。悪夢を見た直後のようにひどい寝汗をかいていた。そして、その夜はもうどうしても眠れなかった。




