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親方の娘が誘拐された。
空が暗くなり、神秘的な月明かりが王都を包む頃だった。アイルが最後に店内を掃除していたところ、親方の妻が唐突に店を訪れ、娘がいつまで経っても帰ってこない旨を伝えたのだ。
王都の学園に通っている娘――マリアは、普段ならこの時間にはとっくに帰宅しているらしい。気になった親方は、そこで鍛冶屋の郵便受けに一通の手紙が入っていることに気づいた。
手紙には、身代金の要求が書いてあった。
親方は手紙を握り締めながら、しばらく立ち尽くした。
「……衛兵に相談しよう」
長い沈黙の末、親方は短く結論を出した。
「待って! 告げ口したら、マリアを殺すって書いてあるのよ!?」
「かといって、こんな身代金を払えるわけねぇだろ!!」
半狂乱になった娘の母に対し、親方も我を失った様子で叫んだ。
白金貨五百枚。村生まれ村育ちのアイルにとっては途方もない金額だが、恐らく王都の住民の場合、勤勉な労働者なら一年から二年で稼ぐことができる金額だ。
絶妙な数字だと思った。
きっと親方たちがギリギリ支払える金額だ。
だが、支払えたとしても、その後の生活が保証されるわけではない。
「身代金を支払ったら、明日からどうやって生きればいいんだ!? 家族揃って餓死する気か!?」
要求に従えば、親方たち家族の生活費がなくなってしまう。
知人を頼り、国に相談すれば、数日は耐えられるかもしれない。だがいつまでもは無理だ。やがてこの店を売ることになり、家族は王都を去ることになるだろう。これまで積み上げてきた全てを犠牲にして。
肉体的な死だけでなく、別の意味で死ぬ恐れもある。
「じゃあ、どうすればいいのよ!」
「そんなの、俺にだって分からねぇよ!!」
ここにアイルがいることも忘れて、二人は取り乱していた。
やがて、母親の方は涙を流しながら叫ぶ。
「――貴方が寄付をやめたせいよ!」
親方の顔が曇った。
寄付をやめた。教会へ通うことをやめた。
そのせいで――――神に見放された。
「俺、が…………」
親方が顔面蒼白になった。
そうかもしれない、と思ってしまったのだろう。
自分のせいで神に嫌われたのだと。
「――違います」
アイルは口を挟んだ。
自分は外野であることを承知の上で、これだけは言わねばならないと思った。
「親方が寄付をやめたのは、家族を幸せにするためです」
だから、親方が寄付をやめたせいで娘が誘拐されたなんて、絶対に有り得ない。
有り得てはならない――。
「行ってきます」
「え? ――あ、おいっ!?」
困惑する親方を無視して、アイルは店を飛び出た。
身代金の受け渡し場所まで走って向かう。そこに誘拐犯たちと、親方の娘がいるはずだ。
夜の冷たい空気を切りながら、アイルは王都の石畳を走った。息が上がり、肺が苦しくなるが、今この街で誰よりも苦しんでいるのは攫われた親方の娘だ。走っただけで辛さを訴える己の惰弱な身体が恥ずかしいと思った。
大通りから路地裏に入り、複雑な区画を進んで行く。
寂れた家屋が並ぶ土地の一角で、アイルは柄の悪そうな男たちの集団を見つけた。
「誘拐犯ですよね?」
「……なんだ、てめぇ?」
肯定も否定も必要はなかった。
何故なら、男たちの奥に、手足と口を縛られている十歳くらいの少女が見える。彼女が親方の娘であるマリアだろう。マリアは酷く怯えた様子で震えていた。子供にこんな顔をさせてはならないと、本能が強く訴えた。
「娘さんを返してあげてください」
「金はあんのか?」
「…………白金貨五百枚は、多すぎます」
親方たちは、多分、見た目ほど余裕はない。
今でこそ生活は安定しているようだが、寄付をしていた頃は、家族全員が満足に食べられなかった口振りだった。つまり親方たちは、寄付一つであっさり崩れてしまう薄氷の上で今も生きている。
「代わりに……僕が、出せるだけ出します」
アイルは懐から麻袋を取り出し、手前の男に渡した。
旅立つ際、母親に「いざという時に使いなさい」と言われて渡されたお金だった。本当に、やむを得ない時にだけ使うつもりのお金だったが、今がまさにその時だ。
袋の中身は、白金貨二十枚。
五百枚には程遠いが、それだけあれば王都の中心街でも三ヶ月は家を借りられる。
麻袋を受け取った男が中身を確認した。
アイルは男たちに向かって、頭を下げる。
「お願いします。どうかそれで、マリアさんを返し――」
「――足りるわけねぇだろッ!!」
金を受け取った男に殴られ、アイルは地面に倒れた。
痛い。頬骨が火傷したような痛みを訴える。思わず涙が出てしまいそうになった。
「娘の耳を斬り落とせ」
ゾッとするような低い声が聞こえた。
椅子に座っている強面の男が、アイルを鋭く睨んでいた。
「坊主。俺たちのことを知ってるってことは、鍛冶屋の関係者なんだろ? ……娘の耳を鍛冶屋に持って帰りな。さっさと金を渡さねぇと、次は腕か足にするって伝えろ」
残忍な計画が伝えられる。
マリアの傍にいた男が、ナイフを取り出した。
「へへ……嬢ちゃん、ちょっと痛いけど我慢しな」
「…………っ!?」
下卑た笑みを浮かべる男に、マリアは涙を流しながら恐怖した。
殴り飛ばされたアイル。笑い合う誘拐犯たち。耳を斬ろうとしている男。
少女は縛られた両の手を微かに動かし、指を組む。
震えながら目を閉じた少女は、何かに祈りを捧げ――――。
◆
落ちていたナイフを拾い、アイルはマリアの両手両足を縛っている縄を切った。
最後に口元を縛っている縄を切った後、アイルは手を差し伸べて、マリアをゆっくり立たせてあげる。
「怪我はない?」
「……うん」
「よかった。じゃあ帰ろうか」
アイルはマリアを連れて路地裏を歩き、表通りに出た。王都は夜更けでも賑わっていることがあるらしく、酒場から聞こえる喧騒が耳に届いて、マリアはようやく安心した様子を見せる。
「あの……」
マリアが、歩きながらアイルの方を見た。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
何か言いたそうだったが、マリアは口を噤む。
そんな少女に、今度はアイルの方から声をかけた。
「一つだけ、質問していいかな」
アイルは立ち止まり、少女の顔を見つめた。
「君はさっき、目を閉じて祈っていたよね」
ナイフで耳を斬られそうになった時、彼女は確かに祈っていた。
両手の指を組み、目を閉じ、救いを求めていた。
けれど親方の話によれば、この家族は教会への寄付をやめているはずだ。
ならば、あの祈りは――――。
「あれは、誰に対して祈っていたの?」
そんなアイルの問いに、マリアは少し考えてから口を開く。
「……分からない」
本当に分からなさそうに少女は言った。
祈る相手は決まっていない。いざという時に救いを求める相手は分からない。だがそれでも、彼女が最後の最後に取った行動は祈りだった。両手の指を組み、目を閉じ、天運に身を委ねるという行為を反射的に選択した。
人には、それしかできない瞬間がある。
「そっか……ありがとう」
その後、アイルたちは無言で鍛冶屋まで歩いて戻った。
すぐに衛兵へ声をかけて救助してもらってもよかったが、何よりもまずはマリアを家族に会わせたかった。マリアのためにも、親方たちのためにも。
「マリア!!」
鍛冶屋に帰ったら、親方たちが慌てて駆け寄って来た。
「アイル、お前が助けてくれたのか!?」
「えっと、まあ……」
「ありがとう! 本当にありがとう!」
両肩を激しく揺さぶられ、アイルは「あわわわ」と悲鳴を上げた。
日々の仕事で鍛えられた親方の両手は屈強で、抵抗できない。視界が回る中、やっぱり自分に力仕事は無理なんだろうなぁ……とアイルは思った。
その後、親方の妻にも大袈裟なほど感謝されたアイルは、家族に別れを告げて店を出る。
アイルの背中が見えなくった時、マリアは小さな声で父に訊いた。
「……パパ。アイルさんって、もしかして凄い人なの?」
「凄い? まあ、お前を助けたくらいだし、凄いっちゃ凄いんだろうが……正直、働いている時はそんな頼もしい奴には見えなかったなぁ」
純粋というよりは純朴で、大人しいゆえに無害で、取っ組み合いに巻き込まれたらすぐに負けてしまいそうな雰囲気だが、根は真面目なので信用はできる。そういう、どこにでもいるような普通の少年に見えた。
そういえば、アイルはどうやってマリアを助けたのだろう。
不思議に思う親方を他所に、マリアは夜風に揺れる店の扉を見つめた。
「……あんな凄い人、学園でも見たことないよ」
◆
親方たちと別れ、アイルが宿に到着した頃。
狭い路地裏を、軍服を着た赤髪の女性が歩いていた。
「カーリア少佐、こちらです」
「まったく……王都は話題に事欠かんな。入隊試験の準備が整ったばかりなのだ。少しは休ませてくれてもいいだろうに」
「申し訳ございません。ですが、我々ではどう対処すればいいのか分からない状況でして……」
状況が理解できないので助力を求む、という理解し難い報告を受けたのは先刻のことだ。街の小さな事件に顔を出すような立場ではないカーリアだが、時間帯も相まってこの日は自分以外に出られる者がおらず、困惑する部下の案内に従って現場に急行した。
入り組んだ路地裏を抜けると、廃屋に囲われた広場に出る。
そこで、カーリアは理解できない光景を見た。
「……なんだ、これは」
大の男を丸々押し潰せそうなくらい太い柱が、無数に屹立していた。
縦や斜めなど、鈍色の柱は無造作な角度で地面から生えており、その隙間には身動きが取れなくなった男たちが挟まっている。
「た、助けてくれ……!」
「自首する……! だから俺を、ここから出してくれぇ……っ!!」
柱に挟まれた男たちが、苦悶の声で助けを求めた。
部下の報告によれば、彼らは誘拐犯らしい。以前から王都郊外で色々悪さをしていた集団らしく、余罪の追求も後ほど行われるそうだ。
だが、そんなことよりも――問題はこの柱だ。
カーリアはそびえ立つ柱に手を添えた。かなり硬い。簡単には壊せないだろう。
「鉄の柱……まるで巨大な鉄格子だな。こんな魔法は見たことがないぞ」
「鉄拳殿の魔法でしょうか?」
「冒険者のか? だが彼の魔法は破壊に特化しているはずだ。このように何かを生み出すことはできないだろう。……それに、こんな出鱈目な力はない」
部下が首を傾げた。
叩き上げによって少佐の地位に就いたカーリアは、軍内でも実力主義として有名だった。その性格と職業柄、魔法には詳しい。だから駆り出されたのだろう、と今になって理解する。
「基本的に魔法で創ったものは時間が経てば消える。だがこれは、いつまで経っても消える気配がない。……何か、我々の常識に当て嵌まらない力があるとしか思えんな」
それこそ――――あの塔のように。
連日、観光客で賑わっているあの塔をカーリアは理解できないでいた。いや、カーリアだけではない。魔法に詳しい者ならば、誰だろうとあの塔を不可解に感じている。
不気味だ。そして、神秘的だ。
固唾を呑むカーリア。その正面で、拘束された男が唇を震わせた。
「イシリス……」
柱に挟まって身動きできない男が、何かを呟いた。
男はもう一度、まるで罪を告解するかのように粛々と呟く。
「イシリス、様…………」
男は神の名を呟いた。
それは、祈りのように聞こえた。
或いは――この柱を生み出した人物に対する、畏怖のようにも聞こえた。
ここから2章終了まで、1日1話の連載になります。
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