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荷揚げの仕事が終わったアイルは、すぐに広場へ向かった。
既に空は暗い。石畳の凹凸に躓かないよう気をつけながら走るアイルは、ベンチに腰を下ろすソフィアを発見した。相変わらずフードで顔を隠している。
「ごめん、遅くなって。仕事で一緒になった人たちに夕飯を誘われちゃって……」
「大丈夫ですよ。私も軽く済ませてきましたから」
日も暮れてきたし、できるだけ早くソフィアと合流した方がいいと思っていたが、船長たちに夕飯を誘われて予定より遅い時刻になってしまった。
力仕事を生業にしている海の男たちは強引だった。ソフィアを待たせても申し訳ないし、最初はやんわりと断ろうとしていたが、彼らの一期一会を大切にしたいという情を垣間見て、無碍にするのもどうかと思ってしまったのである。そして次の瞬間には酒場にいた。
「……少し、お酒の臭いがしますね」
「ぼ、僕は飲んでないよ?」
「こっそり楽しむくらいなら構いませんが、あまり羽目を外されると私が怒られてしまいますので、程々にしていただければありがたいです」
こっそり楽しむのは問題ないんだ……。
冗談のつもりで言ったのだろう。微笑むソフィアに、アイルも苦笑した。
「では、宿に向かいましょうか」
ソフィアの道案内に従い、アイルは宿屋に入る。
案内された宿屋は木造建築でこぢんまりとしているが、周辺に酒場などがないためか閑静で落ち着いていた。飾られた調度品を見れば、丁寧に手入れされていることも窺える。王都の賑わいに少し疲労気味だったアイルにとって、丁度いい雰囲気の宿だった。
「部屋を一つ貸してください」
受付のおばさんに、アイルは先程船長から手渡された給料を渡した。
すると、その隣でソフィアも貨幣を取り出す。
「その隣にもう一部屋お願いします」
「ソフィアも泊まるの?」
「ええ。アイル様が進むべき道を決めるまでは、できる限り傍にいます」
ここで一度別れることになると思っていたので、アイルは驚いた。
階段を上がって宛がわれた部屋に入る。一息つくと、隣の部屋に荷物を置いたソフィアがすぐに部屋へ入ってきた。
「来るんだ……」
「まだ眠るには早い時間ですから」
土産話を期待されていることはすぐに察した。
それにしても、ソフィアは室内でもフードを外さないようだ。今この部屋にいるのはアイルとソフィアの二人のみなので、順当に考えれば、ソフィアはアイルにも顔を隠したいことになるわけだが……心当たりがないので詮索もしづらい。
「それで、アイル様。本日の仕事はどうでしたか?」
ソフィアはフードの下でワクワクした表情を浮かべながら訊いた。
「大変だったよ。ソフィアが顔を顰めてた理由がよく分かった」
「まあ……私ったら、表情に出ていましたか」
アイルは今日の経験について、ソフィアに語った。
最後の出来事。あの作業員の男を、不思議な力で助けたことだけは除いて……。
◆
「アイルです、よろしくお願いします!」
「おう、こき使ってやるから覚悟しておけ」
「はい!!」
翌朝。王都郊外の鍛冶屋にて、アイルは早速、親方の指示通りに仕事を始めた。
鍛冶屋と言えば、船の荷揚げに負けず劣らずの力仕事のイメージだが、専門技術の深さという点で明確な違いがあった。鍛冶そのものを素人のアイルが手伝うことはできず、親方もそれは承知の上で、最初から広く浅く手伝ってくれる雑用を求めていた。
「掃除、終わりました!」
この鍛冶屋は工房と店が一体となっているため、客が訪れる店の清掃は毎朝必ずやるらしい。親方に何度か確認してもらい、最初の仕事である掃除が終わった。
「炭の用意、できました!」
店の清掃が終われば、次は工房の雑事をこなす。
王都で店を構えるのは簡単なことではない。親方は鍛冶師としての技術も一流だが、日雇いの扱い方も熟知していた。マニュアル化された仕事内容は、鍛冶屋で働いたことのないアイルにとっても理解しやすい。昨日と比べて、役に立っていることを実感できた。
「水を汲んできます!」
桶に汲まれていた水がいつの間にか減っていたので、足しておく。
テキパキと動くアイルを見て、親方が感心した様子を見せた。
「根性あるな。金に困っているのか?」
「お金にも困っていますけど、それ以上に色んな経験を積みたいと思っています」
そう告げるアイルに、親方は少し考える素振りを見せる。
「……アイル、こっちに来い」
親方はアイルを工房の片隅に案内した。
小さな机の上に、組み立て途中の鎧が置いてある。
「ネジを締めてみろ。こんな感じに……真っ直ぐ、ゆっくりだ」
親方が革製の肩紐を胸当てに取り付けていく。
強面な見た目とは裏腹に、とても繊細な手つきだった。アイルは見様見真似でネジを締めてみるが、胸当てが上手く固定できずガチャガチャと音が鳴る。
「む、むむむ……」
「角度が悪いな。よく見ろ、留め具をつける部分が少し沿ってるだろ? だから、こんなふうに指で押えながら……」
親方が再び手本を見せてくれる。
ネジを回す指よりも、胸当てを固定する指の方に意識を割いた方がよさそうだ。
丁寧に指導してもらったおかげで、二度目の挑戦で肩紐の取り付けに成功する。
「いいぞ、なかなか器用じゃねぇか」
「ありがとうございます……!」
親方は胸当ての調子を軽く確かめた後、壁にかけられた時計を一瞥する。
「昼休憩にするか。そこの椅子とテーブルを外に出しといてくれ」
「外で食べるんですか?」
「晴れの日はな。気分いいぜ」
言われた通り椅子とテーブルを店の外に並べると、親方が籠を持ってきてテーブルに置いた。
籠の中にはサンドウィッチが入っていた。チーズ、果物、芋、干し魚、色んなものがパンに挟まれている。
「かみさんが作ってくれた弁当だ。分けてやる」
親方はアイルにサンドウィッチを一つ渡した。
一口囓り、その美味しさに思わず仰け反る。
「美味しいです」
「だろ? 娘もちょっと手伝ってるんだ」
親方もサンドウィッチを一口囓る。
村で食べていたパンとは大違いだ。村のパンは水気がないからボソボソで、咀嚼する度に口の中が乾いてとにかく食べづらかった。料理の腕ではカバーできない質素な食糧しか手に入らなかった。
「親方の家族は今、どこにいるんですか?」
「かみさんは少し歩いたところにある家。娘は学園だな」
工房や店とは別に、家も持っているらしい。
掃除の際、陳列されている武具や鎧の多さからなんとなく察していたが、儲かっているようだ。
「で、どうだ? 鍛冶師の仕事は」
「楽しいです。何かを作る仕事って、こんなにやり甲斐があるんですね」
「ネジ締めただけでそこまで喜べるなら、お前はこういう仕事が向いてるのかもな」
水筒を傾け、カップに水を注ぎながら親方は言った。
「逆に、客商売っていうか、接客はちょいと不安だな」
「え、どうしてですか?」
「性格が純粋すぎる。見た目も人畜無害の子犬って感じだからな。田舎なら大丈夫だろうが、この街だといつか小狡い奴に騙されそうだ」
子犬……。
アイルは複雑な顔をする。男としては、あまり嬉しくない喩えだった。
「この街には悪い人が多いんですか?」
「少なくはねぇだろうな。うちも何度か盗難の被害に遭っているし」
そうだったのか。
「ここは王都の中でも郊外だから、治安はそこまでよくねぇさ。かと言って、工房から出る音がうるさすぎて、ここにしか店を構えられないし……」
鍛冶屋も楽ではないようだった。
王都は広い。この巨大な街で、全区域の治安を維持するのは難しいのだろう。その点、アイルが過ごしてきた村は人口が少ないゆえに、相互扶助の精神が働いて犯罪が抑止されているのかもしれない。生活に余裕がないため、村から追い出されたら死んでしまうという恐怖こそが真の抑止力かもしれないが。
家族は幸せにしているだろうか。
村での日々に思いを馳せたその時――アイルたちの目の前を、真っ白な服を着た人たちが横切った。
「あの服……」
「ありゃあ、神学科の生徒だな」
神学科……つまり神学校のことだろうか?
となれば、アイルが目指している道の先達たちに違いない。
だが彼らの様子はお世辞にも、気品と自信に満ちた先達らしいものとは言えなかった。アイルは遠ざかっていく彼らの背中をじっと見つめる。
「なんていうか、暗い顔をしていましたね」
「無理もねぇよ。教会が焼けちまってから、イシリス教徒はすっかり影が薄くなっちまってる」
「え?」
アイルは目を見開いた。
今、何か、衝撃的なことを言われた気がする。
「教会が、焼けた?」
「知らねぇのか? 獄炎の日って呼ばれている事件だ。……ある日、何の前触れもなく教会が全焼してな。隣の修道院にも火は燃え移って、夜中だってのに空が真っ赤になるほどの大惨事になった。死人も信じられないくらい出たそうだ」
よほど酷い事件だったのか、親方は顔を顰める。
「人的被害が酷すぎて、教会はしばらく寄付すら受け付けられない時期が続いたんだ。一年くらい経って、どうにか立て直すことはできたが……」
親方は、微かに言葉を選んだ。
「……寄付を再開した住民は、半数にも満たないそうだ」
親方は静かに告げた。
アイルはもう一度、遠ざかっていく白服の人間たちを見る。
途端に、彼らが風前の灯火のように見えた。
「俺も寄付を辞めた一人だ。……これでも元は敬虔な信徒だったんだぜ? 毎朝の祈りも欠かしたことがなかった。でもな、教会が焼けた時にこう思ったよ。ああ、俺らが信じていたものって、こんな一瞬で消えるんだなって」
当時の心情を鮮明に思い出したのか、親方は虚しそうな顔をした。
「親方にとって、神様はもう必要ないということでしょうか?」
「ば……っ!? お、お前、あんまりそういうことを表で言うな!」
親方が慌てて周りを見た後、声を潜めて注意した。
「……別に信心をなくしたわけじゃねぇさ。ただ、寄付を止めた途端、うちの家族がちゃんと飯を食えるようになったんだ」
親方は溜息を吐き、その手に持つサンドウィッチを見た。
きっとそれは、かつては口にできない食事だったのだろう。
「理由は分からねぇぜ? 分からねぇが、そういうことだ。寄付をやめたら、何故か皆、幸せになったのさ」
そう言って、親方は半ば自棄になった様子でサンドウィッチを囓った。
本意ではなかったのだろう。だが寄付を止めた途端に家族が幸せになり、他の家庭でも同様のことが起き、やがてそれは一塊の大きな流れとなって、この街を飲み込んだ。
決して逆らえない時代という名の流れに、親方は飲まれたのだ。
ならば、アイルたちの目の前を横切った白服の子供たちは、何をしているのだろうか。
彼らは今も流れに逆らおうとしているのだろうか。
それとも、流れに従う準備をしているのだろうか。
「そろそろ仕事に戻るか。椅子とテーブルを工房に戻しといてくれ」
「分かりました」
昼食が済んだので片付けを始める。
白服の子供たちは、既に姿を消していた。
◆
その日の夜。
一通の手紙が、親方のもとへ届いた。
内容は実に簡潔だった。
――娘は預かった。
――返してほしければ白金貨500枚を用意しろ。