5
日が暮れ始め、空が橙色に染まった頃。
作業員の男は黙々と荷物を船から運び、陸に積み上げていた。
「くそ……出航が今日でなければ、俺一人でも……」
できたかどうかは怪しい。
妹の治療費を集めるためにも、できるだけ迅速に多くの金を稼がねばならなかった。船長もそれを知っているから、ここ最近はなるべく多くの仕事を割り振ってくれている。それでも今日の積荷はいつも以上に多かった。日雇いがいなければ、出航まで間に合わなかった可能性も――。
いや……そんなことはない。
ひ弱な子供だった。いかにも上京したての、右も左も分からなさそうなガキだった。
実際あのガキの労働力は大したことがなかった。船長との会話が偶々聞こえたが、この手の仕事も初めてだと言う。あんなガキがいなくても、自分が普段以上に頑張りさえすればきっと荷揚げは間に合っただろう。
「くそ……っ」
腹が立つ。
自分はこんなにも一生懸命なのに、どうしてあんなガキにも金が払われなくちゃいけない。
邪魔だった。
イライラした。
そんな気持ちのまま、仕事をしていたからか……。
「あっ」
積み上げた荷物がぐらりと揺れる。
しまった――。
咄嗟に脳裏を過ぎったのは、積荷の破損ではなく、病に伏せている妹の顔だった。
これだけの荷物が破損すれば、確実に職を失ってしまう。そうなると妹の治療費を稼ぐことが困難になる。
男は好きに仕事を選べる立場ではなかった。王都の中でも貧民街と揶揄される場所で育った男は、品性を学ぶ機会に欠け、野性的な人生を送ってきた。大人になってから己の素行不良が足枷になると知ったが、気づいた頃にはもう遅かった。既に噂は広まっていて、労働斡旋所で仕事を受けようとしても、いい条件の仕事ほど名指しで拒否されることが多かった。
この職場まで、失ってしまえば――。
俺にはもう、居場所が――。
崩れる荷物の中で、男は棒立ちになった。
妹は治せない。
仕事も失う。
なら、もういっそ、このまま押し潰されて死んだ方がマシ――――。
「――大丈夫ですか?」
少年の声が響いた。
いつまで経っても荷物が崩れ落ちない。
不思議に思った男が、恐る恐る顔を上げる。
「な……っ!?」
倒れそうになっていた荷物たちは、宙に浮いていた。
ふわふわと宙に漂う荷物を見て、男は驚きながら振り返る。
そこには、ひ弱そうな子供――アイルが立っていた。
「お、お前、魔法使いだったのか……!?」
男は驚愕しながらアイルを見る。
アイルは何も言わなかった。その沈黙に、男はある種の凄味を感じる。
「そ、そんな力があるなら、最初からそれを使って手伝えば……っ」
「……限界です」
「は?」
「もう、限界……です……」
よく見ればアイルの全身がぷるぷると震えていた。
宙に浮いていた荷物が、ゆっくり地面に下ろされる。
「ちょ、ちょっと待てぇ!?」
荷物はゆっくり下ろされたため、破損することはなかったが……男は大きな木箱の下敷きになった。
◆
「すみません」
積荷の下敷きになった男を引っ張り出した後、アイルは申し訳なさそうに謝罪した。
「……お前のせいじゃない。むしろ、お前のおかげで俺は仕事を奪われずに済んだ」
簡単に礼を述べられるほど、男はまだこの少年に心を開いてはいなかった。
だが、胸の内は清々しかった。いつの間にか怒りが消えている。今日一日の不満が全て馬鹿らしく思えてきた。
「お前、どのくらい魔法を使えるんだ?」
「ほとんど使えません。さっきのは、その、火事場の馬鹿力みたいなものです」
「だとしてもすげぇよ。普通の人間は、ちっせぇ火花を出すだけでも満身創痍になるんだぜ」
だからこそ、魔法を使いこなせる者は、魔法使いと呼ばれて畏怖される。
人間の体内には誰しも魔力というものが宿っている。この魔力を消費することで、人は魔法という神秘を行使できるわけだが、大抵は魔力が充分ではないため碌な魔法を使えない。
ほとんどの場合、魔法なんかより道具を使った方が効率的だ。
例外は、並外れた魔力を持つ魔法使いのみ――。
「……なんで、こんなところで働いてんだよ」
さっきは、魔法を使えば荷物なんて簡単に運べただろうと思ったが、よく考えたら魔法使いがこんなところで働いている時点でおかしいのだ。
「ここで働くのは、魔法使いらしくないですか?」
「当たり前だろ。そんな力があるなら、他にもいい仕事はいくらでもある」
どこに行っても引く手数多なのが魔法使いという才能だ。
この少年は、男とは違う。多くの人に求められている。
「でも、それじゃあ……ここにいる人たちの助けにはなりませんよね」
少年は悲しそうに告げた。
その言葉を聞いて、男は己の耳を疑う。
――こいつは何を言ってるんだ?
それだけの力があって、何故、こんな底辺の世界を慈しむ。
こんなところにいるべき人間ではないはずなのに、何故、まるで隣人のように寄り添える。心を痛めた友を慰めるように、出会ったばかりの他人を思い遣れる。
こいつは、本当にただの魔法使いなのか……?
何か、もっと、偉大な存在なんじゃないか……?
理由は分からないが、男の両目が涙で潤んだ。
社会の底辺を彷徨っていた男は、かつて何度か、目の前の少年のように力を持っている人間を頼ろうとしたことがある。
だが全て、取り付く島もなかった。
男は知った。力を持っているからといって、それで社会をよくしようなんて健気な考えを持つ人間は一握りであることを。金持ちだって、気まぐれに寄付することはあっても、自分の贅沢より人助けを優先する者は決していない。
力を持つ者は、手を差し伸べてくれない。
差し伸べることがあったとしても、それは信用できない気まぐれのみ。
ずっと、そう思っていたが、この少年は――――。
この、光のような少年は――――。
「…………アイル、だったな」
男は少年の名を呼んだ。
まるで己の胸に刻み込むかのように、丁寧に。
「昼間は悪かったな。嫌な態度を取って」
「いえ、気にしていません。僕が足を引っ張ったのは事実ですから」
「……お前は本当に変な奴だな」
最初から不平不満を抱えていたのは男だけだった。
敵わんな、と男は心の中で呟く。
「仕事、探してんのか? ……明日も来るのか?」
「いえ、明日は他のことをしようと思います。満足に結果を出せなかったのは申し訳ないですけど、色んな経験を積みたいので……」
「それがいい。お前はここに長居するべきじゃない」
確信がある。このまま少年がここで働き続けると、きっと少年はその力で男たちを助けてくれるだろう。それこそ、いくらでも。求めれば求めるだけ助けてくれるはずだ。
だからこそ、引き留めていい人間ではない。
こんなふうに思ったのは生まれて初めてだった。――この少年は助けてくれる。《《だからこそ》》ここにいてはいけない。
彼にはもっと相応しい世界がある。
彼の居場所は、ここではない。
「次、何するのか決めてんのか?」
「まだです。でも明日は絶対に筋肉痛なので、力仕事は控えようと思います」
「知人のやってる鍛冶屋が雑用を募集している。紹介してやろうか? あいつは面倒見がいいぜ」
「いいんですか? じゃあ、お願いします!」
深々と頭を下げる少年を見て、男は思わず笑った。
なんだよ、捨てたもんじゃねぇな世の中も。
最後にもう一度だけ泣きそうになった男は、目尻を指で押えながら、誤魔化すようにケタケタと笑った。