二つ目の願い事 前編
聞いてくれよと朝から元気な友の声が聞こえた。
挨拶しながら何だよと聞き返す。
十中八九あのことだとは思うが。
「すごいんだよ!これが!」
「だから、何だよ」
「治ったんだよ!脚が!」
それからゆうきは家に帰って、ゲームしてたらベッドで寝落ちして、朝起きたら治っていたことを教えてくれた。
目が少し赤くて腫れぼったいのはそのせい、ということにしておこう。
「よかったな。監督には怪我のこと言ったのか?」
「いや、まだ。今日の部活のときに言おうと思ってたんだ」
「じゃあ言わなくてよくなったな」
「そうなんだよ、それにしてもなんでよくなったんだろ、絶対一日で治る感じしなかったんだよ。母さんと父さんに言ってもめちゃくちゃ怪しまれた。俺がウソついてるんじゃないかって」
「まあ、良くなったんならいいんじゃない?」
これ以上話を続けていたらボロがでそうだ。
「あ‼昨日帰りにお参りした神社!あれが、」
「ゲームってなんの?」
俺はあえてその話題に触れた。
「え?ゲーム?」
「昨日の夜したんだろ?」
「え!そうそう!あー、なんだっけな、忘れた」
ほんと、ごまかすの下手だよな。
ふーん、と言いながらそれ以上は何も言わないでおいた。ごめん、と心のなかで謝りながら。
空を見上げるとどんよりとした雲がどっしりと浮いていた。
「もうすぐ梅雨だな」
「そうだな」
父の命日の季節で嫌いな季節だ。
いつもと変わらない日だった。朝起きて、母さんが作った朝食をみんなで食べて、ただその日はちょっと寝坊したから急いで学校に行った。父からは行ってらっしゃいと背中越しに声をかけられたことを覚えている。
五時間目の日本史の授業のときだった。眠たくてクラスの大半が寝ているときにいきなりガラッと教室のドアが開いた。事務の職員さんが蒼白した顔で先生を呼び廊下に連れて言ったあと、教室に戻ってきた先生が俺の方を見て「今すぐ校門に行きなさい」と言った。授業中寝ていても怒らないような先生の切羽詰まったような必死な表情が今でも鮮明に思い出される。
病院に着くと母の化粧が涙でぐちゃぐちゃになっていて、父の顔にはタオルが被せられていた。
俺は何が起こったか分からなかった。
思い出すだけで気分が沈む。
「早く来いよー」
ゆうきが俺を呼んでいた。
玄関の扉を開けると店が薄暗かった。閉店しているはずなのにただいまと言っても返事がない。二階に上がると母さんが机に突っ伏して寝ていた。
起こそうと思い口を開きかけたが、時間まで三十分ほどあることに気づきそのままにしておくことにした。椅子にかけてあるひざ掛けをそっと肩にかけた。
この時期になると、母さんは夜眠れなくなるらしい。はっきりと聞いたわけではないが、夜中に消音のテレビの音が聞こえたり、トイレの水が流れる音がよく聞こえる。あと、化粧で隠してるつもりかもしれないが、目の下の隈が少し濃い。「眠れないの」と聞けば分かることなのだが、聞けずじまいで今日まできた。
「みつるー、かえってきたのー?」
時刻はちょうど三十分経っていた。
「みつる、今日は何を持ってきたんだ」
神様が鳥居から飛び降りる。
「チーズケーキ」
そう言って、箱を差し出す。
昨日、母に教わり自分で復習したものだ。
「な……‼なんと大層な食べ物を」
神様があんぐりと口を開け、ポカーンとしていた。
「何言ってんだよ、たかがチーズケーキだろ」
「何を言うておる‼お主、ちいずの貴重さを知らぬのか!ちいずはあの醍醐天皇の大好物、庶民が簡単に手に入るなどと」
「いったいいつの話をしてるんだよ。今は誰でも手に入るってーの。そんなことよりほら、食うの?食わないの?」
俺は紙皿とフォークを差し出した。
「……食う」
神様は大人しくそれを受け取った。
「この前はありがとうな」
「別にあんなこと造作もないことよ」
神様がケーキを一口食べる。
「それでも、感謝してる」
今日はそのお礼に来たのだ。
ゆうきが元気になってくれたことが嬉しかったから。
「お主は変わっておるな」
神様が遠くを見ながら言った。
「え?」
「大抵の人間は無茶難題を言ってくる。過去を変えてくれ。未来を教えてくれ。死者を生き返らせてくれ。あいつを殺してくれ。あとは、お金持ちにさせてくれ。が多いな。人間の欲にまみれたものばかりだ。それなのにお主は友の怪我を治してくれときた。これまで叶えてきた願いで一番…楽勝だったな」
「楽勝で悪かったな」
それからは今までどんな無茶難題を言われたのか、それをどう華麗に叶えてきたのかの自慢話を聞かされた。
俺はそれを聞き流しながら、大口でケーキを頬張る神様を横目に見ていた。
「ところで、お主は欲というのがないのか?」
最後の一口をフォークに刺しながら問う。
「……あるに決まってる。そんなの」
神様が意外そうな顔をする。
「なんだ、あるのか」
「当り前だろ、ない方がおかしい」
「言うてみろ、今なら何でも叶えてやるぞ」
神様がニヨニヨしながら言った。
「言わねー」
その顔にムカッときた。
「ふーん、まあ良い。これ美味かった。ごちそうさま」
神様がそう言うと、紙皿とプラスチック製のフォークを当たり前のように俺に差し出した。
ジメジメした空気が吹き、境内の木々の葉がザワザワと揺れている。
「なあ…あんた、どれくらい長く生きてるんだ?」
神様が俺を見たあと、空を眺めた。
「……もう、覚えてないな、五百年は経つんじゃないか……?」
「…長いな」
「そうか?神様界ではまだまだピチピチ五百歳だ。千年、五千年の神もいるからな」
神様は右目の横でピースサインをする。それはまるで二十代の陽キャの大学生を連想させた。
「そんなもんなのか」
俺はクスッと笑った。
「そんなもんだよ。年齢なんて。あっという間に過ぎる」
神様が犬のように大きな口であくびをしながらそう言った。